オリーブ山の祈り ルカによる福音書22章39-46節 2018年9月30日礼拝説教

本題に入る前に、4344節が亀甲括弧(〔 〕)によって括られていることについて申し上げます。聖書の翻訳には翻訳の元になる写本(底本)があります。新約聖書の場合は紀元後4世紀の大文字写本です(バチカン写本等)。亀甲括弧で括られている部分は、底本にはない部分です。底本になくても、さらに古いパピルス写本(断片的。紀元後1世紀に遡るものもある)に存在する場合は、元来の本文である可能性もあります。4344節の場合は、重要な写本群にも存在しません。底本よりも後の付加だということはほぼ確実です。4344節がなくても意味は通じるので、あまり重視しないという態度で臨みます。

本日の箇所の鍵は繰り返される表現、「誘惑に陥らないように祈りなさい」(4046節)にあります。この同じ命令が、物語全体の枠をつくって囲んでいます。囲まれた中心には、42節のイエスの祈りがあります。4344節を除けば、42節が分量的にも位置的にも中心となります。「誘惑に陥らないための祈りが、イエスの祈りの中にある」ということを、段落の構造が語っています。

イエスの祈りの言葉について、ルカ福音書はマルコ福音書をそのまま用いています(マルコ1436節)。しかし段落の構造を変えることで、イエスの祈りがますます重要になるように仕組んでいます。枠で囲んで中心をあぶり出す手法(集中構造)もその一つです。

もう一つは、弟子たちの居眠りに対する批判を重視しないという描き方にあります。特にペトロ(・ヤコブ・ヨハネ)という側近に対して、マルコ福音書は非常に手厳しい。警告されているにも拘わらず三回も居眠りをしているからです(同3741節)。このくだりだけでマルコ福音書は5節を費やしていますが、ルカ福音書はほんの2節にまとめます。その影響で、ますます「イエスの祈り」が前面に出ています。「弟子の居眠りは大した主題ではなく、イエスの祈った内容にこそ福音がある」と、ルカ教会は主張したいのです。

さらなる十二弟子への弁護として、居眠りの理由を「悲しみの果てに」(45節)と説明しています。これはマルコ福音書にない付け加えです。付加の理由は、居眠りした弟子たちを弁護することにあります。マルコ福音書は「イエスについて無理解な十二弟子像」を強調します。全体的にも、マルコは反パウロだけではなく、反ペトロでもあります。それに対してルカ福音書は「イエスの苦難を理解した上で派遣される十二使徒」を弁護します。そして使徒言行録においてパウロも(マルコを重用したバルナバも)使徒として認めています。

なお「悲しみの果て」という翻訳には、翻訳者の弁護も重なっています。直訳は「苦痛/苦悩において」です。使徒はイエスの十字架の苦痛を理解して、同じ痛みを共有していたとルカ福音書は報じます。マルコにない使徒びいきはルカの筆によるものです。一般に苦痛の中では人は眠りにつくことが難しいものです。使徒をかばうばかりに、ルカ教会は無理な形容をしてしまっています。無理をしてでも言いたいことは、祈りというものの重要性です。翻訳者も無理をして庇う必要はありません。弟子たちは泣きじゃくって疲れて眠ったのではなく、不自然にも苦痛を感じながら眠ったというように、ルカ教会の言いたいことに沿って翻訳したほうが誠実というものです。

祈りの重要性を伝えるために、ルカ福音書はイエスが祈る場面を多く記載しています。これは福音書全体を通じての特徴です。ルカ版イエスは、祈るイエスなのです(516節、612節、916節、102021節、111節)。またどのような祈りが良いかを教える方でもあります(11213節、18114節)。旅空を歩むメシアは、天を仰いで祈りながら、祈り方を教えつつ使徒たちと共に歩くキリストです。

この祈りの重要性は、モーセの律法に匹敵するものとして格上げされています。「いつものように」(39節)は、直訳「習慣に従って」という表現です。2137節によれば、イエス一行は受難週の一週間をオリーブ山で野宿をしています。その習慣を指して「いつものように」と翻訳しているのでしょう。オリーブ山で一週間寝泊りをするということもルカ福音書だけの特徴でした。

この「習慣/制度/儀式」(ギリシャ語ethos)という言葉は、モーセの律法や、それに基づくユダヤ人の生活習慣を指す言葉でもあります。ethosの圧倒的多数は、律法に基づく習慣の意味で用いられています。あえてこの言葉を使うことによって、イエスがオリーブ山で祈ることが、キリスト教会の信仰生活の規範にまで押し上げられています。

「新しい契約」による救いは、無条件の赦しです。モーセの律法を守るという条件付きの救いではありません。割礼を施してユダヤ人男性になる必要はありません。救われるために何もする必要はない。しかし、救われた後に、ある種の予防注射のように、した方が良いことが勧められます。それも、「すべき義務」というよりは、「した方が良い勧告」です。無条件の赦しは、人を無軌道に放任します。そこにガードレールが必要となります。生活習慣改善のお勧め。無くても生きていけますが、あると安全に生きることができるもの。それが誘惑に陥らないようにと祈る行為です。

では誘惑に陥らないようにと祈ることは何をすることなのでしょうか。誘惑とは何でしょうか。それはすでに4章で取り扱っている内容の復習です。4113節は、イエスが荒野で悪魔の誘惑を受けたという物語です。この物語全体が、イエスの神に対する祈りであったとも考えられます。イエスはただ独りとなって荒野で、誘惑に向き合って、その誘惑に打ち勝つためにアッバである神に祈ったのです。悪魔という神話的な表現は、人間の中にある欲望を表したものです。自由を得ている人間は、自分の欲望に対しても自由です。

