エジプト人の好意 出エジプト記11章1-10節 2015年6月28日礼拝説教

先週、ファラオとモーセ・アロンは物別れになったように思えます(10章28節・29節)。お互いに「二度と会わない」と言っているからです。ところが11章4節・8節によれば、モーセ・アロンはファラオと面談をしています。これは非常に不自然な文脈です。

今回は今ある本文の順番に従って、この不自然さを説明していきます。その鍵は3節にあります。「モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた」という部分です。「大いに尊敬を受けていた」の直訳は、「眼の中で大きかった」です。「モーセがエジプト人には大きく見えた」ということでしょう。80歳のお爺さん羊飼い、ミディアン人のいでたちをしたヘブライ人奴隷、この世的に見れば小さな存在であるモーセが、大きく見えたのはなぜでしょうか。

おそらくファラオの家臣も一般のエジプト人もファラオとの交渉を諦めずに続けるモーセの姿を見て、大いなるものを感じていったのでしょう。最初は彼らの眼にモーセは小さく見えていたと思います。何十年もミディアンの言葉を使っていたために、エジプトの言葉も不自然であり、ヘブライ語もたどたどしい老人。しかも、エジプト人が忌み嫌う羊飼いという職業なので動物の匂いや毛が着いた衣服を着ているモーセ。外国人差別・高齢者差別・職業差別・言語的少数者差別の対象です。エジプト社会で「小さくされている存在」なのです。

腰を屈まさせられ、屈従を強いられている状態の人、聖書ではこのような人を「柔和な人」と呼びます。民数記12章3節にあるモーセの人となりを、新共同訳は「地上のだれにもまさって謙遜な人」と訳し、口語訳聖書は「柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と訳します。どちらもモーセの心根の「低さ」=性格の良さを言っています。しかし原語は、精神的な面と同時に社会的低さをも含む言葉です。実際今までのモーセの発言の中には柔和さや謙遜さとはかけ離れたものもありました。8節の「憤然と」する態度も柔和・謙遜からは説明がつきません。

一見弱々しいモーセは不屈の人でもありました。ファラオの権力と権威に屈しないで話し合いを主導し、続けていったからです。その根性の原動力は、神からの召命と派遣、苦しめられているヘブライ人仲間からの信頼と委託、派遣です。モーセは諦めません。自分の名誉や富のためではなく、神の求める正義・公正のため、不当な抑圧に苦しむ仲間の悲痛な叫びのために、自分が召され派遣されていることを知っているからです。

「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5章5節)。不屈の魂で国家権力と粘り強い交渉を続けるうちに、ファラオの家臣たちの眼にモーセが大きく映るようになります(9章20節、10章7節参照)。エジプトの民の眼に偉大な人物とみなされていきます。ただひとりファラオ以外のエジプト人はすべてモーセを尊敬します。かつてのエジプトの王子モーセは、まったく別の仕方でエジプトの地を相続したのです。

だからファラオとモーセの交渉は決裂しません。おそらくファラオの家臣たちが世論の後押しを受けて、モーセとの再面談を実現させたのでしょう。「こんなに自国に被害が起こっているのに、しかもその原因はかなり明らかにファラオのせいなのに、モーセとの対話を拒むファラオの政策がおかしい」と、ただひとりファラオ以外のエジプト人全体が考え始めたのです。

こうしてお膳立てされた最後の面談は、ファラオの反応がまったく記されないものとなりました(4節-8節)。今までと比べても、対話しながら応答が無いという態度は珍しいものです。招致された参考人が全員「憲法違反」と言っても、まったく無視を貫く政権の態度によく似ています。だからモーセは憤然とします(8節)。

「ヤハウェがファラオの心をかたくなにした」(10節)といつもの表現があります。この言葉の裏側に反対のことがらが起こっています。ヤハウェがファラオ以外のエジプト人の心を柔らかにしたという事態です。エジプトの民がモーセ及びヘブライ人に好意を持つようになったということです(3節)。一人の不誠実な権力者の振る舞いが、逆に誠実な人々の振る舞いを照らし、すべての人の心を揺さぶるのです。「ヤハウェはエジプト人の眼の中にこの民への恵みを与えた」(3節直訳)。あるエジプト人は良心の痛みを覚えて金銀の装飾品をヘブライ人に寄付し、あるエジプト人は打算的にヘブライ人の早期退去を認めます(12章33節以下)。いずれにせよ、エジプト人の目にヘブライ人は恵みを施す対象となっていったのでした。

神の救いという恵みは一連のプロセス(過程)です。思えばこの長い交渉の末に起こる恵みを神は最初から予告していたのでした(3章19節以下)。復活の前に必ず十字架を負わなくてはいけないという予告は真実なものでした。実はヘブライ人の努力だけではなく、抑圧者であったすべてのエジプト人の協力があって初めて出エジプトという救いの出来事が完成されたのです。ファラオがエジプト人もヘブライ人も苦しめているという見地に立てば、両者には対立する理由がありません。分断させられてはいけません。

「あなたの家臣はすべてわたしのもとに下って来て、『あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください』とひれ伏し(頼む)」(8節)という事態はすでに起こっています。原文は、過去の文章とも翻訳できます(完了)。問題はファラオがそれを追認するかどうかだけです。ファラオは12章31節まで追認の決断ができません。この時点では無視をしました。

