ダタンとアビラム 民数記16章12-22節 2024年3月17日礼拝説教

12 そしてモーセは、エリアブの息子たちダタンを、またアビラムを呼ぶために(人を)遣わした。そして彼らは言った。「わたしたちは上らない。 13 貴男が乳と蜜の流れ続けている地からその荒野において私たちを死なせるために、私たちを上らせたことは小さいか。貴男がわたしたちの上に絶対的に君臨するということもまた(小さいことか)。 14 そうだ。乳と蜜の流れ続けている地に向かって貴男はわたしたちを来させていない。そして貴男はわたしたちのために畑とぶどう畑の相続地(を)与え(なかっ)た。これらの男性たちの眼(を)貴男はえぐるのか。わたしたちは上らない。」 

 前回までは、コラという祭司が従兄弟のアロンという大祭司に対して嫉妬を燃やし大祭司職を奪おうとしたという話でした。コラという人の動機がよろしくないということでした。さて今回はコラの同調者に焦点を合わせます。それがルベン部族のダタンとアビラムという兄弟です。

 前13世紀の昔イスラエルには十二部族がありました。それらが一丸となってエジプトから逃げ出し、神が約束した土地に入る旅を続けていました。荒野は目標の途上です。十二部族は、ヤコブという男性に十二人の息子がいたことに因みます。ヤコブとレアの間の長男ルベンがルベン部族の始祖です。ダタンとアビラムは、ルベンの曾孫にあたります(26章8-9節、創世記46章9節)。ルベン→パル→エリアブ→ネムエルとダタンとアビラムの三兄弟という家系図です。

ヤコブに四人の妻がおり、最初の妻レアの最初の息子ですから、ルベンは家父長制の頂点に立つべき人物です。しかし彼は父ヤコブの妻の一人ビルハに対する性暴力を行うことにより、長男の名誉を失いました(創世記35章22節、49章3-4節)。それ以来、十二部族のうちの重要な部族は、政治的にはユダ部族とエフライム部族、宗教的にはレビ部族に限られます。ビルハの子孫であるダン部族とナフタリ部族は、ルベン部族と仲が悪かったことでしょう。

 代々ルベン部族には鬱屈した感情がたまっていたと推測できます。「長男の権威」を振りかざしたいけれどもできない、たとえ威張っても全体をまとめることもできないといったもやもやです。ダタンとアビラムは父アビラムの次男と三男です。アビラムの父パルもルベンの次男です。つまり彼らは家父長制の中で微妙な位置に置かれています。失墜した長男一族の中の傍系という地位です。ここにダタンとアビラムがモーセに対してクーデターを起こす遠因があります。なぜ三男レビの子孫、レビ部族のモーセが政治的指導者なのかという不満です。コラは大祭司アロンに対して反乱をし、アビラムとダタンは預言者モーセに対して反乱を起こしています。

 モーセはダタンとアビラムを呼びます。しかし彼らは拒絶します。彼らの発言は二つの「わたしたちは上らない」に囲まれています(12・14節)。これは鍵語です。彼らはモーセを中心にした「上り・下り」を拒否しています。東京駅を中心に「上り・下り」が設定されているような図を批判しているのです。他人を使者として呼びつける権威が気に入らないということです。同じ動詞は、「私たちを上らせたことは小さいか」(13節)にも用いられています。エジプトから荒野まで上らせた政策に反対し、約束の地に一緒に上りたくないというのです。

 「貴男がわたしたちの上に絶対的に君臨するということもまた(小さいか)」(13節)に二人の本音が伺えます。「三男レビの子孫、分家の分際で生意気だ」という剥き出しの憎悪感情です。ところでサマリア五書という正統ユダヤ教から分かれたサマリア教団の聖書は、この部分に異なる言葉を使っています。「もし貴男がわたしたちの上に君臨するならばわたしたちもまた君臨する」とあるのです。コラがアロンに抱いた競合心と、ダタンとアビラムがモーセに抱いた競合心は、よく似ています。

 ダタンとアビラムは約束の地を指す言葉を裏返して使います。「乳と蜜の流れ続けている地」(13・14節)は、聖書の物語の中では通常約束の地を意味する熟語です。現在のパレスチナ地域のことです。しかし、彼らはエジプトこそが「乳と蜜の流れ続けている地」・肥沃な土地なのだと言います。つまり、エジプトから約束の地に「上る」などということが不必要だったのだというのです。エジプトこそ最上の地だからです。十二部族の目の前に広がっているのは、畑でもなく、ぶどう畑でもなく、茫漠とした荒野の風景です。「これらの男性たちの眼(を)貴男はえぐるのか」(14節)。我々が見ている前で結果を見せよ、結果を出せ、今すぐ十字架から降りよ、そうすれば信じてやろう。

15 そして彼/それはモーセのために力強く熱くなった。そして彼はヤハウェに向かって言った。「貴男は彼らの捧げ物に向かって顔を向けるな。彼らからの一匹のロバ(をも)わたしは挙げなかった。そして彼らからの一人を(も)わたしは傷つけなかった。」 

 モーセの使者はすごすごとモーセとアロンのもとに帰って来て、ダタンとアビラムの言葉を伝え、呼んでも来なかったことの次第を報告しました。15節で怒った人物が誰なのかには、いくつかの可能性があります。大多数の翻訳のように①モーセと採る立場(「それは」を仮主語とし、モーセを意味上の主語とする)、②使者/アロンと採る立場(「彼は」を主語とする)がありえます。①ならばモーセが落ち込んだという意味が有力です(ギリシャ語訳、中世のユダヤ教指導者ラシの注解)。②のアロンが憤ったと考えるのも悪くないでしょう。直前でモーセは兄アロンのためにコラを批判しています(11節)。その態度に感化されたアロンが、弟モーセのためにダタンとアビラムに対して憤りを覚えたという、きれいな構図ができあがるからです。兄アロンの憤りを背にしながらモーセは、誰に対しても不当な統治をした覚えはないと神に釈明します。ロバを奪い取ったり、鞭で強制労働を課したりもしていないと。ましてやルベン部族からだけそのように言われることは心外であると。嫉妬を覚えない人間は、嫉妬を原動力にする人間の気持ちがわかりません。柔和な指導者モーセは、そこで苦労するのです。

