リベカの第二次計画はイサクの言葉によって完成されます。それは次男ヤコブを逃がして、長男エサウに彼を殺させないという計画です。そのために、すでにリベカはヤコブとイサクに根回しを済ましています(27章41-46節)。自分たち夫婦のように(24章)、親戚同士の結婚をヤコブにさせた方が良いというのです。イサクから見て、妻リベカは従兄弟ベトエルの娘にあたります。
リベカは「エサウの結婚相手が親戚ではないから、自分たち夫婦に攻撃的なのだ。わたしとあなたも、義父アブラハムとサラも、近い親戚同士だから良かったのだ」とイサクに言い募りました。
リベカのこの発言を真に受けて、聖書を盾にして国際結婚反対をすることはできません。というのも、アブラハムもイサクも、妻が近い親戚であるということを利用して(多分顔が似ている)、妻サラ・妻リベカを自分の妹だと嘘を言って保身を図ったからです(12章・20章・26章)。リベカは、このことを生涯恨みに思っています。親戚同士だからとか、出身国や出身地が同じだからとかの理由で、良い結婚になるとは限りません。リベカにとって重要なのはヤコブを一時安全な場所に逃がすことをイサクに認めさせることだけです。そのためのもっともらしい理由が必要でした。その理由が自分の実家でヤコブが結婚相手を見つけることだったというわけです。
またもや夫イサクは妻リベカにまんまと騙されて操られます。1-2節のイサクの言葉は、27章43・46節のリベカの言葉を具体化したものです。「ヤコブはカナンの地の女性と結婚すべきではない。リベカの兄の娘と結婚すべきだ」と、イサク自身も考えるようになっています。
「そしてイサクはヤコブに向かって呼んだ。そして彼は彼を祝福した。そして彼は彼に命令した。そして彼は彼のために言った。『お前はカナンの娘たちから妻を娶るな。お前は立て、お前は行け、パダン・アラムの方へ、お前の母の父ベトエルの家の方へ。そしてお前のためにそこから妻を娶れ、お前の母の兄ラバンの娘たちから」(1-2節、直訳風私訳)。新共同訳聖書は訳出していない「お前の母(リベカ)」の連呼が、イサクに対するリベカの影響を強く物語っています。一連の物語を影で仕切っているのはリベカです。
イサクの言葉の前半1-2節は、ヤコブに対する命令です。順序は逆になりますが、後半3-4節がヤコブに対する祝福となります。
「そして、エル・シャダイ(野の神)がお前を祝福するように。そして彼がお前を実らせるように。そして彼がお前を増やすように。そしてお前が諸々の民の会衆となるように。そして彼がお前に、またお前と共なるお前の子孫に、アブラハムの祝福を与えるように。神がアブラハムに与えた、あなたの寄留の地を相続するために』」(3-4節)。
旧約聖書の神にはいくつかの呼び名があります。「エル(神)」が付く神名は、カナンの地由来の神名である可能性が高いものです。エルがカナンの主神の名前だからです(ウガリト語イル)。「エル・カンナー」(嫉妬/熱情の神。出エジプト記20章5節)や、「エル・エルヨーン」(いと高き神。創世記14章18節)なども、同様です。
「エル・シャダイ」はギリシャ語訳以来の伝統で「全能の神」と訳すことにしていますが、実際の意味は不詳です。おそらく元来の意味は「野(サデー)の神」でしょう(「乳房の神」もありうる)。イサクはその土地の神を、聖書の神ヤハウェと同一視しています。日本語の「神」も元来は神道用語ですが、聖書の神のための訳語となっていますから、似たような事情です。しかも示偏に「申す」は、啓示という神の特徴をうまく伝えています。エル・シャダイは五穀豊穣の神です。子孫が増えるように願う文脈で、イサクはエル・シャダイからの祝福を祈ります。「野の人」エサウ(25章27節)を好んだイサクは、「野の神」という呼び名を好んだのかもしれません(27章27節も参照)。
エル・シャダイは、アブラハム物語(12-25章)では1回しか登場しない神名でした(17章1節)。しかし、ヤコブ物語(25-50章)では、今回を含めて5回も登場します(28章3節、35章11節、43章14節、48章3節、49章25節)。3-4節のイサクの祝福は、35章11-12節のエル・シャダイの言葉とほとんど同じです。ヤコブは20年後に、父イサクの送別の言葉を思い出すことになります。そして、自分の人生がエル・シャダイの導きと守りの中にあったことを振り返って知るのです。それだから、ヤコブはエル・シャダイという神名を大切にし、子どもや孫を祝福する際に多用します。ヤコブにとって、この送別・派遣の家庭礼拝は生涯忘れられないものだったのです。
人生という物語において神はほとんど干渉しません。ただところどころに現れるだけです。そして言葉をかけてくださいます。神の言葉は、聖書を通して、あるいは人間仲間を通して語られます。「完璧な人」(25章27節)ヤコブは、言葉の人でした。今までの物語でも、言葉が巧みです。ヤコブは兄の言葉、母の言葉、父の言葉をよく聞き、時に反論や対話をしながら、噛み砕いて自分の言葉として人生に当てはめていきます。わたしたちに求められている態度は、このような生き方です。一週間に一度、礼拝の中で聖書から聞く。礼拝の中で神が現れるのを共に見る。そして過去の約束の実現を知ったり、将来の神の計画を知ったりするのです。礼拝共同体の会衆の一人として、エル・シャダイに出会うことが大切です。
