イエスの栄光を見る ヨハネによる福音書12章37-43節 2014年4月20日

今日申し上げたいことは一つだけです。それは、「見ないのに信じる人は、幸いである」ということです(20:29)。結局、ヨハネによる福音書の言いたいことは、この一言に尽きます。そしてこの言葉は、復活のイエス・キリストを信じる意味をも説明しています。復活祭・イースターとは何のためのお祭りなのでしょうか。突き詰めれば、見ないで信じる信仰のために、わたしたちは毎年イエス・キリストの復活を記念してお祝いしていると言えます。今わたしたちは見えない神を信じて礼拝をしています。ここに復活のイエスが居ると信じているわけです。そしてこの場での礼拝だけではなく、見えないものを信じるという生き方に価値があります。見ずに信じる者は幸いなのです。今申し上げた大枠を頭において、これからの話をお聞きください。

十字架で殺された死刑囚イエスが神によってよみがえらされた神の子であるということが、キリスト教の信仰の中心です。このことを信じている人をキリスト者/クリスチャン/キリスト教徒などと呼びならわします。実際は他にも定義の仕方はありえますが、ひとまずこの考え方につきあっていただきます。その上で、ヨハネ福音書の著者は人間を四種類に分けます。①イエスを見ても信じない人、②イエスを見て信じる人、③イエスを見ないで信じる人、④イエスを見ないし信じもしない人の四種です。信じる/信じない、見る/見ないの組み合わせが四通りあるからです。

福音書著者ヨハネは人間を、男性か女性か、大人か子どもか、ユダヤ人か非ユダヤ人か、金持ちか貧乏な人かなどでは差別をしません。今まで見てきたとおりです。今日の箇所でも「議員の中にもイエスを信じる者が多かった」(42節)とあります。つまり、イエスを目の前にしてどのような態度をとるか、信頼するかしないかで、人を分けます。または、目の前に居ないイエスを見るか見ないかで、人を分けます。それが先程の四通りになります。そして著者のおすすめは、③イエスを見ないままイエスを信じる人になりましょうというものです。④見もしないし信じもしない人というものを、著者は想定していません。聖書というものは信者が編纂していったものですし、信者にとって益になるように考えられているからです。こういうわけですから、わたしたちは①②③のグループについて、今日の聖句から読み解いていきましょう。

37節に「このように多くのしるしを彼らの前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」とあります。この「多くのしるし」は、1章から始まって12章まで来ている福音書全体に書かれている、イエスの行った奇跡のことを言っています。この信じなかった人々は、①のグループです。見ても信じない人々です。ファリサイ派などのイエスの敵にあたる人々が①の典型例です。

第一のグループは昔から多かったし、その存在は昔から予想され得るということを言いたくて、700年以上も前の預言者イザヤの言葉を、著者は引用したのでしょう(38-40節)。ここには「保守」という態度の問題があります。新しい出来事に心が開かれていない生き方の問題性です。人は新鮮な驚きによって活きるものです。冷笑主義や、絶対に自分は変わらないという頑なな構えは、生命力を衰えさせます。わくわくしないからです。

なぜ大人になると時の過ぎるのが早く感じられるのか。脳科学の答えは「新鮮な驚きが減るから」というものなのだそうです。無感動な人には人生は短く感じられ、ささいなことに感動する人・新しい出来事に期待する人は永遠という長さのいのちを生きることができます。「見ても信じない」という構えからの脱却が望まれます。このことは狭い意味でキリスト信仰を持つか持たないかよりも、広い意味の生き方のお勧めとなります。

第二のグループは、見たら信じる人々です。その代表例はイエスの弟子たちです。また、イエスの不思議な行いを見て信じた群衆です。この群衆は弟子にもなるのですから、弟子と群衆の両者は同じグループです。前から申し上げている通り、しるし=奇跡を見て信じる人々をイエスは決して信用していません。しるしを見て弟子になるような人は、イエスがしるしを行わないならば、またイエスに従う利得がないならば、いつでも離れてしまう人でもあります(6:66)。

この問題性はユダヤ人男性の集団である「十二弟子」についてもあてはまります。彼らも軍事的英雄ではないイエスを裏切り・引き渡し、逮捕の際に奇跡的な仕方で逃れず無力にも捕まっていったイエスを見棄てたのです。自分たちに利得がない、かえって危険要素となる時に、十二弟子はイエスを売り渡しました。ヨハネ福音書においては、最後の晩餐で十二弟子とイエスは契約を交わしていません。また十字架のもとに十二弟子は居なかった、「愛する弟子(=著者ヨハネ)」と四人の女性弟子だけが居たと、ヨハネ福音書は語ります(19:25-26)。ヨハネ福音書だけが、ヨハネを十二弟子に数えいれていません。彼は十二弟子と一線を画し、ペトロを頂点とする十二弟子を批判しています。42節に登場する会堂追放者となることを恐れて「イエスが主である」と信仰告白できない議員たちと、本質において十二弟子は変わるところがありません。

見て信じる人は、見て恐れる人でもあります。順風満帆な時には「キリスト信仰のおかげで幸せだ」と喜び、一旦嵐に遭遇すると「もっとご利益のある信仰/生き方に移ろう」と考えてしまう人です(43節)。

