復活祭はキリスト教最古最大の祝祭日です。もしも復活のキリストと出会わなければ弟子たちは教会をつくろうとはしなかったことでしょう。もしも十字架で殺されたイエスをキリストと信じる信仰がなければ、キリスト教は存在しなかったでしょう。他の唯一神教(ユダヤ教やイスラム教)と比べて何が最も特徴的かといえば、復活信仰です。贖罪という考え方はユダヤ教にもあります。神の子の復活という内容こそがキリスト教の独自性です。
主イエスが日曜日の朝によみがえらされたということに因んで、わたしたちは日曜日を「主の日」と呼び、毎週日曜日に礼拝をしています。わたしたちの礼拝は復活された方が目の前にいることを信じて行うものです。超越的な神を毎週礼拝するという点では、イスラム教徒もユダヤ教徒も行っています。しかし拝む対象が、復活者であるという点が異なるのです。史実としてクリスマスがなくてもキリスト教は成立しました。パウロの手紙にもクリスマスはありません。しかし復活信仰がないキリスト教はありえない。十字架をどのように捉えても構いません。十字架の解釈は幅のある話です。その一方で「十字架で殺された方を神がよみがえらせた」という内容は、ど真ん中の要件です。
この復活信仰はわたしたちの人生に何をもたらすのでしょうか。最初の信徒たちの立ち居振る舞いから改めてとらえ直していきたいと思います。
9 さて一週間の初めの朝早く(彼は)起き上がって、彼はまずマグダラのマリア――彼女から彼は七つの悪霊を追い出したのだが――に見られた。 10 この彼女が行って、彼女は彼と共にいた者たちに告げた、(彼らが)泣き続けまた叫び続けている時に。 11 この彼らは、彼が生きていることと彼が彼女に見られたということを聞いて、不信だった。
マルコ福音書の元来の終わりは16章8節です。空の墓物語はイエスの復活を消極的に伝えています(1-8節)。福音書という独特の伝記を創作した著者マルコは、あえて復活者の姿を見せないことで、読者をもう一度最初から読むように促しています。著者マルコは使徒言行録に登場する、国際派の方のエルサレム教会の中心人物です(使徒言行録12章12節)。マルコ福音書の最初の読者たちは、執筆当時マルコが属していた教会の信徒たちと礼拝に集う人々です。多分ガリラヤにあった複数の家の教会によってマルコ教会は成っていたと思います。マルコ教会の人々は毎週福音書を礼拝で読んでいました。その教会にとっての正典(礼拝で用いられる神の言葉)はマルコ福音書です。みことばは「ガリラヤに行きなさい。そうすれば復活者に出会えるから」(7節)と促し、「福音を信ぜよ」「私の後ろを歩け」というガリラヤでの教えに立ち帰らせます(1章14-20節)。クリスマスもなく、明確な復活証言もない物語の循環こそ、マルコ福音書の真骨頂です。
9-11節は、ヨハネ福音書20章とほぼ同じ内容です。12-13節はルカ福音書24章、14-18節はマタイ福音書28章、19節は使徒言行録1章と重なっています。本日は複雑な付加えの経緯をあえて単純化してお示しします。つまり、ヨハネ教会やルカ教会の信徒たちがガリラヤに引っ越してきてマルコ教会に転入会した時に、これらの付け加えが起こったというように歴史を再構成します。これは一つの楽しい推測です。
聖書という信仰証言集に自分の証言を付け加えていく行為は、復活のイエスに導かれた教会形成の道です。豊かな相互行為です。著者マルコの元来の意図からは離れていきますが、創造的な営みが付け加えによってなされ、マルコ福音書は新しい書物となりました。一人の人が教会に加わるだけで教会が「新しい体」となることに似ています。さらに言えばマルコ教会信徒はマルコを絶対の権威(神)としないで建設的に批判できる人々だったとも言えます。大切な本文に書き加えて、「この本は、このままではこの時代にあっては不十分ですよ」と告げているからです。
9-11節を付け加えることは、空の墓を見た三人の女性たちのうち、マグダラのマリアだけが「復活者イエスの目撃証言者」となるということです。8節の女性たちが黙っていたという記事に矛盾します。復活者は「見られなかった」ではなく「見られた」となります。マグダラのマリアだけを目立たせています。この付加はヨハネ福音書の立場を、マルコ福音書が受け入れたという現象です。それはヨハネ福音書を礼拝で重視して読むヨハネ系列の教会と、マルコ福音書重視のマルコ系列の教会との調和です。ヨハネはマルコに対抗心をむき出しにして福音書を書きました。「自分の方が細かいことを詳しく知っている」と主張しています。マルコ系列の教会にとってはいちいち挑発的なのでヨハネ福音書は面白くありません。
しかしイエスを復活者として信じる信仰は、マルコ教会とヨハネ教会の対立を和らげ、両者を調和させていきます。「1節と矛盾しているけれども構わない」「マグダラのマリアが最初の証言者でも良い」というおおらかさがマルコ系列教会に次第に与えられていきます。この寛容さが復活のイエスを信じる信仰の実りです。毎週の礼拝実践が、寛容な生き方へと導くのです。なぜならマルコ系列教会の礼拝は、キリスト教国際派の流れを汲んでいるからです。著者マルコはパウロと喧嘩別れをしましたが、バルナバとアンティオキア教会の薫陶を受けている人物です(使徒言行録12章25節)。元来マルコ教会は多様性を喜ぶことができる教会です。
