イエス・キリストの系図 マタイによる福音書1章1-6節前半 2024年11月3日礼拝説教

はじめに

 マタイによる福音書の講解説教の初めにあたり少し前置きいたします。

(A)第一にマタイとその教会の者たちは、確実にマルコ福音書を見ながら自分たちの福音書を書いているということです。同じ物語を記載する場合、マタイはマルコの分量を減らしがちです。(B)第二にマタイ福音書とルカ福音書だけに共通する教えがあるということです。マルコが知らず、マタイとルカだけが共通して知っている、イエスの言葉があります。(C)第三に、マルコもルカもヨハネも知らない、マタイだけの言い伝えも収められているということです。イエス語録(B)と、この独特の伝承(C)を一冊にまとめるために、マタイはマルコ福音書を縮めて用いなくてはいけなかったのでしょう(A)。

 こういうわけですからマタイ福音書の強調点は、独特の伝承(C)に最も強く現れます。そして、マルコの省き方において弱い形で現れます(A)。さらにイエス語録(B)においては、ルカとの比較においても現れます。新共同訳聖書の小見出しの下に並行記事が記載されているので比較をするときに用いることができるでしょう。本日の箇所やクリスマス物語部分は、独特の伝承(C)です。他の福音書にはないことが書かれています。マタイの教会はどのようなことを大切にしていたのかを探っていきましょう。

 

1 イエス・キリスト、ダビデの息子、アブラハムの息子の生成の書。

2 アブラハムはイサクを生んだ。で、イサクはヤコブを生んだ。で、ヤコブはユダと彼の兄弟たちとを生んだ。 3 で、ユダはペレツとゼラとをタマルより生んだ。で、ペレツはヘツロンを生んだ。で、ヘツロンはアラムを生んだ。 4 で、アラムはアミナダブを生んだ。で、アミナダブはナフションを生んだ。で、ナフションはサルモンを生んだ。 5 で、サルモンはラハブによりボアズを生んだ。で、ボアズはルツによりオベドを生んだ。で、オベドはエッサイを生んだ。 6 で、エッサイはダビデ王を生んだ。

 

表題

 1節はマタイ福音書の表題です。「~の書」(ビブロス)とはっきりと明示されているので、マタイ伝と呼ばれるこの本がどのような本であるかを示す表題と考えることができます。古代の本には表題がなく、現在のような「某による福音書」という表題がついた時期は、紀元後4世紀にまでしか遡れません。最初の一行目が表題の働きを持っているのです。マルコであれば「イエス・キリストの福音のはじめ」という一行目が表題です。マルコに比べてマタイが自分の本をどのように理解していたのか、表題は重要な鍵を握っています。マルコはガリラヤという地域での最初の活動を重視しています。

問題は「~の書」と連結している、「生成」と訳したゲネシスというギリシャ語です。ゲネシスには「系図」という意味は元来ありません。マタイはここでギリシャ語訳旧約聖書を意識しています。Genesisという英語から類推できるように、「創世記」という書名がゲネシスです。創世記2章4節aに同じ二単語が登場します。「これは天と地の誕生の書」(秦剛平訳)。マタイ教会は、「いかにしてイエスがキリストであるという信仰が生成されていったか」を書きたいと、冒頭の表題に込めたのでしょう。そして、マタイ教会は「イエスがキリストである」ということを、旧約聖書を基盤にして証ししたいと考えています。マタイは旧約聖書引用が最も多い福音書です。系図の重視は民族主義を助長します。狭く系図のことのみに関心があるのではなく、もっと広くマタイ教会が目指した事柄に目を向けて読み進めましょう。

この意味で、「ダビデ」と「アブラハム」が1節に特記されていることが目を引きます。なぜこの二人だけなのか、そしてなぜダビデにだけ「」がつくのでしょうか(6節)。ここにイエスという救い主がどのような方であるのかが暗示されています。ナザレのイエスは、「ユダヤ人の王」(2章2節)として生まれながら「ダビデの息子」と呼ばれることを拒み(22章45節)、彼は「ユダヤ人の王」という棄て札のもと十字架で殺されました(27章37節)。民族主義を拒否し、自分の民に拒否されたイエス。だから狭くイスラエル(ヤコブ)民族の神というだけではなく、広く諸民族の祝福であるアブラハムに遡って考えなくてはいけない世界の救い主です。旅するアブラハムと共にいた神は、人生の旅をするキリスト信徒とも共におられます(1章23節、28章20節)。ダビデや王は否定的に、アブラハムは肯定的に紹介されています。

 

民族主義・家父長制を超えて

 表題の視点が系図の読み方を規定します。ギリシャ語は男性が「生む」ことを不自然と考えていません。ルカの系図(ルカ3章)と比べると、「某が生んだ」ということをマタイは強調していることが分かります。「で、」という訳語は、ギリシャ語の軽い意味の接続詞「デ」の駄洒落です。極めて機械的な文章であることを訳出したかったのです。この系図にある問題点、すなわち男性中心主義や直系中心主義(二つ合わせると家父長制)は、見逃せません。この系図には、サラ(女性)やイシュマエル(傍系)やディナ(女性かつ傍系)は登場しないのです。2節にある「彼の兄弟たち」はユダの妹ディナを含んでいないと理解します。ちなみに「きょうだい」を多用する聖書協会共同訳でさえも、この個所は「兄弟」です。女性・傍系の不存在に疑問がないという点は、今日批判されなくてはいけません。存在しない事物を見抜くことは難しい作業です。しかし旧約聖書の愛読者であればこの難事も可能です。聖書はじっくりと読むべき本です。そして存在が無とされ、小さくされた者たちの復権をすべきです。それが多くの「彼女を記念する」こととなります(26章13節)。

