インマヌエル預言 イザヤ書7章10-17節 2022年11月27日(待降節第1週)礼拝説教

 アドベント(待降節)に入りました。教会暦によれば一年を開始する季節です。神の民が救い主の到来を数百年にわたって待っていたことをなぞり、再びイエス・キリストの来られることを待望する四週間です。本年度は、「メシア預言」が最も多い預言書イザヤ書に導かれてこの季節を過ごしてまいりたいと思います。本日の箇所はそのうちの最も有名で最も論争的なメシア預言です。

 時は紀元前733年前後のことです。預言者イザヤのいる南ユダ王国は、北イスラエル王国とアラム王国の連合軍に侵攻されました(シリア・エフライム戦争)。その時、南王国のアハズ王は北東にある大国アッシリア帝国を頼ります。アッシリアにアラムと北王国(姉妹国)を攻撃してもらえば南王国は助かると考えたのです。

 その時イザヤはアハズ王の政策に反対します。「大国との軍事同盟に頼らずにただ神を信ぜよ」というのです。「結局アッシリアは南王国をも滅ぼそうとするだろう。そしてアッシリアに臣従し属国になることは、アッシリアの神々が神殿に入ることになる」という予測があったからです。メシア預言を含んでいる7-8章は、以上のような背景から読まれるべきです。

10 そしてヤハウェは再びアハズに向かって語った。曰く、 11 「貴男は貴男のために求めよ、ヤハウェ・貴男の神(と共なるところ)からのしるし(を)。貴男はそれを求めよ、その深み(に)もしくは上よりのその高み(に)、貴男は求めよ。」 12 そしてアハズは言った。「私は求めない。そして私はヤハウェを試さない。」 

 10節ではイザヤは預言者としてふるまい「ヤハウェの伝言」の体裁を取っています。そしてアハズを試します。例えば、「天に虹がかかったらアッシリアに優る神を信じる」とか、「海/川が真っ二つに割れるならアラム軍と北王国軍を呑み込む神を信じる」とか、そのような「しるし」が見たいなら正直に言いなさいと勧めます。「ヤハウェ神はそこまで不信仰なあなたのために譲歩し、どうしてもあなたから信仰を引き出したい」と願っているというのです。

 しかしアハズ王は頑なです。「神を試すかのような不敬な行為をしない。」とけなげなことを言っていますが、政策を変えないための方便でしょう。もう既にアッシリアに臣従の意思を示し、援軍の派遣を依頼した後だったのかもしれません。イザヤは「神に素直に尋ね求めなさい」と言っているところを、アハズは「神に尋ね求める」という素直な信仰を拒否しています。しかも「神を試さないために」というひねくれた理屈をもって。

13 そして彼〔イザヤ〕は言った。「是非とも貴男らは聞け、ダビデの家(よ)。男性たち(を)うんざりさせることは貴男らには小さすぎることか。実に貴男らは私の神をもうんざりさせている。 14 それゆえに私の主人、彼こそが貴男らのためにしるし(を)与える。見よ。その若い女性は妊娠している。そして彼女は息子を生みつつある。そして彼女は彼の名前(を)インマヌ・エルと呼んだ。 

 アハズ王の理論武装した頑なさを見て、イザヤは踏み込みます。13節の主語「彼」はイザヤでしょう。13節「わたしの神」・14節「私の主人」とヤハウェを呼んでいるからです。神の伝言(預言)というよりはむしろ、13節以降で人間イザヤの言葉が前に出ます。つまり、アハズによってうんざりさせられているのはイザヤです。この憤りの調子のまま、14節後半で、有名な「インマヌエル預言」が投げつけられます。これは思わずついて出た強い言葉です。

 さてイザヤが語った時点で「インマヌ・エル」という人物は誰を指していたのでしょうか。また彼の母親は誰なのでしょうか。このことを考えるには7-8章に子どもの名前が三種類・五回登場するということに着目することが有益です。一人目はイザヤの息子「シェアル・ヤシュブ」(7章3節)。「残りの者は帰る」という意味です。二人目は「インマヌ・エル」(7章14節)。「神は私たちと共に」という意味です。三人目はイザヤの息子「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(8章1節)。「分捕りは早く、略奪は速やかに」という意味です。さらに再び「インマヌ・エル」(8章8・10節)。「しるし」とは何の象徴・シンボルなのかについては15節以降ではっきりしますから、ここでは置いておきます。

 シェアル・ヤシュブとマヘル・シャラル・ハシュ・バズは、イザヤの息子として共通しています。そして、名前の意味が否定的な内容であるということも共通しています。国の滅亡を前提にして「生存者(サバイバー)だけが帰ってくる」のだし、敗戦時に「戦勝国は分捕り・略奪を速やかにする」ものだからです。ちなみにイザヤの妻も預言者であることが8章3節で分かります。二人の預言者は子どもたちの名づけを通して、祖国に警告しているのです。

 こうなるとインマヌ・エルの母親である「その若い女性」(14節)はイザヤの妻ではないでしょう。冠詞が付いていることから、イザヤもアハズ王も知っている、しかも、この時点で既に妊娠している女性です。おそらくはアハズ王の妻アビがその若い女性です(列王記下18章2節)。つまり、インマヌ・エルとは後のヒゼキヤ王を、元来は指していたと推測されます。イザヤとヒゼキヤ王の師弟関係と親密ぶりは列王記下19-20章に記されている通りです。おそらく王妃アビもイザヤと親しい関係だったことでしょう。

