イタリアへ 使徒行録27章1-12節 2024年6月30日礼拝説教

1 さてイタリアの中への、私たちの出航が裁決された時に、彼らはパウロもとある他の囚人たちも、セバステー部隊のユリウスという名前の百人隊長に続々と引き渡した。 2 さてアシア(地方)沿いの諸々の場所の中へと出航しようとしているアドラミティオン(港)の船に(私たちは)乗って、私たちは船出した。マケドニアのテサロニケのアリスタルコと共に居ながら。 

 三度目の「私たち」(1節)を主語とする物語の塊が始まります。一度目は16章10節、二度目は20章5節に引き続く物語です。「私たち」という言葉は、著者ルカが同行していることの目印です。使徒言行録が優れている点は、歴史を物語る著者自身が歴史を作っていることです。ルカは実際に体験しなければ知りえないような情報を報告しています。部隊名(「セバステー部隊」1節)や百人隊長の名前(「ユリウス」1節)、パウロを乗せた船がどの港に属しているか(「アドラミティオン」2節)、同行者の名前(「アリスタルコ」2節)、そして寄港した港の名前や航路など(3節以下)、実に詳細です。この筆遣いは20-21章と同じです。ルカは船旅が好きです。

 「使徒言行録は記述にムラがあるので歴史書として劣る」と言われることがありますが、逆にその点が面白いのです。ルカは自分軸をしっかりと持っていて、好きなことを手厚く書きます。パウロの回心物語は三回も載せられています。テレビ番組の「アメトーーーク」のようなものです。自分にとって無関心な話題でも、それを熱く語り続ける人を見ていると、何となく楽しくなります。そして他人軸を気にしてそつなく生きるよりも、ぶつかりながらも自分軸を応用していく方が、実は幸せです。パウロもルカもそういう人々です。

 マケドニアのフィリピのルカがこだわる「マケドニアのテサロニケのアリスタルコ」とはどのような人物でしょうか。彼はエフェソの町で群衆によって殺されかけています(19章29節)。アリスタルコはパウロと並ぶ巡回する福音宣教者だったのです。また彼はパウロ系教会代表団の一人でした(20章4節)。つまりテサロニケ教会の代表者です。多額の献金をエルサレム教会のために集め、パウロと共にカイサリアを通って、エルサレム教会の代表者ヤコブのもとに届けた一人です。行く先々の教会に泊まらせてもらいながら、アリスタルコはパウロ系列の教会とフィリポ系列の教会とを結び合わせる働きをしています。二年間もカイサリアに拘留されていたパウロを、ルカとアリスタルコは支えていました。時々マケドニアに帰ったかもしれませんが、基本的にはカイサリア教会を拠点に、支援し続けたと思います。そうでなければ都合よくパウロの最後の旅に二人は同行できなかったことでしょう。フィレモンへの手紙24節にアリスタルコもルカもパウロの協力者として紹介されています。この手紙はカイサリアで書かれたのでしょうか(コロサイ4章10節も参照)。

 ともかくルカが言う「私たち」とは、ルカ、アリスタルコ、パウロの三人のことを指します。この三人の教会指導者たちがイタリア半島にあるローマに地中海を渡って移送されることとなります。

3 それから次(の日)に私たちはシドンの中へと着いた。ユリウスはパウロに人道的に対応し続けたので、彼はその友人たちによって配慮を受けるために行った後、 4 そしてそこから出航した後、反対の風が存在するために私たちはキプロスの陰を航行した。 5 キリキア(地方)とパンフィリア(地方)沿いに深い海をも航海して後、わたしたちはリキア(地方)のミラの中へと来た。 6 そしてそこで百人隊長はイタリアの中へと航海しつつあるアレクサンドリアの船を見つけたので、彼は私たちをそれの中へと乗せた。 

 新共同訳聖書巻末の聖書地図「9 パウロのローマへの旅」が便利です。2節の「アドラミティオン」の位置も記してあります。地図を見れば、カイサリアから「シドン」(3節)、シドンから「キプロスの陰(キプロス島の東側)」(4節)を通って、「ミラ」(5節)に寄港したという航路が一目瞭然です。地中海は一般に西から東への風が吹き、特に夏の終わりごろから強まるのだそうです。東に向かう船にとっての「反対の風」とは西風のことです。そのためキプロス島の東側は風の陰となるのです。

 ローマ軍の百人隊長ユリウスは、終始パウロを「人道的に」(3節)取り扱ったとされています。それが公僕のあるべき姿です。パウロが皇帝に上訴できる権限を含むローマ市民権を持っていることから来る態度かもしれませんが、百人隊長は全ての囚人にも人道的でなくてはいけません。それは現代にも通用します。親切に/優しくという感情ではなく、相手を人類仲間、個人として尊重するという行動です。人道的な対応の一つが、「友人たち」(3節)と会うことです。フェニキアの大都市シドンにも教会があったのでしょう。パウロはアンティオキア教会とエルサレム教会を何回も往復していますから、シドンの教会に立ち寄ることが過去にあったと思います。もともと病弱なパウロが軟禁され続けてさらに弱ったところ、同行する医者のルカが、シドンの教会での療養を申し出たのかもしれません。ユリウスはパウロに同情したというよりも、職業的・人道的に、パウロの当たり前の権利として、船出までの数日をパウロに与えたのだと思います。

