十二人の息子に対するヤコブの遺言には二つの類型があります。「短い格言」という型と、「長い説明」という型です。本日の六人の息子とベニヤミンは短い格言です。先週の四人とヨセフは比較的長い説明です。短い格言は、後の時代の各部族のあり方・特徴を端的に言い表したものです。二人ずつ三組を取り上げる前に、六人の順番がもつ意味を申し上げます。
本日の箇所で並べられている六人の息子の順番は生まれ順ではありません。五男から十男まで生まれた順番で言えば、①ダン、②ナフタリ(以上、母親はビルハ:ラケルの僕)、③ガド、④アシェル(以上、母親はジルパ:レアの僕)、⑤イサカル、⑥ゼブルン(以上、母親はレア)です(30章参照)。
先週紹介した「モーセの祝福」(申命記33章)の順番によれば、⑥ゼブルン、⑤イサカル、③ガド、①ダン、②ナフタリ、④アシェルです。モーセの祝福とヤコブの遺言の共通点は、レアの息子が前に置かれているということです。先の四人がレアの息子たちであることを考えると、レアの息子たち六人が一塊りとされています。ヤコブの四人の妻はそれぞれの天幕を持っていました。その中で、レアの天幕は重視されています。最初の妻であり、最大勢力だからです。レアがヤコブからそこまで愛されていないという不平等に、神が肩入れした結果です。ラケルを偏愛していたヤコブは死の直前、レアに肩入れする神に屈します。神に勝った人「イスラエル」が死の直前で神に降伏しています。もう一つモーセの祝福と共通点があります。二人組にすると同じ組み合わせになるということです。ガド・ダン組、アシェル・ナフタリ組は、母親ごとの分類になっていません。
モーセの祝福と異なる点はただ一つ、最後にナフタリが置かれていることです。ゼブルンからナフタリまでとなっている点は、最後に触れます。
13 ゼブルンは海の岸に宿る。そして彼こそが諸々の船の岸に(宿る)。そしてその後背はシドンに接する。 14 イサカルは骨の強いろば。(彼は)二つの囲いの中に伏せ続けている。 15 そして彼は休息(を)良いと見た。またかの地を快いと(見た)。そして彼は担うために彼の肩を傾け、それは奴隷の苦役になった。
ゼブルンは内陸部にあるにもかかわらず地中海と関係付けられています。「シドン」はフェニキアの一大商業都市です(13節)。シドンの豊かな物産を内陸に運ぶことでゼブルン部族は存在感を示したようです。「宿る」〔シャカン〕は、神が滞在する時によく用いられます。ゼブルン部族にはノリの良さがあります。ゼブルンに宿る聖霊の神に導かれたものです。カナン人の侵略の際にエフライム部族デボラの呼びかけにいち早く応えたのがゼブルン部族です(士師記4-5章)。教会の一つの特徴は、聖霊に導かれたノリの良さです。隣人の「困った」をなんとかしようとするお節介です。
イサカルはゼブルンの南隣の土地を割り当てられます。イサカルへの言葉はゼブルンに比べて倍以上の長さがあります(14-15節)。全体としてイサカルを評価している言葉と解釈します。「骨の強いろば」は役に立ちます。「二つの囲い」は羊を囲うもので二重の構造になっている門の部分と解します。内陸の酪農のイメージです。「伏せ続ける」は獅子ユダにも用いられている動詞です(9節)。王は獅子でありろばでもあります。14節の農業は、13節の商業(13節)とを対比させています。15節の構文は、天地創造を思わせます。「彼は良いと見た」という言い方が単語レベルでも一致しています。イサカルは神の視点で約束の地を北から見ています。約束の地には、エジプトで保障されない神礼拝という休息があります。そしてそこには恵みとしての「奴隷の苦役」があります。僕として生きる、仕えるという生き方です。