 インマヌ・エルという人物は、イザヤの預言の中では何ら積極的な意味を持っていません。彼は単なる「しるし」です。この子どもが生まれて数年後に起こるであろう出来事を語ることがイザヤの狙いです。だから、インマヌ・エル(神は私たちと共に)という一見肯定的な意味は、むしろ皮肉のために用いられています。その他二名の名づけと同じように否定的な意味だと考える方が素直な解釈です。

 神を素朴に信じない夫アハズに向かって、イザヤと親しい妻アビが、父親の名づけの権限を奪って、「神が私たちと共に」と名づける行為。これはアビとイザヤが「あなたと共に神はいない。私たちと共にいる」と突き付けているのです。なお新約聖書では「彼ら(人々)は彼の名前をインマヌエルと呼ぶだろう」と解釈していますが、ヘブライ語及びギリシャ語旧約聖書は「彼女」が名づけています。ヒゼキヤが生まれてからはアハズ王が名づけたかもしれませんが、妊娠中に彼女が「インマヌ・エルと呼んだ(完了)」のです。なお、ヘブライ語「若い女性(アルマー)」に処女という意味はありません。ギリシャ語訳旧約聖書が「処女(パルテノス)」と解釈し、それがキリスト教信仰に影響したという経緯になります。

15 凝乳と蜂蜜(を)彼は食べる、彼が知るその悪を拒否し、また、その善を選ぶ頃に。 16 なぜならその若者がその悪を拒否し、またその善を選ぶことを知る前に、貴男が怯え続けている、その二人の王たち自身由来の土地は棄てられるからだ。 17 ヤハウェは貴男の上に、また貴男の民の上に、また貴男の父の家の上に、ユダからエフライムが離れた日々から来なかった日々(を)来させる。アッシリアの王と共に。」

 インマヌ・エルという赤ん坊が凝乳と蜂蜜という子ども用の食事を食べる頃(15節前半)とは何年後のことでしょうか。イザヤは物事の善悪の判断ができる年代と言い換えています(15-16節)。6年後ぐらいを想定しているのだと思います。6年以内に、アラム王国と北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされるという予告が16節の内容です(8章4節参照)。

 おや、それならばアハズ王の軍事同盟政策が大当たりではないのかとも思われます。南王国を脅かす両国が滅亡するのですから。しかしアッシリアの支配欲は両国の併呑のみで収まりません。17節は、アッシリア帝国は南王国までも滅ぼそうとすることを警告しています。「貴男の」と、アハズ王を名指ししているからです。「エフライム」は北イスラエル王国の言い換えです。前922年に南北両王国は引き裂かれ分断国家となりました。それは神の民にとって大きな痛みでした。それに匹敵する痛み、それ以来の痛みが南王国にも起こるというのです。北王国が実際に滅び「北の残りの者が南に来る」事態となり、南王国も緩衝国なしに直接軍事的脅威にさらされることになったからです。

 8章の「インマヌエル預言」を少し見てみましょう。8章7節はアッシリアの大軍が洪水のようにユダの地を覆いつくすことを予告しています。だから8章8節の「インマヌ・エルよ」との呼びかけは警告です。アラム王国と北王国が滅亡したことで、「南王国は神の国だ、エルサレムは不落だ、なぜなら神が我らと共にいるからだ」などと、決して思い上がってはいけないのです。アハズ王がアッシリアを南王国まで呼び寄せて危機に晒してしまったからです。

 軍事同盟政策批判が9-10節に繰り返されます。この批判は諸外国の政策だけではなく、南王国の採った政策をも批判していると考えられます。おののき続けるアハズ王の戦略どおりにはことは進まず、結局南王国だけが救われるという願いは実現しませんでした。そこで10節の「インマヌ・エル」も8節同様に、「インマヌ・エルよ」という呼びかけと解したほうが良いと思います(新共同訳「神が我らと共におられる」)。自分の知恵や考えを絶対化してはいけない、神が味方にいるなどと豪語してはいけないという警告です。

 戦争の時代に政権(王)に反対して非武装中立を訴えるという大きな文脈にインマヌエル預言はあります。元来の「神は私たちと共に」というメッセージは批判精神に満ちた警告です。インマヌエルという赤ん坊は、隣国滅亡の年限のしるしにしかすぎません。マタイはこの否定的消極的使信を裏返します。王宮で生まれたアハズ王の子インマヌエルではなく、ナザレの大工ヨセフの子インマヌエルがおのれの民を救うキリストであるというのです(1章)。そしてインマヌエルというあだ名のキリストが、信徒一人ひとり(私たち)と共にいるというのです(28章)。どんな時でも。マタイの教会は、インマヌエルという言葉を切り取って、肯定的積極的使信を打ち出しています。私たちはこの両者(イザヤとマタイ、旧約と新約)を統合しなくてはいけません。

 今日の小さな生き方の提案は、素朴にキリストを信じることです。どんなことでも素直に求めることです。あなたの信があなたを救います。神は「アッバ(お父ちゃん)、これがほしい」という私たちの求めを喜んで聞きます。この素朴な信を前提にしつつ、信仰によって自分を絶対化しないということが信徒に求められます。自分は常に正しい、自分は神の側にいるなどと思い上がってはいけません。「神は私たちと共にいるのだ」と言っているその「私たち」とは誰なのか考えるべきでしょう。神は本当に伴っているのか自分を冷めた目で見る能力も必要です。一人ひとりは罪びとでしかないからです。この自己吟味/否定を前提にしつつ、神が私たちと肩を並べるために神の子を遣わした恵みが、自分の人生を豊かにすることを信じましょう。後ろから駆け寄り「私はあなたと共にいる」と肯定的に語りかける方が、私たちの救い主です。