8 そしてこれらがエジプトへ来つつあるイスラエルの息子たちの名前。ヤコブと彼の息子たち(の名前)。ヤコブの長男ルベン。 9 そしてルベンの息子たち。エノクとパルとヘツロンとカルミ。 10 そしてシメオンの息子たち。エムエルとヤミンとオハドとヤキンとツォハルとカナンの女性の息子サウル。 11 そしてレビの息子たち。ゲルションとケハトとメラリ。 12 そしてユダの息子たち。エルとオナンとシェラとペレツとゼラ。そしてエルとオナンはカナンの地で死に、ペレツの息子たちはヘツロンとハムルとなった。 13 そしてイサカルの息子たち。トラとプワとヨブとシムロン。 14 そしてゼブルンの息子たち。セレドとエロンとヤフレエル。 15 これらは彼女がヤコブのためにパダン・アラムで生んだレアの息子たち。また彼の娘ディナと共に。彼の息子たちと彼の娘たちの命の全ては三十三。
本日の箇所は、エジプトへ引っ越したヤコブ一家のメンバー表です。整理のために、ヤコブの四人の妻には二重下線を、ヤコブの息子・娘には囲みを、女性には太字下線を施しています。
今回の鍵は数字です。レアの子孫の数が三十三とありますが、全員を足すと三十四人います。この表には初めディナという女性が含まれていなかったと考えられます。原文の15節において、「また彼の娘ディナと共に」という部分は、構文的に不自然に浮いています。後から付け加わったからです。おそらく直後の「と彼の娘たち」も同じ時に付け加わっています。
聖書に出てくる多くの系図がそうですが、このメンバー表は男性中心にできています。最初から女性を数に入れていないのです。その上で、枠組みとしての数字は先に決まっているように思います。まず「七十」という数字があります(27節)。聖書においては完全な長さや分量を示す象徴的な数字です。「七十」という数字は、「イスラエル民族がこの時点で成立していた」のだという主張です(出エジプト記1章1-3節も参照)。この完全数「七十」からヤコブとヨセフとマナセとエフライムを引いて「六十六」という数字を導き出します(26節)。その半分としての「三十三」がレアに割り当てられています(15節)。実際、12節で曾孫の代であるペレツの息子たちまで動員して、無理に「三十三」にしています。つまりレアの子孫がイスラエルの多数派・保守本流であるという主張がここにはあります。それは聖書を読む大きな視点です。「旧約」の代表は、二つの救いの約束です。それぞれの立役者であるモーセ(レビ部族。シナイ契約)もダビデ(ユダ部族。シオン契約)もレアの子孫です。
そこにディナを書き込んだ聖書記者らがいました。聖書は複数人の手によって編まれた本です。ディナを加えた人々は男たちの正史・「彼の物語his-story」に挑戦状を突きつけました。ディナとその姉妹たちを書き込むことで、三十三や七十という数字が欺瞞に満ちていることが即座に暴露されています。本当はレアの子孫も三十四人以上いることが明白となるからです。イスラエルの実数は総勢百四十人ぐらいのはずです。26節に「ヤコブの息子たちの妻たちを除く」と、余りにも正直に書かれているとおりの性差別状況に、ディナが抗議をしています。「わたしたちも歴史の主役である、同じ命(ネフェシュ)だ、わたしの存在を勝手に消すな」。これが「彼女の物語her-story」。特にシケムにおける性暴力事件の被害者である彼女を記念する歴史が必要です(34章)。
16 そしてガドの息子たち。ツィフヨンとハギとシュニとエツボン。エリとアロディとアルエリ。 17 そしてアシェルの息子たち。イムナとイシュワとイシュビとベリアと彼らの姉妹セラと、ベリアの息子たち。ヘベルとマルキエル。 18 これらはラバンが彼の娘レアのために与えたジルパの息子たち。そして彼女はこれらをヤコブのために生んだ。十六の命。
次にジルパの子孫です。数に入れられず名前も消され存在を無視されている女性たちの名誉回復という視点に立つとき、アシェルの娘セラも際立っています。これは聖書を編纂し作成する際の#MeeToo運動です。ディナの体験はわたしの体験であるとセラも声を上げています。セラはディナの次世代後継者でありディナを凌いでいます。最初から「十六」という数字の中に数えられているからです。ジルパの子孫においては、セラという女性の全存在(ネフェシュ)が覚えられています。
なお、新約聖書の時代アシェル部族出身のアンナという預言者が登場し、赤ん坊のキリストに出会い賛美する場面があります(ルカ福音書2章36節)。北の十部族は消滅しているはずなのに、なぜルカ福音書はアシェル部族を持ち出したのでしょうか。ここにアシェルの娘セラとの関係を読み込みます。旧約聖書には女性の預言者はわずか四名しか登場しません。ミリアム、デボラ、イザヤの妻、フルダです。新約聖書の時代にはアンナに加えて、たとえばコリント教会には、パウロとは意見が異なる、多くの女性の預言者たちがいたことが推測されています。使徒フィリポの四人の娘たちも預言者でした(使徒言行録21章9節)。「わたしも」「わたしも」という人たちがどんどん増えていくのです。これはキリスト教史における#MeeTooです。
政治家であれ牧師であれ、女性指導者が圧倒的に少ない国にわたしたちは住んでいます。ニュージーランド、ドイツ、台湾、フィンランド等の女性政治指導者たちの活躍はまぶしいばかりです。社会全体の損失であり、社会全体の悪です。イスラエルの移住者一覧表は、現代日本社会を映す鏡です。