イサカル部族には輝かしい歴史があります。北王国の一つの王朝を建てたことです。二代四年の短い王朝でしたが、エフライム部族以外の王朝という意味では快挙です(列王記上15章25節以下)。王を輩出していることも含めて、イサカルへの言葉は救い主イエスのイメージと重なります。良いサマリア人の譬え話に「ろば」が登場します。強盗に襲われたユダヤ人男性を運んだろばも、キリストを指し示しています。「私は羊の門である」とキリストは自己紹介しました。その羊の門に伏せる、骨の強いろばは、十字架を肩に担って僕の道を歩まれました。ナザレという町はイサカルとゼブルンの間ぐらいにあります。
キリスト者はナザレのイエスが示した仕える生き方に促されています。僕となった王、骨の強いろばに私たちもなりたいものです。
16 ダンは彼の民(を)裁く。イスラエルの諸部族の一つのように。 17 ダンは道の上の蛇になる。小道の上の蝮(になる)。馬の踵に噛み付く者。そしてそれに乗る者は後ろに落ちる。 18 あなたの救いを私は待ち望む、ヤハウェよ。 19 ガド。襲撃団が彼を襲う。そして彼こそが踵を襲う。
ダンとガドは母親が異なります。しかしそれぞれの母親にとっては長男であるという共通点があります。ビルハとジルパの長男に、ヤコブは自分の名前を託し、下克上を勧めます。「踵〔アカブ〕」です。ヤコブは生まれた時に双子の兄エサウの踵を掴んでいました。そのためにヤコブ(彼は押しのけるの意)と名付けられたのでした。死の間際にヤコブは、この意味での自分の継承者を指名します。それがダンとガドです。レアの息子たちやラケルの息子たちに、非嫡出子差別に打ち勝つようにと励まし応援しています。家父長制の頂点に立つ父親である自分を襲っても良いと、ヤコブは暗示しています。
「ヤコブ」「アカブ」と同じように、ダンとガドに対する言葉には語呂合わせと言葉遊びが多用されています。ダンは「裁く〔ディン〕」と同根です。ガドは「襲う〔グド〕」と語呂合わせになっています。ガド部族には独自の逸話も有名人もいません。語呂合わせのみで済ませているようです。ただしマハナイム(32章3節)やペヌエル(32章31節)など、ヤコブにとって想い出深い土地はガド部族に割り当てられます。ヤコブはラバンからの追跡やエサウとの再会を、「襲撃団によって襲われること」に喩えているのかもしれません。教会も自分の通ってきた道(固有の歴史)を大切にしなくてはいけません。
ダン部族は特徴的です。「蛇」「蝮」に譬えられているのは、独特な動きを見せたからでしょう。士師サムソンが代表的人物・部族の英雄です(士師記13-16章)。この人物が士師として聖書に4章もかけて記録されている理由は釈然としません。彼は破天荒な人物です。親不孝者であり、神への敬虔さも隣人への謙虚さも見せません。部族を指導した節もありません。支配者ペリシテ人と勝手に結婚し、その妻にも妻の実家にも迷惑をかけます。結局、報復に燃えるペリシテ人に両目をくり抜かれた上、監禁され、見世物にされました。そして死に際に3000人のペリシテ人を道連れにしました。その出来事をヤコブは預言しています。ダン部族のサムソンは、馬の踵を噛み乗り手を不意に後ろに落とす蛇のようにして、イスラエルを厳しく支配していたペリシテ人を苦しめました。
さて、他の部族にはなかったことですが、約束の地の中を放浪して最北端まで移動するということをダン部族はしています(同17-18章)。ダン部族が定住し、普通の部族のようになったのは最後です。そのことを16節は語っています。「イスラエルの諸部族の一つのように」なったのは、かなり後のことです。
