エトロとの別れ 出エジプト記4章18-23節 2015年3月15日礼拝説教

JEDPという四つの思想集団が織り成す出エジプトの物語を読んでいます。今日の箇所は全体的にJが支配的です。ただし18節はE、21節の「しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう」という部分だけはPの付け加えと言われます。どうしてこのような仮説が立つのか、考え方のコツを申し上げます。

18節は、3章14節の「わたしはある」という神の名の啓示記事の直後にすんなりとつながります。それに対して3章15節はヤハウェという名前を教えています。すでに「エフイェ」という名前を教わったばかりなので、「重複」というぎこちなさが起こっていることが分かります。ここでEからJに筆が変わったので、このような重複が起こっていると推測できます。

同種の重複が4章18節と19節の間にも起こっています。18節においてはモーセが一人でエジプトに戻ることを決断しています。それで十分なのに、19節はヤハウェが重複してモーセにエジプトに戻ることを命じています。ここでEからJに筆が変わったのです。〔そして19節からは神の名が「ヤハウェ」〕

Pの付け加えについて言えば、このフレーズがPの常套句であるとだけ申し上げておきます。6章2節-7章7節はPによるモーセの召命記事ですが、その中にも同じ言葉が繰り返されています(7章3節他)。重複という現象だけではなく、常套句によっても別の人の筆は見分けが可能です。

今日の箇所の三種類の集団による書き込みは、人間の心について考えさせるものです。魂/良心の自由というものをバプテストは大切にしています。どんな人にも神を信じる自由、信じない自由が保証されています。では、神を信じようという人間の決断はどのようにしてなされるのでしょうか。

E集団ならば一人で即断即決という決め方をお勧めするでしょう。神と一体一で差し向かい、上から垂直に「従え」という命令を聞き、否応もなく信じて従う、なぜならすべての人は「わたしはある」だからです。モーセは妻子の存在も忘れて単独でエジプトに戻っています。この態度は18章(E)の文脈にも滑らかにつながります。20節に反して、18章3節で舅エトロがモーセの妻子を連れてくるからです。Eによればモーセは一人でエジプトに帰っています。

J集団ならばヤハウェとの対話の中で信頼を深めながら従うという熟慮と対話を経ての決め方をお勧めするでしょう。ヤハウェはモーセの隣にいて助言をし、おそらくモーセは家族にも相談してエジプトに共に戻ります(20節)。

P集団ならば人が神を信じるかどうかは、すべて神が予め定めていると言うでしょう。ある人が頑なに信じないのも、ほかの人が素直に信じるのも、全能の神がそうさせているのです。ファラオが頑なになる原因や理由は詰まるところ神に由来します。唯一神教として洗練された考えです。

これらの三つの考え方はそれぞれに真実です。「信ぜよ」という強い迫りを個人的に感じる場合もあれば、誰かに相談しながら徐々に信仰心が固まる場合もあれば、聖霊が信仰告白へと導いたとしか言いようがないという場合もあります。一つの聖書が多種多様な表現で、信仰心について語っていることはありがたいことです。わたしたちとしては、どれかに引っかかっていれば良いからです。自分に対してはそれで安心です。そして隣人に対しても杓子定規を当てはめない気持ちになります。さまざまな信じ方があって良いはずです。こうして多様性に開かれた精神/寛容な精神を養うために用いることができるので、JEDPは信仰生活にとって有益な学説です。

さて今日の物語には二つの重要な言葉があります。18節の「無事で行きなさい」と、22節の「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」です。これらの言葉を新約聖書と積極的に関係づけて深めていきたいと思います。

18節のエトロの言葉の直訳は「平和(のため)に行きなさい」です。「無事で」という訳には、シャロームという単語が見えなくなるという欠点があります(ギリシャ語訳も)。ヒエロニムスという人が紀元後4-5世紀に翻訳したラテン語訳聖書(ウルガタ訳)は、逐語的にvade in pace(平和に行きなさい)とし、ヘブライ語名詞シャロームとラテン語名詞パックスの対応を明確にしています。ギリシャ語訳に反対することにかなりの勇気が必要だった時代のことです。そして彼は同様にサム上1:17の祭司エリの発言、王下5:19預言者エリシャの発言も訳しています。ミディアン人祭司エトロと、イスラエルの祭司エリ・預言者エリシャは同列の重要な人物なのです。

さらにウルガタ訳は新約聖書マルコ5:34とルカ7:50に全くおなじ訳語をあてています(70頁、117頁)。「安心して行きなさい」というイエスの言葉をvade in paceと訳しているのです。ヒエロニムスという人が、エトロ・エリ・エリシャの発言とイエスの発言を同種のものであると理解していることが分かります。実際イエスが十二年間出血の止まらない女性に対して言った言葉も、「罪深い」と貶められていた女性に対して言った言葉も、「平和(のため)に行きなさい」だったのでしょう。ヒエロニムスという人は全聖書ラテン語翻訳という使命のために、わざわざベツレヘムに移住してヘブライ語を一から学んだ語学の達人です。イエスの発言の背後にヘブライ語表現があることを良く知っています。またシャロームという単語の重要性を認めています。

モーセはエトロにすべて正直には語っていません。「エフイェという神が出エジプトの指導者になれと命じた」とは到底言えなかったのでしょう。「わたしの兄弟たちが生きているかどうかを見届けたい」と言います。エトロはモーセの下手な嘘を見抜いています。今まで何十年も一緒に暮らしてきて、自分の兄弟のことなどモーセは言ったことがないでしょう。また、エジプトからの亡命も「ワケあり」であることはよく知っています。突然このようなことを言うには、何か重大な理由があるのだろうということは、エトロには推測できます。「もしかすると今生の別れになるかもしれない」とエトロは思いました。

