イエス・キリストの時 ヨハネによる福音書8章48-59節 2013年12月15日礼拝説教

待降節・アドベントの第三主日となりました。クリスマスの視点でヨハネ福音書を読むことを続けています。今日の箇所は、「イエス・キリストの出来事」全体を考えさせる部分です。イエス・キリストの出来事というのは一連の過程です。神から派遣され・聖霊によって生まれたクリスマス、苦しむガリラヤの民・サマリアの民と共に食卓を囲んだ活動、そしてその結果として地上で最も低い場所である十字架で殺されたこと、さらに三日目に神によってよみがえらされたこと、これらすべての過程をイエス・キリストの出来事と言います。わたしたちキリスト者は、このイエス・キリストの出来事を歴史の中心と考えます。別の言い方で言えば、イエス・キリストの出来事は歴史という一つながりの「時の中の中心」です。イエス・キリストが生きていた30数年間の時は、神が人となった記念すべき歴史の中心なのです。

今日は、クリスマスを含むイエス・キリストの出来事から、読み解いていきましょう。今日の箇所の中でわかりにくい部分は、旧約聖書の人物であるアブラハムよりも先にイエスがいるということや(58節)、アブラハムがイエスの到来を待ち望み、しかもイエスを見て喜んだということです(56節)。単純な事実として、アブラハムはイエスが生まれる千数百年前の人物です(53・57節)。時系列をまったく無視したこの記述をめぐってわたしたちは何を神の意思として汲み取ることができるのでしょうか。

まず分かりやすいところから入っていきます。イエスが、アブラハムが生まれる前から「わたしはある」と言い切っているところです。これはイエスのことを神の子と信じている人にとっては理解しやすい言葉です。神は天地創造の昔から三位一体の神であって、アッバなる神、その子なる神の子イエス、聖霊の神は太古の昔から居たと信じるならば、当然アブラハムが生まれる前からイエスは居ることになります。またその神の名は「わたしはある」というものなのですから、二重の意味でアブラハムが生まれる前から「わたしはある」と言って良いでしょう。イエスが三位一体の神の一角であれば、アブラハムよりも偉大であるのは当然のことでもあります(53節)。

イエスを神の子または神と同等の者と信じない者にとっては、今の理屈は通りません。ユダヤ人権力者たちは、イエスが神を「わたしの父=アッバ(54節)」と呼ぶことに強く反発しています。彼らの反発は、「人間は決して神になれない」という確信に基づいています。それは正しい教えです。現人神、言い換えれば独裁者なんぞというものが登場するとき人類史上最悪の悲劇が起こります。「人が神になってはいけない」ということは、その通りではありますが、しかし逆のことが起ることまで否定してはいけません。逆のこととは「神が人となる」という事態です。クリスマスはめでたいことをお祝いする祭りです。何がめでたいのか。神が人となったことが前代未聞の快挙としてめでたいのです。神の子が生まれたということは、神が人の赤ん坊となったということなのです。

ユダヤ人権力者たちは「神が人となる」という可能性を否定しているので、こんにゃく問答はいつものように平行線をたどります。そして自分を神と同一視しているイエスを憎みます。「お前はサマリア人で悪霊に取りつかれている」(48節)。実にいやらしい言い方の非難です。他人に対する悪口で、まったく関係のない被差別民族の名前を持ち出すことは、今でもありうることです。ユダヤ人のサマリア人差別が露骨に現れた瞬間です。このような隣人に対する差別者たちは、神が人となることを恵みとして受け入れることはできません。

わたしたちはすでに4章で、サマリア人たちとイエスの直接の温かい交流を確認しています。彼女たちはユダヤ人権力者たちとは正反対に、神が人となったことを恵みとしてすぐに受け入れました。面と向かっている方との交わりが霊と真理による礼拝である、つまりこの人・ナザレのイエスは「人となった神」なのだと信じることができました。なぜでしょう。自分たちサマリア人のことを同じ人間として大切に扱い個人として尊重してくれたからです。

思えばアブラハム・サラ・ロトらも「父の家」で人間扱いされていませんでした。個人として尊重されていませんでした。その一人ひとりに神は霊として常に共におられました。旧約聖書に登場する神は「族長の神」と呼ばれます。族長一人一人と常に共におられる神です。だから特定の場所に固定されないで信者と共に動く神です。

またある時はこの族長の神は人の姿をとって共に食事をし、面と向かって対話をし、困った時には手をとって導いてくださったのです。創世記18-19章は極めて例外的な「神が人となった」具体例です。古代以来、ここに登場する三人の人物と三位一体の神を同一視する見解があります。物語の中でアブラハム・サラ・ロトとその家族は「神が人となった」ことを自然に受け入れ認めています。虐げられている人は幸いです。その人たちは神が人となったことを認めやすいからです。

クリスマスは連帯の時です。サマリア人のように世界で小さくされている人と共に生きるときに、わたしたちは神が人となったことを認めることができるからです。イエスは、「お前はサマリア人で悪霊に取りつかれている」と言われたとき、「わたしはサマリア人ではない」と言いませんでした(49節)。「サマリア人と同一視されても構わない」、この連帯が大切です。なお「悪霊」とは神話的表現に過ぎないとは先週申し上げたとおりです。