 シドンを出て、第一回伝道旅行を行ったキプロス島を左に眺め、さらに故郷キリキア地方やパンフィリア地方を右に眺めながら、船はミラに着きます。案外行き当たりばったりな感じですが、古代の船旅のこと、寄港先のミラでユリウスは丁度良い乗り換え船を見つけなければなりません。シドンからの船はイタリアには行かずアドラミティオンに行くからです。そして彼はエジプトの大都市「アレクサンドリア」(6節)の港に属する船を見つけました。ローマへと向かう途中ミラに寄港していたのです。エジプトからイタリアへは、海岸沿いに航行することが当時の常識的航路。そのようにして大穀倉地帯エジプトから大量の穀物がローマに運ばれていたのだそうです(38節参照)。ユリウスはセバステー部隊と三人の教会指導者たちを、この船に乗せます。

7 さて相当の日々においてゆっくりと航行しながら、また困難を伴って、クニドスのもとに生じた。風が私たちを許さないので私たちはサルモネに向かってクレタの陰を航行した。 8 困難を伴って、それの岸沿いを航行して、私たちは「良港」と呼ばれる、とある場所に私たちは来た。ラサヤという町の近くにあり続けている場所に(私たちは来た)。 

 西風は航海に「困難」(7・8節)をもたらし、船足を遅くしました。「相当の日々」(7節)とあるように、夏の終わりにさしかかっていたのでしょう。「クニドス」は小アジア半島の南西の突端です。クレタ島の東側(「」)を狙って「サルモネ」(岬)を通過し、クレタ島を海岸沿いに進み、クレタ島の南岸の「良港」に寄港します。この港は、とても良い港と呼べた代物ではない、「越冬のためには不適切な港」(12節)でした。ルカはなぜこの港を「良港」というあだ名で紹介したのでしょうか。何か意図がありそうです(後述)。なお、「良港」「ラサヤ」(8節)、「フェニクス」(12節)の正確な位置は現在も不明です。

9 さて相当の時が経過して、断食もすでに終わったことにより、すでに航海も危険であり続けたので、パウロは諄々と勧めた。 10 彼らに曰く、「男性たちよ、この航海は荷物と船だけではなく私たちの生命にも被害と多くの損失とを伴うであろうと、私は看取している。」 11 さてその百人隊長は、パウロによって言われ続けている事々よりも、むしろ操舵手と船長に説得され続けた。 12 さて越冬のためには不適切な港であるために、過半数の者たちはそこから航行するという意見を置いた。もしも何とかして越冬するためにフェニクスの中へと到着できるならば(と期して)。西に対しておよび西北西に対して望んでいるクレタの港(で)。

良港に着いてからもさらに「相当の時が経過して」(9節)九月から十月になってしまいました。「(大)断食」とは、ユダヤ教の「贖罪日」という祭日のことです(レビ記23章27節)。あるいは贖罪日に続く五日間の断食期間かもしれません。いずれにせよ九月下旬以降という時期が明示されていることが重要です。「九月十五日以降の地中海の航海は危険であり、十一月十一日以降の航海は中止される」と4世紀の軍隊教本にあるそうです。

ローマ市民権を持つ囚人パウロは、百人隊長ユリウスはじめセバステー部隊の兵士たちに「諄々と勧め」ます(未完了過去)。パウロの進言の趣旨は、「この季節の航海は危険で被害甚大となるのでやめた方が良い」ということです(10節)。「良港」で越冬した方が良い/被害が少ないというのでしょう。それに対して「操舵手と船長」(11節)は「同じクレタ島内の西にある、もっと良い港である、越冬に適したフェニクスという港まで航海し、そこで越冬しよう」と言いました(12節)。「フェニクスまでの航海のリスク」と「良港で越冬するリスク」が天秤にかけられました。「クレタの港」(12節)で越冬するという点では両者は一致していたと思います。それほどに海は荒れていた、つまり海への評価も一致していました。11節の「説得され続けた」(未完了過去)という表現から双方のやりとりの継続や熟議があったと思います。そうして百人隊長は「過半数」の声に聞きました(12節)。良港ではなくフェニクスを採ったのです。それは多数決による民主的な結論でした。そしておそらく経済的な理由、帝国の首都により早くより多くの穀物等を届けてより多くの利益を得るという理由からの結論でした。

未来というものは分かりません。どの選択を採ろうとも、何かしら固有の危険要因というものは付きまといます。良くない港と呼ばれ、実際危なっかしい港に停泊し続ける方が、仮に船が壊れ積荷に損害があったとしても、「生命(プシュケー)」(10節)の危険は回避できたことでしょう。もしも荒天となり船が揺れ破損することがあっても船を降りて上陸するという選択肢が乗客乗員に与えられるからです。未来が分からない以上良い判断か悪い判断かは結局のところ振り返ってしか判定されえないものです。しかし最低限の判断基準はあります。それは人命第一というものです。悪い港に留まることが良い判断となることもあるのです。ここに「良港」というあだ名が用いられている意義(片仮名で「カロイ・リメネス」などと音訳しない意義)があります。経済効率を優先する過半数の意見よりも、少数の人権擁護の意見が優ります。憲法というものによって、人権侵害の歯止めを設けているゆえんです。単なる民主主義というだけではなく、立憲民主主義であるべき理由です。

今日の小さな生き方の提案は、「プシュケー(生命/魂/自身)第一」ということです。ルカの船旅好きを抑制することはルカのプシュケーを損ないます。旧友による配慮を禁じることはパウロのプシュケーを損ないます。不適切な港を選ばないことも船に乗る人のプシュケーを損ないます。あえて火中の栗を拾うことで、自分のプシュケーを奪われない/再獲得することがありえます。踏みとどまるべきところを見極め、あえて踏みとどまってみましょう。