イサクの送別の言葉に、不意に「会衆(カハル)」という礼拝用語が紛れ込んでいます。しかも「会衆」は文法上非常に目立つ表現の中で登場しています。「そしてお前が諸々の民の会衆となるように」(3節)。ここだけ、主語が「お前」となっています。また、この動詞は「会衆となった」とも訳しうる強い断定口調です。この表現は、ヤコブの子孫であるイスラエルという民が、基本的には礼拝共同体であることを示しています。イスラエルは同じ神を礼拝するために集まる会衆です。そこに他民族の人、外国籍の人が加わっても構いません。野の神を礼拝する民は、そもそも地上では旅人・寄留者であるからです。カナンの地が「寄留地」(4節)であることの強調や、ラバンが(ということはリベカも)アラム人であることの強調は(5節)、イスラエルは唯一礼拝のみで繋がる集いであることを示しています。共に礼拝を捧げるという形ですべての民は、イスラエルを通して祝福に入ります。共に礼拝をする会衆となることで、地上の氏族はすべて、イスラエルによって祝福に入るのです(12章3節参照)。イスラエルには世界帝国となって諸民族を支配することは求められていません。
新しいイスラエルである教会は、諸々の民のための会衆です。イサクの言葉「お前が諸々の民の会衆となるように/なった」は、わたしたちにあてられています。神の言葉を聞き、十字架と復活の神が立ち現れる礼拝を、できるだけ多くの人と捧げることができる形で着実に行い続けることが、教会の責務です。
「そしてイサクはヤコブを派遣した。そして彼はパダン・アラムの方へ行った。ラバン・アラム人ベトエルの息子・ヤコブとエサウの母リベカの兄のもとへ」(5節)。ここで兄弟の順番が入れ替わっています。後の者が先になり、イサクはヤコブを正式の後継者として任命し、リベカの実家に派遣します。
さてこの家庭礼拝の際に、エサウはどこに居たのでしょうか。新共同訳聖書が「知った」(7・8節)と訳している言葉の直訳は、「見た」(ラー)です。「知った」という翻訳は、「後日人づてに聞いて認識した」という含みを持ちます。しかし、「見た」と解するならば、エサウもまた、ヤコブを送別する家庭礼拝に出席していたことになります。エサウは、イサクがヤコブを祝福したこと、ヤコブの結婚のためにパダン・アラムに派遣したこと、カナンの地元の住民との結婚を禁止したことを見、ヤコブが両親の言葉を聞いたこと、そしてパダン・アラムに行ったことを、直接見たと思います。〔細かい話ですが、この家庭礼拝の中ではリベカも自分の意見を言っているようです。〕
エサウも会衆の一人でした。同じイサクの言葉を同じ時に聞きました。エサウの第一の関心事は、やはり祝福です。時系列順に言えばイサクは命令を先に行い祝福を後に行っていますが、エサウの心の中で、順番が入れ替わっています。一子相伝の祝福を受ける後継者はヤコブとなったという厳しい事実を、エサウは礼拝で確認します。辛い礼拝です。
さらにエサウの心に突き刺さったのは、父イサクによる、自分の結婚に対する非難です。カナン現地の女性たち二人とエサウが結婚していることを、反面教師として、ヤコブには母方の従姉妹と結婚することを命じているからです。いわゆる「あてつけ説教」です。「そしてエサウは見た、カナンの娘たちがイサク・彼の父の眼に悪であるということを」(8節)。
父がこんなに自分の結婚に反対し、親戚との結婚を望んでいたということを、エサウは初めて認識しました。リベカが説得するまでイサクはそこにこだわりがなかったのですから、エサウの驚きも当然です。エサウの視野には、またしてもリベカが存在しません。父イサクの眼に悪とされることを、どのように緩和すべきかをエサウは真剣に考えました。「ヤコブが母方の従姉妹と結婚するならば、自分は父方の従姉妹と結婚すれば良い、それを父は望んでいる」と、エサウは理解しました。イサクには母親の異なる兄が一人います。エジプト人ハガルの息子イシュマエルです。
礼拝説教は、一つの会衆に向けて同時に聞かれる同じ言葉ですけれども、個々別々の聞き手によって受け取られます。イサクの説教は会衆に一つの方向を打ち出しました。親戚同士の結婚が良いという価値観です。現代のわたしたちの目から見ると、極めて時代錯誤な価値観です。だからその内容について従う必要はありません。わたしたちが参考にすべきは、内容ではなく形式です。
同じ家庭礼拝を捧げ、同じ方向性を会衆が確認した後、ヤコブは母リベカの兄のもとへ行き、エサウは父イサクの兄のもとへ行きます。どちらも従姉妹と結婚をするためです。それぞれの人生の文脈で、礼拝の基本指針が適用され、応用されます。「そしてエサウはイシュマエルのもとに行った。そしてマハラト・アブラハムの息子イシュマエルの娘・ネバヨトの姉妹を娶った、彼の妻たちの上に、彼のための妻に」(9節)。エサウはイサクの言葉を受けて、従姉妹のマハラトを、今までの妻たちよりも上位に据えました。多分にピント外れな解決策なのですが、この行動がエサウの精一杯の応答でした。内容はともかくとして、エサウが礼拝者として誠実であるということを評価したいものです。つまりヤコブにつられて、エサウも「会衆となった」のです。
今日の小さな生き方の提案は、誠実な会衆の一人となることです。礼拝では聖書が紐解かれ解き明かされます。礼拝説教は個々人を事細かく支配するものではありません。一つの太い方向が示されるに過ぎません。一人ひとりは自分自身の良心に反しない限りにおいて、方向を受け取り、それぞれの人生に当てはめます。散らされて適用し、集められて基本指針を確認する。会衆は礼拝を繰り返し、人生という旅を全うします。