16 そしてモーセはコラに向かって言った。「貴男と貴男の全会衆はヤハウェの面前にあれ。貴男と彼らとアロンは(あれ)、明日。 17 そして貴男らは各々彼の香炉を取れ。そして貴男らはそれらの上に香を与えよ。そして貴男らはヤハウェの面前に各々彼の香炉(を)、香炉の二百五十(を)近づけさせよ。そして貴男とアロン各々彼の香炉(を近づけさせよ)」。 18 そして彼らは各々彼の香炉を取った。そして彼らはそれらの上に火を与えた。そして彼らはそれらの上に香を置いた。そして彼らは会見の天幕の入り口に立った。モーセもアロンも(立った)。 

 さて話は再びレビ部族の祭司コラの神明裁判に戻ります。ルベン部族の一部による政治的クーデターであるダタンとアビラムの反乱と、レビ部族内部の宗教的な地位逆転を求めるコラの訴えとを、切り分けながら同時に解決しなくてはいけません。ダタンとアビラムはモーセになりたいのですが、コラはアロンになりたいのです。召集を拒否するルベン部族の二人は、ひとまず置いておきます。モーセは召集に応じそうな祭司コラと彼の全会衆を呼ぶことから解決の糸口を見出そうとします。5-7節の呼びかけの繰り返しですが、「アロン」という言葉が付け加わっています(16・17節)。

香炉」(17・18節)は礼拝儀式に使う火皿です。「会見の幕屋」は神ヤハウェが礼拝の時にそこに現れると信じられていた場所です。わたしたちの礼拝堂と似ています。会見の幕屋の入り口で、コラと彼の「全会衆」・二百五十一の香炉に火がともります。それに対してただ一つのアロンの香炉が対峙します。どちらの礼拝、どちらの会衆(礼拝共同体)を、ヤハウェの神が選ぶのでしょうか。この場面は、ヤハウェの預言者エリヤがたった一人で、バアルの預言者四百五十人と対決した場面と似ています(王上18章)。ここでモーセはアロンの下にいるすべての祭司たちを集めていません。あえて、アロンに不利になるように圧倒的に数の差を設けているのです。ダタン・アビラム兄弟と異なり、コラは素直にモーセの呼びかけに応えて香炉を持って会見の幕屋の入り口に立ちました。アロンもまた立ちました。行司役のモーセも立ちました。

19 そして彼らに接してコラは全会衆を会見の天幕の入り口に向かって集めた。そしてヤハウェの栄光が全会衆に向かって見られた。 20 そしてヤハウェはモーセに向かって、またアロンに向かって語った。曰く、 21 「貴男らはこの会衆の只中から分かたれよ。そうすればわたしは彼らを一瞬で食べよう」。 22 そして彼らは彼らの顔の上に落ちた。そして彼らは言った。「神〔エル〕よ、全ての肉のための諸霊の神〔エロヒム〕よ。一人の男性が罪を犯すと、すなわち全会衆の上に貴男は怒るのか。」

 神の「栄光」が「全会衆」に「見られ」ました(19節)。神への尊敬を表すために「栄光」「見られ」るという婉曲表現が用いられます。直接神を見る行為が不敬にあたると信じられていたからです。ヤハウェ神の判決は恐ろしいものです。神が二百五十一人を一瞬で食べるというのです(21節)。この神の判決にモーセとアロンはがっかりして「彼らは彼らの顔の上に落ち」ます(22節。4節と同じ表現)。「〔エル〕」という必死の呼びかけは、ミリアムに対する取りなしの時にも発せられています(12章13節)。モーセとアロンは、二百五十一人の人々を一斉に死刑に処すという判決が、正義にもとると異議を唱え、神が考えを変えるように祈ります。天地創造の「〔エロヒム〕」、すべての命に息を吹きかけた聖霊の神、あなたはコラという男性が犯した罪を、なぜ二百五十人にまで問うのか。アブラハムという人物が、神に向かって押し問答によってソドムの町を取りなしたように(創世記18章)、特にアロンは幼馴染コラの罪と罰がその他の人々に及ばないように祈ります。

 本日の物語の通奏低音はアロンの立ち居振る舞い、苦しむ他者のための憤り・過ちを犯した他者をかばう祈りです。受難節を過ごしています。ガリラヤの民の苦しみに憤り、その人々を癒し弁護したイエスは、十字架で処刑されました。エリアブの息子たちダタンとアビラムの兄弟は、イエスの右左に座りたかったゼベダイの息子たちヤコブとヨハネの兄弟に似ています。長男の権威を振りかざす彼らは、コラが首領のクーデターが成功しても、さらなる内紛をしたことでしょう。仕える者になれないからです。十字架のイエスは僕となった王、上に立って君臨するのではなく下に立って給仕をする救い主です。

 今日の小さな生き方の提案は、ダタンとアビラムにならわず、アロンにならうことです。わたしたちは権威主義(虎の威を借る狐)というものを克服しなくてはいけません。他人を平たく透明にみるため、また、自分の生き方がまっすぐになるためです。劣等感の反動からのマウント行動を他者にとるのではなく、全ての人を遠目に正当に認めることです。そして近い人にも遠い人にも共感し同じ正義の実現を求めることです。キリストを着ましょう。