ユダヤ人だけではなくギリシャ語を使う人々もマルコ教会にはいました。「ガリラヤへ行こう」という合言葉を、彼らはギリシャ語で書かれたマルコ福音書に基づいて言い合っています。そのギリシャ語はユダヤ人が書いたアラム語なまりのギリシャ語です。おかげで分かりやすい。子どもが分かるギリシャ語です。大人も子どももマルコ教会にはいたことでしょう。ギリシャ人だけでなくユダヤ人も、ギリシャ語が苦手な人も入りやすい礼拝です。
たとえば「復活のイエスを見た最初の人はマグダラのマリアだったと信じているのですが」と言う、ヨハネ系列教会の信徒がマルコ教会の礼拝に来るようになったとします。「そういう主張はうちの教会では困るんだけれど」と思いながらも、毎週礼拝を共にし続けました。排除する理由もないからです。「平和の挨拶」を交わしているうちに、「まあどちらでも良いか」となっていきます。双方とも毎週同じ聖書を読み、同じ方の名によって祈り、大声で賛美をし、一緒にイエスの復活を目撃し、日常生活では復活者を証言しているからです。すなわち世から離れて主日礼拝を捧げ、世の間でキリストに従う生き方をしている「キリスト者」「同労の友」だからです。復活のイエスの霊が魂と魂とを結びつけます。お互いを通して、復活のイエスを見ることになります。「マグダラのマリアが最初に主を見たとしても良いかも。見なかったというよりも毎週励みになるから」。マルコ教会が変えられます。
「正典に16章9-11節を付け加える」という執事会提案が、マルコ教会総会で可決します。著者マルコの目の前で、バインダー形式のパピルス紙が末尾に付け加わりました。「来年のイースターにはこの箇所も含めて読もう」とマルコ教会の人々は決議を喜びました。
そこへ「イエスはマグダラのマリアから七つの悪霊を追い出したと信じているのですが」と言う別の信徒たちが、小アジア半島からガリラヤに引っ越して来ます。ルカ系列教会の信徒です(ルカ福音書8章2節にのみある情報)。ギリシャ語で礼拝をしている教会を探してマルコ教会に訪れたようです。
ルカ福音書の著者ルカもまたマルコに対抗心を露わにしていました。「マルコよりも自分の方が順序正しく福音書を書ける」という具合に(ルカ福音書1章1-4節)。マルコはパウロと喧嘩別れしましたが、ルカはパウロを終生支援しました。マルコ教会はルカ教会にも距離があります。しかしヨハネ系列を受け入れたのでしょうがない。マルコ教会の人々は、ルカ教会が保持している細かい情報も受け容れます。臨時総会が開かれ、9-11節の一部修正が提案されます。そして、「――彼女から彼は七つの悪霊を追い出したのだが――」が、福音書に書き込まれます(9節)。
12 さてこれらの後、歩き回っている彼らのうちの二人に、彼は異なるかたちにおいて見られた、畑へと歩きながら。 13 この彼らは去って、彼らは残りの者たちに言った。彼らは彼らをも信じなかった。
マルコ教会員となり毎週の礼拝に参加するようになった元ルカ教会の人が声を上げます。「毎週の礼拝で行っている晩餐に足りない要素があるのではないですか。五千人の給食や最後の晩餐だけではなく、二人の弟子が復活の主と夕食をしたという要素も盛り込んでください」(ルカ福音書24章)。マルコ教会の人もヨハネ教会から来た転入会員も初耳の情報です。「エマオの宿屋の晩餐は、すごく良い話だね。見えているけれども分からず、分かった瞬間見えなくなった。これは空の墓にも似ているし、ヨハネ福音書のガリラヤ湖で朝ご飯を食べる記事にも似ているね。復活者を見たという証言でもあるし、見ないで信じる大切さも伝わるよ。正典に書き加えよう」。
系列は異なっていても、この人たちは共通して愛餐と晩餐が一体化した礼拝をしていました。その食卓に復活のイエスがいる。その方に倣って互いに給仕をする。この実践を毎週行っていたので、元ルカ教会員の提案に対して「良い考えだ」とすぐに合意できたのです。次の教会総会で、教会員提案がなされ、12-14節がマルコ福音書の末尾に付け加わりました。毎週の礼拝がさらに楽しみになります。晩餐の場面でもイエスの復活を実感できるようになると期待されるからです。別系列の復活信仰が共鳴し合い交わりの中で豊かになり、それが正典の内容に反映され、礼拝に還元されていきます。
これらの創造的な楽しい雰囲気を、子どもたちをはじめとする礼拝参加者は感じ取ります。イエス・キリストの復活を信じている人々は、こんな風に教会という交わりを創り出しているのだと知ります。異見を排除せずに包含して付加していく構えです。開かれた明るさと言って良いと思います。人生を豊かにするのは閉ざされた暗さではなく、開かれた明るさです。さまざまな角度からもちよられる、あそこで復活のイエスさまを見たという証言。それらすべてについて「良いね」と言える心を養いたいと願います。
今日の小さな生き方の提案は、マルコ教会が持っている寛容で軽快な姿勢、開かれた明るい雰囲気に学ぶことです。十字架に力点を置く信仰は深い慰めや反省を与えますが暗く重いものです。人生の一面を救いますが全ては掬いきれません。八方ふさがりの壁の中、窮地から救い出すのは方々から吹き込む風です。壁すら突き抜ける復活者の出現です。屋根を剥がすユーモアです。室内なのに天を仰ぐ突き抜けた体験。あそこにもイエスが居たという喜びの知らせ。さまざまな人の往来、目からうろこの驚き、根元から揺さぶられる出来事。これらを自分の人生の一ページに付け加え、わたしたちは復活を経験します。イエス・キリストの復活を祝い、自分の人生を明るく開きましょう。