そこで発せられた言葉が「平和(のため)に行きなさい」という重々しいものです。何のためにエジプトに戻るのかは詳しく聞かないけれども、どうせ行くなら一世一代の大仕事をやり遂げなさいということでしょう。モーセはヘブライ人の礼拝の自由を獲得するためにエジプトに戻ります。それは正に平和のための仕事です。エトロは預言者的にモーセの仕事を言い抜き、その仕事に祝福があるようにと祭司的に励ましているのです。粋な別れの挨拶です。

この言葉をモーセはありがたく受け止めます。「あなたの信があなたを救った。平和に行きなさい」と聞いた女性たちと同じような心持ちで、モーセはエトロの優しい言葉を胸に刻みます。もしエトロがいなければ、あの時野垂れ死にをしていたのです。エトロからすればモーセを行かせたくない場面でもあります。恩義を振りかざして引き止めることもできる場面です。信頼関係の破壊にもなりうる行為をモーセは取っています。しかし、それ以上の信頼がエトロにはあったのでしょう。「婿殿は平和のために行くのだ。帰るべきところに帰るのだ」と自分に言い聞かせて、エトロは「平和に行きなさい」と送り出しました。

さて、もう一つの鍵となる言葉は、「イスラエルがヤハウェの長子である」というものです(22節)。神と神の民との間には親子関係があるという考え方が重要です。ただしこの本題に入る前に、ひっかかる問題をここで考えます。

23節のヤハウェの言葉は、受け入れがたい論理を含んでいます。神の長子であるイスラエルをエジプトから去らせないならば、エジプト王の長子を神が殺しても良いという論理は、あまりにも乱暴であり大人気ないでしょう。Pの書き加えにより、ファラオが頑なな態度を取ることは神の作為とされているので、余計にファラオからすれば文句の一つも言いたくなる言い草です。自分の子がいじめられたら他人の子を殺して良いのでしょうか。仇討が合法だった江戸時代の倫理観が、死刑制度によって実質復古されていることに危惧を持ちます。

前にも申し上げたとおり、JはJの描く神ヤハウェへの懐疑の目/批判精神を持つことを望んでいます。宗教の名を持ち出したとしても、または神の名を騙ったとしても、このような殺害は許すべきではないのです。なぜなら、この方法では報復の連鎖が止まらないからです。読み進めていくと分かるように、ファラオはエジプト軍を出動して報復をしようとします。この古代エジプト軍とヘブライ人の関係は、現代のイスラエル軍とパレスチナ住民の関係に類似します。だからわたしたちは23節の論法を取るべきではありません。

22節の宣言がより重要です。旧約聖書には神の子イエス・キリストは登場しません。しかし、神の子イスラエルが登場します。イスラエルという民全体がナザレのイエスを指し示すのです。

イスラエルが神の子であるという考えは、前8世紀の預言者ホセアにまで遡ります(ホセ11:1)。そしてホセアを前7世紀の預言者エレミヤが引き継ぎます(エレ31:9)。二人は神の愛する子であるイスラエルが、神と共に歩みながら神の意思を行わないことを「立ち帰れ」と叫んで批判します。神から無条件に愛されているのに、神への応答がない神の子イスラエル。本当は世界の中でイスラエルは救い主として歩まなくてはいけなかったのです。神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合い、祝福を全世界に及ぼすべきだったのです。

そこで神は長子をこの世界に派遣されました。神の子イエス・キリストは、神の子らであるイスラエルの代わりに救いの代案としてこの世界に来られたのです。そして神を愛し、自ら隣人となる生き方を示し、十字架と復活によって神の子の使命を完遂しました。

物語はそこで終わりません。神は、やはり神の民にこだわります。今度はイエスに倣う新たな信仰共同体づくりが促されます。教会です。復活のイエスの霊が全員に配られ、すべての者が神の子らとなる集団です。この集団は、霊である神を愛する霊とまことの礼拝を捧げるための集まりです。そこには民族主義などの差別が一切ありません。すべての命を歓迎し、すべての命を祝福する集団です。神は神の子を通して新たな神の子らを創造したのです。わたしたち教会に連なる者は、自分たちの実践から逆照射して出エジプトの民・神の子らイスラエルと自分たちを積極的に重ね合わせて聖書を読むべきです。

今日の小さな生き方の提案は、「平和(のため)に行く」ということです。それは帰るべきところに立ち戻って、自分の持ち場で誠実に神を愛し・人を愛する生き方を実践するということです。今日の箇所には「帰る(シューブ)」という動詞が5回も登場します。これも鍵語です。「立ち帰る」「悔い改める」とも訳されます(ホセ12:7、エレ4:1、マコ1:15)。本心に立ち返って、本来居るべきところに立ち戻って、本質的になすべき仕事に従事しなおすことが大切です(ルカ15:17-19)。

わたしたちは元々神の子らなのです。だから、イエス・キリストを通して神の子らに立ち戻りましょう。そして神の似姿としての尊厳を取り戻し、神の子らとしての振る舞いをしましょう。神の懐に戻るために神を愛する礼拝をし、互いに隣人となり、この世界に出て行ってすべての命を祝福しましょう。それこそエトロの言葉を背中に受けて「平和(のため)に行く」ということです。