はじめに
1-6節で三人の女性たちが登場しました。その三人の継承者が本日の箇所にも登場しています。「ウリヤに属する女性」(6節)、バト・シェバです。これらの女性たちの継承者がナザレのマリアです。女性たちの歴史は「弱者の歴史」とも言えます。全員非イスラエル人でもあるからです。タマルとラハブはカナン人、ルツはモアブ人、そしてバト・シェバは夫と同じくヘト人であると推定されます。イスラエル社会の片隅に押しやられた人々の物語です。
一方、本日の箇所は南ユダ王国のダビデ王朝直系の男性王たちを紹介しています。「ソロモン」(6節)以下の人物たちです。この系図は表舞台の「強者の歴史」です。教科書に載るような国家お墨付きの登場人物による物語です。聖書にはこの強弱両者が絡み合って混在しています。ダビデ王朝という強者の歴史でさえ、より強い帝国(アッシリア、バビロニア)に占領された歴史でもあるので、わたしたちの視座は社会的弱者に置かれるべきです。
6 で、ダビデはウリヤに属する女性からソロモンを生んだ。 7 で、ソロモンはレハベアムを生んだ。で、レハベアムはアビヤを生んだ。で、アビヤはアサフを生んだ。 8 で、アサフはヨシャファトを生んだ。で、ヨシャファトはヨラムを生んだ。で、ヨラムはウジヤを生んだ。 9 で、ウジヤはヨタムを生んだ。で、ヨタムはアハズを生んだ。で、アハズはヒゼキヤを生んだ。 10 で、ヒゼキヤはマナセを生んだ。で、マナセはアモスを生んだ。で、アモスはヨシヤを生んだ。 11 で、ヨシヤはエコンヤと彼の兄弟たちを生んだ、バビロンの移住の際に。
ウリヤに属する女性、バト・シェバ
ダビデ王には多くの妻がいました。その中には夫が別にいた女性もいます。ナバルという男性の妻アビガイルという女性や(サム上25章)、ウリヤという男性の妻バト・シェバです(サム下11章)。複数の女性と同時に結婚することは現代日本では非合法な重婚であり倫理にもとる行為です。女性が男性に属する所有「物」と考えられていたために、資産があれば多くの女性を資産の一種として妻とすることが合法かつ倫理的問題なしとされていたのです。
「ウリヤに属する女性」(6節)という、バト・シェバに対する紹介は、女性たちが夫の所有「物」だったことを示しています。「誰々夫人」などという呼び方も、この延長線上にあるので問題です。その人の名前で呼ばずに夫の姓のみを呼び、「その夫に属する人」という意味で「夫人」というからです。バト・シェバという名前を記さないところにマタイ教会の限界を見ます。
それと同時にマタイ教会の人々は、ダビデの不倫と殺人の罪を批判しています。タマル、ラハブ、ルツは元夫の名前が挙げられていません。タマルには二人の前夫がいましたし、ルツにも前夫がいました(ラハブは不明)。タマルとルツは夫と死別したのですが、バト・シェバの場合は異なります。ダビデは彼女を強かんし、妊娠させ、この不祥事を隠すために彼女の夫ウリヤを自分の権力を濫用して死に至らしめたのでした。ウリヤがダビデ王の忠実な家臣だったことをダビデは悪用しています。ダビデはウリヤを殺し、その妻を彼の死後自分の妻としたのです。一夫多妻制のもとであっても倫理にもとる行為。この罪を忘れないために、マタイ教会は「ウリヤ」という名前を紹介します。もっともダビデのバト・シェバに対する罪はやや軽視されているように読めますが。
ダビデにだけは「王」(6節)という称号を付けていることも示唆的です。キリスト者は王のように威張ってはいけません。むしろ仕えるべきです。あずかっている力を濫用してはいけません。キリストは僕となった王でした。
南ユダ王国の歴史(列王記上下に基づいて)
系図というものは歴史の概略です。歴史は常に後世に評価されます。何らかの評価に基づいて歴史は書かれるものです。列王記の評価基準は、①ダビデのように神を集中して愛したか、②聖なる高台(後述)を設置/存置したかです。①がプラス評価、②がマイナス評価となります。これが「ヤハウェの目」(神目線の尺度)となります。ダビデはウリヤの件以外では模範的な王とされています。ダビデの良いところは心を尽くして神を愛していること、言い換えれば悔い改めることができる謙虚さを持っていることだと思います。低い姿勢でヤハウェを礼拝することが高き所(バモト)での礼拝と反対の姿勢です。
「ソロモン」(6-7節)はエルサレムに神殿(ヤハウェの家)を建築したことで有名です。しかし彼は晩年ヤハウェの神だけを礼拝せず、さまざまな偶像の神々を礼拝しました。特に「聖なる高台」(バモト)と呼ばれる礼拝施設をエルサレムに造っていることが重要です(王上11章7節)。ダビデのようではないこと、バモトの設置により、ソロモンはヤハウェの目に悪い王です。AからCへの変化はソロモン特有の現象です。
ソロモン以降はかなり機械的にA・B・C評価が付けられています。まとめて言えば、A評価は二人(ヒゼキヤ、ヨシヤ:後半のみ)、B評価は四人(アサ、ヨシャファト、ウジヤ、ヨタム:前半・中盤のみ)、C評価は七人(レハブアム、アビヤ、ヨラム、アハズ、マナセ、アモス、エコンヤ:全体を通じて分布)となります。こうしてダビデ王朝は全体として、ヤハウェの目に悪を行っていたということ、それゆえに「バビロンの移住」(11節)が起こり、滅ぼされたのだという評価が列王記によって下されます。