こうしてアブラハムが生まれる前からイエスがいるということは三位一体の神信仰からは説明されます。しかし、それでも56節の問題は解けません。「アブラハムがわたし(イエス)の日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て、喜んだ」とは一体何のことを指しているのでしょうか。ここにはイエス独自の時間感覚が現れています。いわゆる「永遠の今」「時の充満」という感覚です。過去も未来もすべて今現在という中に入ってしまう、それほどに充実した時間を過ごしているという感覚です。ある新約聖書学者は、大晦日の時を「時の充満」の説明のために用いています。12月31日の時の流れ方は同じ一秒一分であっても永遠に感じられると言うのです。大相撲観戦の結びの一番の時にもわたしは似たような感覚を味わいます。

「時は満ちた、神の国は近づいた。神の国はこの交わりの只中にある」と語って活動しているイエスは、永遠の今を生きています。そこでは過去に死んだアブラハム・サラ・ロトも、神の言葉を語ったがゆえに虐殺された預言者たちも、主の食卓についています。ルカ13:28でもイエスは、「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っている」と明言します。自由自在に今生きている人が伝説になり、過去の伝説的人物が今を生きるのです。「あなたもアブラハムの子」「あなたもサラの娘」と徴税人や娼婦が祝福されます。イエスから見れば、過去の人たちは自分の言葉を守った人であり決して死にません(51節)。またイエスから見れば、将来主の晩餐で教会においてパン・ぶどう酒を分かち合う者は、永遠に生きるのです(6:58)。そして将来神の国が来るときに実現する結婚披露宴は、すでにイエスの周りで起こっているのです(2章)。これが神の国の時間感覚、イエス・キリストの時の中で、主の食卓において起る出来事です。

だから56節のアブラハムは確かに歴史上のアブラハムでもあり、しかし同時にイエスが面と向かって出会っている信頼のネットワークに連なる一人ひとりでもあります。神の言葉を信頼して、その言葉を守るアブラハム一行は、連綿として途絶えず、その意味で死ぬことはありません(51-52節)。毎週の礼拝が「永遠の今」「時の充満」であってほしいし、そのように努めたいと思います。霊と真理による礼拝は時間の経過を忘れるものでしょう。そのような充実した時を着実に共に毎週過ごしたいと願います。

「永遠の今」「時の充満」のために何が必要なのでしょうか。今日の鍵語は「栄光」です(50節・54節)。このギリシャ語ドクサは、ヘブライ語まで遡ると「尊重」という意味を元来持っています(カボード)。49節「重んじる/敬う」にその含意が出ています。ヨハネ福音書は栄光という単語を「十字架刑」の意味で用います。神の子がアッバなる神に仕え従い十字架で殺されたことを、「人の子(イエス)が栄光を受けた」と表現します(13:31、17:1)。

しかし実態はどうでしょうか。イエス・キリストの生涯は「栄光」「尊重」を受けとるものではありませんでした。生まれた場所は馬小屋であり寝かされた場所は飼葉桶。最低限健康で文化的な生活を受け取っていません。基本的人権が尊重されていません。そしてサマリア人たちと共に食事をしていたために、同じように差別され、罪人・徴税人・娼婦の仲間として貶められました。「ナザレから何の良きものが出ようか」(1:46)、「ガリラヤの出のくせに」(7:52)と蔑まれていました。個人として尊重されず、平等にも取り扱われていません。

その一方で「わたしは自分の栄光を求めていない」(50節)、そうであれば「わたしの栄光はむなしい」(54節)とイエスは言います。その通り、イエス・キリストの活動は徹底的に他者のための生き方を示すものでした。その延長に十字架があります。イエスは神から呪われたものとみなされて常にいのちを狙われ(59節)、とうとう秘密裁判によって国家権力によって処刑されたのです。人権侵害の極みです。自分が尊ばれることを求めないで、ただ神を敬い隣人を尊重する義人は、栄光つまり人間の尊厳を剥奪されて虐殺されるものです。

この十字架は復活の光を当てることによってのみ栄光となります。アッバがイエスに栄光を与えるということは(54節)、神が神の子をよみがえらせるということを指します。義人は殺されたままに放置されない、必ず復活する、否、義なる神が義人を必ず復活させるということです。死刑囚の名誉の回復がここでなされます。その復活の光から振り返って照らすと、本当に栄光に満ちた人生というものは、神の子イエスのような歩みであることが分かるのです。それは自分の栄光を求めないで生きるということです。

イエスは「わたしの言葉を守るなら、決してその人は死ぬことはない」(51-52節)と言っています。今日わたしたちに与えられている「イエスの言葉」とは、自分自身のために栄光を求めないで生きるということです。そうすれば、「永遠の今」を生きることができます。そうすれば身の回りの時が充満し充実してきます。一日一日を大切に生きることができます。

抽象的に言えば、自分の十字架を背負って生きるということです。具体的に言い換えれば、利他的に生きるということです。他者の利益/栄光を求めることです。他者というのは、隣人も神も含みます。日曜日の午前中を自分のために使わない、時間を神に捧げる、そして復活の神に出会い賛美する、栄光を神に返す、これが神のために生きる礼拝者の生き方です。そして、月曜日から土曜日まで隣人に仕えるのです。身近な隣人を愛し、遠い隣人のことを覚え、差別に反対し、平和を求める、自分のしてもらいたいことを他人にし、他者の尊厳を尊重する、これも礼拝者の生き方です。この生き方はこの世では少し損をします。しかし神からはほめられる永遠のいのちを生きる生活です。