 その上で、正にそれだからこそ、機械的系図のルールからはみ出た部分に着目しなければならないのです。それは、本日の箇所に、不規則にも登場する三人の女性たちです。「タマルにより」(3節)、「ラハブにより」(5節)、「ルツにより」(6節)とある三人。この三人の共通点は、非イスラエル人であるということです。マタイ教会はあえて非イスラエル人を選んでいます。この民族主義を超えた視点に倣いたいと思います。アブラハムはバビロニア人、ダビデもカナン人やモアブ人を先祖に持っているということは、ユダ部族・ユダヤ人が種々雑多な民によって成るということを示しています。およそ「混血」ではない民族は存在しません。

その一方でマタイ福音書には反ユダヤ主義が露骨にあります。ユダヤ民族主義を超えるということが、いつのまにかユダヤ民族迫害にすり替わる瞬間にwたしたちは注意が必要です。たとえばローマ総督ピラトに向かってユダヤ人たちは、「その血の責任は、我々と子孫にある」と叫びます(27章25節)。歴史的にはこの聖句はキリスト教徒からユダヤ人たちへの迫害の根拠として悪用されました。その最悪の一端がナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺です。特定の民族への嫌悪・偏見も民族主義の裏返しです。マタイの持つ反ユダヤ主義は倣うべきではありません。

さて三人の非イスラエル人女性たちを一人ずつどのような人物だったのかを瞥見しましょう。

 タマルは創世記38章に登場するカナン人女性です。彼女は自分の名誉を晴らすため舅ユダの不正義(当時の法習慣に反する行為)を暴き、ユダを策にかけます。娼婦に変装した彼女はユダの息子たちを生むことに成功します。そして法習慣に則って自分の息子にユダの家を継がせるのです。

ラハブはヨシュア記2章に登場するカナン人性です。娼婦である彼女は一家の大黒柱として稼いでいました。迫りくるイスラエル軍による虐殺から一家を救うために、取引としてイスラエル軍の偵察をかくまった人物です。彼女は自分の民を「売る」ことによって、自分の家族を守りました。

ルツはルツ記の主人公の一人であるモアブ人女性です。イスラエル人の姑ナオミに対する愛情によって、ルツはモアブの地を棄ててベツレヘムに移住します。ルツはナオミの策に乗り、当時の法習慣にも従い、親戚ボアズに求婚します。裕福な農場主の家長ボアズの「家」に入ることで、ナオミの生活を向上させたかったからです。

この三人の女性の人生に共通している背景は「女性の貧困」という現象です。女性たちが「父の家」「夫の家」「息子の家」から出ることは、たちまち生存を脅かされることに直結します。三人の女性たちはそれぞれの仕方で、生きにくい枠組みの中で、それでも当時の法習慣を利用して、自分や自分の家族が生き延びる道を大胆に切り拓いたのでした。この三人は何らかの形で他者を出し抜いています。これも共通点です。

6節後半に登場する「ウリヤの妻」も、ナザレのマリアも、この延長線上の人物として捉える必要があります(16節)。ルカ福音書はヨセフだけではなくマリアもユダ部族出身者であるということを明記しますが、マタイはそうではありません。むしろマリアは「異邦人のガリラヤ(ナザレ含む)」(4章15節)の人です。1章全体の女性たちに対する取扱い方から類推すると、キリストは非イスラエル地域出身の女性から生まれたと、マタイ教会は主張しているのだと思います。そしてマリアは、本日の三人の女性たちと同様、生きづらい社会の枠組みの中で、しかし法習慣を利用して、何らかの知恵を用いて他者を出し抜きながら、自分や自分の家族の生命を守り抜いた人物なのでしょう。イエスは、「彼の母親はマリアムと言われていないか」(13章56節私訳)と悪口を言われました。一人親への偏見や、父親が分からない非嫡出子への差別があったと思います。「ナザレからは何の良き者も出ない」ともされていました。ナザレのマリアによって生まれ、マリアによって女手一つで育てられたイエスが、キリストです。

 

今日の小さな生き方の提案

 イエスがキリストであるという信仰は歴史の中で誕生し、生成され、今に至っています。この歴史を「偉人伝風」に描くと強い男性しか登場しなくなるでしょう。この世の習慣は女性たちや力奪われた人たちを埋もれさせます。本日の箇所は読者に挑戦しています。マタイ教会の人々は、ナザレのイエスの生き様から旧約聖書を読み直しています。イエスは誰をも埋もれさせない人でした。この世で小さくされている人々と共に生きました。ここにナザレのイエスをキリストと信じる信仰の発生と展開の鍵があります。わたしたちも埋もれさせられているところから掘り起こされた恵みを思い出しましょう。そして目を覚まし、目を凝らし、埋もれている最も小さな事物を掘り起こしましょう。身の回りの小さな感謝、軽視無視され小さくされている隣人、見過ごされがちだけれども重要な細かい点、小さな「ハテ」を公にするキリスト者でありたいと願います。あの小さな赤ん坊をキリストと信じ礼拝するゆえに。