最北端まで移動したからこそ、後に「金の子牛」が設置され宗教的な拠点ともなります(列王記上12章28-29節)。南端ベテル(エフライム)と北端ダンは、北イスラエル王国の宗教的二つの中心地です。ヤコブの聖地ベテルに並ぶ存在にのし上がったという点で、ダンはヤコブの踵に食い下がっています。これもまたダンが「蛇」と呼ばれる理由です。「蛇」という動物は、神に近い存在として崇められていました。人々を癒したモーセの青銅の蛇は(民数記21章9節)、エルサレム神殿に飾られ崇拝されていました(列王記下18章4節)。南北両王国全体としてのイスラエルには三ヶ所偶像崇拝の「聖地」があり、ダンもその一つだったということです。さすらいの一アラム人。波乱万丈の成り上がり者。ダンは押しのける者ヤコブの後継者です。
キリスト者には自由があります。わがままであることは、自分自身であるということです。主の救いは解放です。自分に正直に生きることです。
20 アシェルにより彼のパンは脂肪に富む。そして彼こそが王の美食(を)与える。 21 ナフタリは遣わされている雌鹿。美しい言葉を与えている者。
アシェルとナフタリの組にも共通点があります。「与える」という動詞です。この言葉と士師記1章31-33節が関係します。約束の地に入った後アシェル部族とナフタリ部族は両方とも「カナン人の中に住み続けた」のです。この言い方は、カナン人に受け入れられている状態です。良好な状態で共存共栄していることが伺えます。アシェルはオリーブ油の産地に住み、カナン人の王にパンを貢いでいたのでしょう。教会は多様性を良しとする社会の中で少数者として共存し、世に仕える群れです。受けるより与える方が幸い〔アシェル〕です。
ナフタリ部族には英雄がいます。デボラの盟友である士師バラクです(士師記4-5章)。彼はナフタリ部族・ゼブルン部族を中心にした諸部族連合軍の司令官としてカナン人の侵略を阻止しました。エフライム、マナセ、ベニヤミンといった「ラケルの家」の諸部族もそこに加わっています。ナフタリはラケルの僕ビルハの息子です。ビルハはラケルの死後、ヨセフとベニヤミンも同じ天幕で世話をしたはずです。ヤコブの息子たちの人間関係は、後の部族の連合関係と重ね合わさっています。部族が協力し合っている姿は、日本バプテスト連盟に加盟している教会間の協力の模範となります。
ゼブルンの地とナフタリの地は隣合わさりガリラヤ地方を形成しています。ガリラヤは隣国アラム王国や、アッシリア帝国からしばしば軍事占領されました。異邦人の中に少数者として生きることが宿命づけられています。そのガリラヤにキリスト(神から遣わされた者)が到来するとイザヤは預言しました(イザヤ書9章1節)。救い主は雌鹿のように自由に活動し、「美しい言葉」(福音)を人々に与える方です。雌鹿に譬えられていることも大切にしたいです。「男らしい救い主」というイメージも打ち壊し、パンを与え美しい言葉を与える救い主を待ち望むべきです。「幸い〔アシュレー〕、貧しい者!」
本日の箇所はゼブルンで始まりナフタリで終わっています。この箇所全体がガリラヤで活躍したナザレのイエスを指し示しています。
今日の小さな生き方の提案は、北の諸部族に現れたキリストを信じ、キリストを真似ることです。ガリラヤのイエスは、ろばのように弱っている人々を担い続けました。ガリラヤ湖の豊かさを喜び人々に魚とパンを与えました。もっとも辛い思いをしている人に美しい言葉を与えました。「あなたの存在が良い」。多様性を尊び、サマリア人・律法学者・フェニキア人・徴税人・議員・ハンセン病患者・娼婦・子ども・目の見えない人・耳の聞こえない人に仕えました。男らしさや女らしさを超えて自分らしく自由に歩き回りました。私たちは過去にイエスが歩いた道を記念し聖書を読む民です。聖書が与える豊かな救い主のイメージを毎週受け取り直し、一つでも真似をしていきましょう。