また、見て信じる人は、こけおどしを好む人でもあります。自分はイエスを見た、生前のイエスと行動を共にしたということは、初代教会においてユダヤ人男性十二弟子の持つ特権的自慢でした。それはパウロを苦しめた嫌らしい権威主義です。「その類の権威主義をこそイエスは批判した」と著者は信じて、福音書を書いています。ヨハネ福音書は十二弟子の筆頭ペトロがもっとも活躍しない福音書です。アンデレと匿名の弟子(著者ヨハネか)が一番弟子です。国際派のフィリポが活躍し、サマリア人女性・ギリシア人とイエスの直接交流も記します。

見て信じる人は、見なければ信じない人でもあります(20:25のトマス)。確かに自分の目で確認し自分の頭で判断することは良いことです。しかし、そこにこだわると大切なことを棄ててしまうかもしれません。それは「良い噂」に対する開かれた姿勢、信頼しようという構えです。「だれがわたしたちの知らせ(神からの良い噂、つまり福音)を信じましたか」(38節)。見て信じる人は、キリストの復活を信じることはできません。なぜなら、キリストの復活はすべて人づてに伝えられた良い噂だからです。

こうして第三のグループがお勧めとなります。見ないのに信じる人、言い方を換えれば、「心が頑なではない人」「開かれた精神で洞察できる人」です(40節)。このような人は十字架のイエスがよみがえらされた神の子であるという「見えない事実」を見ることができます。どこからも聞こえてこない「良い噂」を聞くことができます。誰も直接触れたことのない出来事に接触することができます。共感する能力に長けていると言っても良いし、想像力が豊かであると言っても良いでしょう。それをキリスト信仰と呼ぶのです。

預言者イザヤという人は、イエスよりも700年以上前の人です(38節の部分は600年ぐらい前)。時空を超えて、「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語った」(41節)のです。イザヤは、もし神が人間になるのならばナザレのイエスのように愛を教え・愛を行うという「見えない事実」を見たのです。それがイエスの栄光を見るということです。栄光とは神がそこに居るということの婉曲表現だからです。イエスにおいて神が現れたということを、イザヤは時空を超えて「見ないのに信じた」わけです。ヘブライ人の時間感覚というものは不思議です。過去も未来も同じように「思い出す」ことができるからです。また未来の出来事であっても自分にとって完了したと思われる時には、過去に起こった出来事のように断言して良いのです。それが「預言」という現象です。これを共感する能力に長けているとも、また、想像力豊かであるとも言うことができます。

イザヤはもし神が地上に登場するならば、十字架で処刑されるような方であり、その後復活するような方であると600年前に断言しました(イザ53章)。その意味で、イエスの栄光をすでに見ていたのです。イザヤは見ないのに十字架と復活の神を信じたわけです。もちろんナザレのイエスという固有名までを言い当てるということではなく、事柄として十字架と復活の神を見抜いていたということです。そして、見ても信じない人を批判したのです(40節)。

わたしたちにも時空を超える共感と想像が必要とされます。キリストが2000年前というはるか昔に、パレスチナの地というはるか遠くで殺されたからです。この死刑囚がよみがえらされた神の子である・今も生きて働く霊なる神であると信じるには、相当の思い込みが必要です。罪もないのにあのような悲惨な死を遂げた義人イエスが死んだままではいけないという共感、彼はわたしたちのうちによみがえらされているという想像が必要とされます。今ここに暮らしていながら、復活したナザレのイエスと会っていると観念すること(=礼拝行為)、それが信仰です。もしその思い込みが自分の人生にとってためになるのならば、わたしたちは、イエスが復活した神の子であるという情報を良い噂として、聞き入れることができます。

今日の特に闇を歩く絶望状況にあって、十字架と復活の神の子信仰は価値を持っていると考えます。人生のためになるものです。イエスがよみがえらされたということを信じるならば、義人の復活がわたしにも起こると信念をもって生き抜くことができるからです。見える根拠はなくても宗教者は諦めずに祈り行動し続けることができます。それは復活を見ないのに信じているからです。復活の光を手にしっかりと握っていると信じているからです。

主にキリスト信者が陥りがちな課題ですが、時に十字架への傾倒は、不条理な現実を肯定する敗北主義や殉教至上主義、犠牲のシステムにからめとられていくことがあります。それに対して復活への信仰は、不条理の現実そのものをひっくり返す力を持っています。わたしたちは人生をあきらめません。わたしたちは世界をあきらめません。冤罪で殺された義人イエスが神によってよみがえらされたことを信じているからです。

沖縄の基地課題に取り組む友人の牧師が教えてくれた言葉です。非暴力抵抗運動を続け、沖縄をはじめ日本中・世界中から軍事施設を撤去する夢をもって取り組んでいる人です。「わたしたちは決して負けない。なぜならばこの闘いを勝つまで続けるからだ」。復活信仰のあらわれがここにあります。見ないで信じる時に希望が生まれ、わたしたちは愛の実践を行うことができるようになります。いつまでも残る信仰・希望・愛、それはイエス・キリストの復活を福音/良い噂として信じる開かれた精神に宿ります。すべての人はこの生き方に招かれています。