19 ヤコブの妻ラケルの息子たちはヨセフとベニヤミン。 20 そして彼はヨセフのためにエジプトの地で生まれた。すなわち、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトが彼のためにマナセとエフライムとを生んだ。 21 そしてベニヤミンの息子たち。ベラとベケルとアシュベルとゲラとナアマンとエヒとロシュ。ムピムとフピムとアルド。 22 これらはヤコブのために生まれたラケルの息子たち。命の全ては十四。 23 そしてダンの息子たち。フシム。 24 そしてナフタリの息子たち。ヤフツェエルとグニとイェツェルとシレム。 25 これらはラバンが彼の娘ラケルのために与えたビルハの息子たち。そして彼女はこれらをヤコブのために生んだ。命の全ては七。
#MeeTooという命のバトンが、新しい視点を加えてリレーされていきます。ヨセフの妻エジプト人女性のポティ・フェラです。聖書には、純血主義と多文化主義が混在しています。一覧表はイスラエルの複数のルーツ(多民族性)を正直に明かしています。出エジプトの時点でも「種々雑多な人々」と共にいたことが記されていますが(出エジプト記12章38節)、そもそもイスラエルが種々雑多であり、エジプト人と近い親戚なのです。しかも後にイスラエルの中心となるヨセフの子孫たちが、エジプトにルーツを持っているというのです。
多民族・多文化の視点から読み直してみましょう。シメオンの妻の一人はカナン人の女性です(10節)。本来ならばここで名前を挙げられるべきタマル、ユダの妻でありペレツとゼラの母親であるタマルは、カナン人です(38章)。住んでいる土地でその土地の人と結婚することは自然な成り行きです。イスラエルは自分たちのことを「アラム人(メソポタミアの一部)だった」と言っています(申命記26章5節)。その通りです。アブラハムもサラも、リベカも、レアもラケルもビルハもジルパも、みなアラム人です。メソポタミアにルーツを持つ人々が、カナンの地に定住し、エジプトの地に定住し、それぞれの土地の人と結婚しているに過ぎません。
最近のDNA調査は興味深い結果を示しています。地球上のすべての人が「雑種」なのだそうです。この調査に協力した白人至上主義者は自分の遺伝情報に有色人種のものも織り込まれていることにショックを覚えています。すべての民族主義や血統主義を粉砕する結果です。聖書は、すべての人は神の似姿だと言います。それは全員平等に尊重されるべきということですし(「雑種」として同じ)、一人一人が個別に別人格として尊重されるべきということです。
ラケルだけが「ヤコブの妻」と呼ばれています。それだから、「十四」という数字が割り当てられています(22節)。「十四」は「七」(25節)の倍です。ちなみにヨセフには「倍」という意味があります。最初に申し上げたとおり「七十」が枠組みとしてあります。その十分の一の「七」もまた聖書では完全数と考えられています。天地創造が七日であることや、ベエル・シェバ(七)という地名も「完全」という意味合いを含みます。ビルハの子孫が「七」であることが先に決められ、ビルハの上役にあたるラケルの子孫が、倍の「十四」とされたのでしょう。ベニヤミンの息子が非常に多いのも「十四」に合わせるためです。マナセとエフライムは後に「部族」に格上げされるので、ヨセフの息子はこの二人だけでなくてはいけません。ヤコブの長男ルベンによる性暴力被害者ビルハの子孫が、「完全」とされ名誉が回復されていることも見過ごせません(35章22節)。七という完全についての基礎単位は、最も小さくされたビルハの子孫にこそふさわしいのです。ディナとビルハが呼応しています。
いわゆるラケル系(ラケルとビルハ)の子孫には「完全」という質が与えられています。七×三です。三もまた完全数ですから。その一方でレア系(レアとジルパ)の子孫には「大多数」という量が与えられ、バランスが図られています。神は、性差別や一夫多妻制に苦しむ四人の妻、それぞれに目を留められています。同じ神が、出エジプト記において、プアとシフラ、ヨケベドとミリアム、ファラオの娘たちを用いてイスラエルを救い出すのです。
26 ヤコブに属する、エジプトへ来つつある命の全ては、ヤコブの息子たちの妻たちを除いて、彼の腰(から)出ている。命の全ては六十六。 27 そしてエジプトで彼のために生まれたヨセフの息子たちは、二つの命。エジプトへと来つつあるヤコブの家に属する命の全ては七十。
カナン人やエジプト人ではない、「ヤコブの息子たちの妻たち」(26節)は何人なのでしょうか。母親の違う姉妹との結婚がありえます。あるいは親戚の伯父エサウの娘たちや、大伯父イシュマエルの子孫もありえるでしょう。そうだとしても、エサウはヘト人女性や(26章34節)イシュマエルの子孫と結婚していますし(28章9節)、イシュマエルの妻はエジプト人なのですから(21章21節)、結局先に述べた結論と同じです。イスラエルも、また地球上のすべての民も、「一つの雑種の民」です。それと同時に、各個人はかけがえのない「神の子」としての命(ネフェシュ)です。
今日の小さな生き方の提案は、当たり前を当たり前にしないという視点を持つことです。批判精神と言います。ノルウェーの子どもがバイキング時代の歴史番組を観て、「この時代には女の人がいなかったの」と親に聞いたそうです。女性首相が当たり前の状況が、中世の女性差別を笑い飛ばしています。ノルウェーでも100年前はオッサン政治でした。誰かが「これは変だ」と気づき、その声をこだまさせ増やしていった結果なのです。his-だけでもなく、her-だけでもない、わたしたちの歴史をつくっていきましょう。聖書は当たり前を問い直す視点を与えてくれます。真理がわたしたちを自由にします。