人間の欲望は三つにまとめられています。強欲・支配欲・神となる欲です。一つ目の強欲には、金銭欲・所有欲が含まれます。必要以上に、他人の物まで奪うようにして、物を欲しがるという欲望です。二つ目の支配欲には、権力欲が含まれます。自分の力を濫用して他人をコントロールする欲望です。三つ目の神となる欲を言い換えると、「自己絶対化」です。自分の言っていることや自分のしていることは、すべて正しいと過信することです。すべての人はこの三つの欲に常に直面して生きています。誘惑に遭っているのです。

この三つの欲望は、偶像礼拝という一言にまとめられます。強欲は、富を拝むという偶像礼拝。支配欲は、力を拝む偶像礼拝。自己絶対化は、自分にひれ伏している偶像礼拝です。富・力・自分自身、これらは神ではありません。これらにひれ伏すことは、神ならぬものを拝む偶像礼拝です。

イエスは活動の最初に独りで祈って、この偶像礼拝という誘惑に打ち勝って、ここまで神の国運動を進めてきました。神の国運動は十字架で終わります。本日の箇所は、イエスが活動の最後に独りで祈る場面です(41節)。サタン(悪魔)はユダとペトロたち十二弟子に働きかけていました。彼らは誘惑に負けました。ユダは強欲・支配欲・自己絶対化に負けています(16節)。その他の弟子たちも、誰が一番偉いかという議論を通じて、支配欲に負けていることを露わにしました(2430節)。ペトロは自分を頼んで自己絶対化をしています(3134節)。

イエス自身にもこの誘惑が訪れます。それは十字架から逃げ出すという誘惑です。「この杯をわたしから取りのけてください」(42節)という願いに、イエスの揺らぐ気持ちが表れています。「杯」(42節。マルコ1038節も参照)は、これから自分の身に起こる出来事を指します。明日の朝には十字架で処刑されることが分かっているので、イエスはこの場から逃げたいという誘惑に直面し、葛藤しています。十字架は、強欲・支配欲・自己絶対化の正反対にあるものです。そこですべての衣服は剥ぎ取られ、屈従させられた死刑囚となり、神にも呪われた存在とみなされるからです。「木に架けられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記2123節)。

誰もが逃げ出したい状況です。人の子であるイエスも当然逃げ出したいのです。日常的にさらされている偶像礼拝という誘惑以上の出来事がイエスを襲っています。イエスの願いは、人よりも所有しようとか、人を支配しようとか、人よりも正しいと思うことを言い募ることではありません。ただ人並みに生きるということを保障してほしいという願いです。「十字架での処刑という結末はあんまりではないか」ということが、イエスの本音でしょう。十字架から逃げることは、ささやかな自由の行使です。イエスの主張は正しいものです。

十字架は、人の子たちの生きる社会で行われた最も悲惨な出来事の一つです。最も卑劣な虐殺の一つです。そのため、十字架から逃げるという至極まっとうな主張が、最も小さな誘惑の事例となるのです。この誘惑に陥らなかった方の祈りが、日常生活で起こる大小さまざまな誘惑に陥らないための祈りの模範例となるためです。

それは「御心」(422回。直訳「あなた(神)の意思」)を優先する態度です。神を「あなた」と呼ぶことは、わたしたちがひれ伏すべき神が近くにいる、信実な方であることを示しています。わたしたちの礼拝の対象は、イエスがアッバ(「父よ」のアラム語。マルコ1436節)と呼ばれた神です。

近くにいる他者(神)の意思優先は、わたしたちを自己絶対化に陥らせようとする誘惑から守ります。自己絶対化こそが最大の偶像礼拝です。絶対に正しいと言い張る人物が、力と富を得る場合に、地上に最悪の事態が起こります。三つの誘惑には大小関係があります。自己絶対化>支配欲>強欲の順番です。自分は絶対に正しいということに少しでも疑問を持つ人=開き直らない人が、力と富を持つ場合には、力も富も適切に用いられます。支配欲を持たない金持ちの存在は、悪いものでもありません。

誘惑に陥らない祈りの模範は、「自分はもしかしたら正しくないのかもしれない」という余地・余白を言い表すことです。つまり「わたしの願いではなく、あなたの意思を地上に行ってください」(42節)という祈りです。「主の祈り」の第三祈願と全く同じ内容です。「御心(あなたの意思)の天になるごとく地にもなさせたまえ」。自分の考えや願望ではなく、神の意思が行われることを祈る。これにより、自分が正しくない可能性を常に残すことができます。イエスは自分が100%正しい状況の中でも、このように祈ることができました。

さらに簡略化して、ただ一節「あなたの意思ならば」と付け加えるだけでも構いません。近くにいる保護者に多くの願いを言い募り、本音をぶつけながらも、最後に一節「御心ならば」と付け加えるのです。これならばわがままなわたしたちにもすぐに実行できます。

今日の小さな生き方の提案は、偶像礼拝という誘惑に陥らないように祈ることです。自己肥大の生き方が戒められています。信念を持つことは良いことです。しかし、自分の信念ですらもしかしたら間違えているかもしれないと疑うことはさらに良いことです。「御心ならば」を付加して生きましょう。そうすればわたしたちは支配欲からも、強欲からも解放されます。キリスト者になることとは、このような仕方で神によって罪から救い出されることです。