細かく見てみましょう。C評価の晩年のソロモンを引き継いだ「レハブアム」(7節)はCを続けます。息子「アビヤ(ム)」(7節)も、「父がさきに犯した全ての罪を犯し、その心も父祖ダビデの心のようにヤハウェと一つではなかった」(王上15章3節)と言われていますから、Cが三連続です。「アサ(フ)」(7-8節)は父祖ダビデと同じようにヤハウェの目にかなう正しいことを行います(同15章11節)。プラスです。しかし、その彼も聖なる高台を取り除きません。この点マイナスですから相殺されます。「ヨシャファト」(8節)の評価は父アサとそっくりです(同22章43-44節)。プラスマイナスゼロでB評価、二人の王はCの三連続をBの連続に転化しています。前半の五人においてCBで数的には拮抗、Cやや優勢です。
「ヨラム」(8節)は「ヤハウェの目に悪」と断じられCです。Cの原因は結婚相手(アハブの娘アタルヤ)とされています(王下8章18節)。「ウジヤ(=アザルヤ)」(8-9節)と「ヨタム」(9節)はBの連続です(王下15章3-4・34-35節)。「アハズ」(9節)はCです(王下16章1-4節)。中盤の四人においては完全にCB拮抗に見えます。しかしここには注意点があります(後述)。
「ヒゼキヤ」(9-10節)はダビデ以来初めてのA評価です(王下18章3-4節)。彼が初めて聖なる高台を取り除いたからです。「マナセ」と「アモス(アモン)」(10節)はC連続です(王下21章2-3・20-21節)。ちなみにマナセは聖なる高台を再建し、神殿の中にさえも偶像を入れたことで最大級のC評価(C-)です。それに対して孫の「ヨシヤ」(10-11節)が最大級のA評価(A+)(王下23章25節)となります。彼が徹底的に聖なる高台を取り除いたからです。最後に「エコンヤ(=ヨヤキン)」(11節)はC(同24章9節)。このエコンヤが第一次バビロン捕囚で移住させられます(前598年)。後半五人にはBがいません。A対Cの対決で2対3、A+とC-も相殺されますから、やはりC優勢となります。
「ダビデの子」の歴史は高みを取り除けない醜い歴史です。神を愛さず高みを目指すときに国家も個人も破滅へと歩むことが示されています。そして王政という制度そのものの問題を感じます。どんなにA評価の王でも、政教分離原則に触れるからです。今年のノーベル経済学賞受賞者のアセモグルというトルコ人経済学者の本を読んでいます。政治制度が貧困を決定づけるという学説です。地域/文化/人種ではなく、権力を分配する仕組み、参政権の保障があるかないかで、次の時代の経済格差が生まれるというのです。だから王政や特権階級による長期政権は問題です。
外された人々(見えないものに注目する)
マタイ福音書のダビデ王朝の系図にはあえて外された人々がいます。省略の基本的な理由は、一つの時代を十四代に区切るためという「人数調整」でしょう(17節)。そうだとしてもなぜ特定の人々が外されたのかを問うことは重要です。「弱者の歴史」とはしばしば外された人々の歩みだからです。
歴代誌上3章10-16節と比較すると、ヨラムとウジヤ(7節)の間に男性王が三名(アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤ)・女性王が一名(アタルヤ)外されています。また、ヨシヤとエコンヤの間に男性王が一名(ヨヤキム)外されています。フェニキア人の母を持つアタルヤが外されている理由は明確です。系図が男性の物語だからです。民族差別ではなく女性差別、ここには女性憎悪misogynyすらあります。女性が王だった時代があったことそのものを消すからです。マタイ教会は、ヘト人ウリヤの妻バト・シェバを取り上げながら、イゼベルの娘アタルヤを排除します。本来ならば、「ヨラムはアタルヤによってアハズヤを生んだ」という記述があるべきなのです。こうしてアタルヤの息子アハズヤも必然的に省略されます。アハズヤを記載するとアタルヤを記載せざるを得なくなるからです。見えないところを見る必要があります。
アハズヤは母アタルヤを理由にCです(王下8章27節)。ヨアシュとアマツヤはBです(王下12章3-4節・14章3-4節)。中盤にこの三人が加わると実はBがやや優勢となります。マタイ教会はそれも嫌ったのでしょう。Cは全時代で優勢でなくてはならないからです。後半のヨヤキムはCですが(王下23章37節)、ヨヤキムがいなくても後半のCの優位は変わりません。
こうしてマタイ教会は、ダビデからウリヤへのパワーハラスメントや民族主義には敏感であるけれども、家父長制を基礎にしたダビデ王朝が抱える女性差別、女性憎悪、女性への暴力に対しては鈍感です。本当は同一の問題です。
今日の小さな生き方の提案
結局のところ「高きところ」が問題です。B評価の欺瞞というべきでしょうか。神を、実に神のみを愛して礼拝していれば、高みを目指すことはありえず、悔い改めの道、低みへと上る道を採っているはずなのです。この道に力の濫用が入る隙間はありません。罪とは高きところと言い換えられます。礼拝や信仰生活とは高きところを取り除く日常です。イエスをキリストと礼拝することは、十字架の道を歩むことです。ゴルゴタの丘を十字架の重みで腰をかがまさせられ低い姿勢で上り続ける、へりくだりの道がわたしたちの模範です。