モーセはエジプトの民・家臣の言うことも聞かないファラオに憤りました。この後起こる悲劇がどのようなものか、すべてのヘブライ人はすでに知っています。最初に生まれた男性がすべて死ぬことは、ナイル川に放り込まれたヘブライ人男児たちの悲劇と呼応しています。第一の災いで真っ赤に染まったナイル川と、第十の災いで真っ暗闇の中エジプト人家庭に起こる悲しみは呼応しています。重労働のゆえに呻き叫んだヘブライ人奴隷の叫びと、初子の死を悼むエジプト人の大いなる叫びは呼応しています(6節)。ここまで悲劇が広がらない限り理解しようとしないファラオの鈍感さにモーセは憤ります。

さてここで最後の災いの性質について考えてみます。11章1節に「もう一つの災い」とあります。ここで災いと訳されている言葉ネガアは「病気」という意味が一般的なものです。しかし今までの災いにおいては一度も用いられなかった言葉です。家畜や人間の初子が死ぬという災いが病気であった可能性があります。しかも誤った国策によって引き起こされた病気です。

わたしはここに水俣病との類似を見ます。熊本県水俣市にはチッソという企業がありました。水俣市は企業城下町でした。塩化ビニールが開発される前、酢酸ビニールというものが主流でした。国を挙げて大増産を推進していたのです。その生産過程でメチル水銀という有毒物をチッソは有明海に垂れ流していました。メチル水銀は魚介類に摂取され、食物連鎖の過程で濃縮され、その魚を毎日食べていた漁師の家庭で「水俣病」が引き起こされます。足尾鉱毒事件に続く、日本の公害問題の原点と呼ばれる事件です。

胎児性水俣病という言葉をご存知でしょうか。妊娠中の母親の摂取したメチル水銀が胎盤を通って赤ん坊に引き継がれ先天的に水俣病患者として生まれる場合を指す言葉です。非常に複雑な事態を起こします。母親もその次に生まれる子どもたちも、胎児性水俣病患者のおかげで水俣病の発症が食い止められるからです。水俣病は初めての子に集中します。

西南学院大学の神学生だった頃、4回ほど水俣を訪れました。安藤榮雄という牧師の教える実践神学Bという講義の一環で春休みに実地研修があったからです。そこで元漁師の患者さんや胎児性水俣病の患者さんにもお会いしたことがあります。国策による公害が神学の課題であることを学ぶ良い研修でした。それは、東京電力福島第一原子力発電所事故によって大気圏放出された放射性物質に苦しむ現在、考え方の視座を持って卒業できた恵みに感謝しています。神学生時代の学びの充実が大切であることを痛感します。

モーセは預言者としてエジプト国家に警告していました。エジプトの官僚たちもファラオに忠告・助言・諫言していました。エジプトの民もファラオにお願いをしていました。それでも国策は止まらないものです。それによって「公害」が起こり、大きな悲劇がエジプト中に起こります(5節)。

突き詰めて考えると公害の原因は神にあります。神がファラオをかたくなにしたからです(10節)。確かに国家権力というものは硬直化しやすいし、そのようなものとして神は「使い勝手の悪い救いの道具」として国家を立てています。また神が真夜中エジプトの真ん中に出て行ったから病気が起こったのです(4節)。神が初子に触れ・撃ったので、初子は突然死・病死しました。先ほどのネガアという単語は「触れる」という言葉から派生したものです。「神が触れると病気になる」と古代人は考えていたからです。神はそこまで悪くないエジプト人や家畜に対して酷なことをしているように見えます。

しかしどうでしょうか。聖書の神は中立的な神なのでしょうか。最近、「中立」という言葉の胡散臭さが目立ちます。「報道の中立」を盾にして、政権が政権に批判的な報道を規制しようと公言しています。すでに介入傾向があることを批判されているにも関わらず、それを一層推し進めようとしています。「教育の中立」を盾にして、政権が政治教育(18歳選挙に伴う)に介入しようとしています。中立と言いながら右に傾ける力がかなり大きい昨今です。

むしろ逆側に傾ける力が必要とされます。先日とある勉強会に参加したところ、質疑応答の時間に司会者が「マイノリティの方の質問を優先します。男性の質問の後なので、女性かLGBTの方どうぞ」と仕切っていました。すでに傾いている天秤なのですから、逆に傾けることは依怙贔屓には当たらないということでしょう。ヤハウェの「強い手」(4章19節)は傾いた天秤を逆に傾ける豪腕です。つまりどこに立ってものを考えるかが問われています。ヤハウェ神は抑圧されたヘブライ人奴隷の神です。不偏不党の中立的神・無感動な神ではありません。この点で神はイスラエルとエジプトを区別して扱い、イスラエルの解放を実現させる神です(7節)。そこに賛同するエジプト人も解放されるでしょう。しかし中立を装ってファラオの政策を黙認・是認する者たちは決して救われないのです。小さくされたヘブライ人たちこそ、神の目の中に高価で尊い者たちだったのです(イザヤ43章4節)。

今日の小さな生き方の提案は自分の立ち位置を確認することです。ここに集う者たちの中で誰も大きな者はいません。そして誰も大きい者を目指すべきでもないでしょう。小さくされている者が偏愛されること、低い姿勢のままで粘り強く生きる者が逆に大きな者になることを信じましょう。そうして力を濫用し「公害」を引き起こしている者たちを批判しましょう。神はそのような者たちの神です。誰からも脅かされない平和は、小さくされ・低くされながら仕え合う小さな群れに与えられる恵みです。