ツェロフハドの娘たち 民数記27章1-8節 2021年5月23日礼拝説教

1 そしてツェロフハドの娘たちが接近した。(彼は遡って)ヘフェルの息子、ギレアドの息子、マキルの息子、マナセの息子、ヨセフの息子マナセの氏族に属する。そしてこれらが彼の娘たちの名前。マフラ、ノアとホグラとミルカとティルツァ。 2 そして彼女たちはモーセの面前に、また祭司エリエゼルの面前に、また指導者たちと会衆の全ての面前に対峙した。会見の幕屋の入口(で)。曰く。

 民数記は「約束の地」を目指して荒野を旅するイスラエルの物語です。ここに教会の原型があります。礼拝共同体は一つの具体的問題を抱えていいました。

 ことの発端はツェロフハドという男性が五人の娘に恵まれたけれども息子は授からなかったということにあります(26章33節)。彼はヨセフの長男マナセ部族に属します。父親のヘフェルは氏族の長で、ツェロフハドにも兄弟がおり、兄弟たちは息子たちを授かっていたようです(4節、36章10節)。

 五人の女性は人口調査の際にも本日の箇所でも名前を紹介されています。男性中心主義が強い聖書の記述の中で稀有な例です。男性だけが相続を許される社会で(しかも長男は二倍の取り分)、おそらく五人は結婚をしないまま「父の家」を共同で切り盛りしていたのでしょう。マナセ部族全体としては微笑ましい現象として五人の娘たちが家畜を相続し、ゆくゆくは約束の地での取り分が認められても良いと考えられていたのではないでしょうか。

しかしヘフェル氏族の中で自分たちの相続分が減らされることを不満に思った人々(「父の兄弟たち」6節)が五人の相続に不平を言いました。「五人の女性たちに分け前は無い。なぜならば女性であるからだ」。これが彼らの言い分です。そこでマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァの五人は立ち上がって、モーセ、祭司エリエゼル、指導者たちと、全会衆の前で直談判をします。

 問題の根本原因は女性差別です。もしも最初から女性たちも相続できる決まりであれば、何も問題は起こりません。しかも合理的な理由がないので差別的待遇そのものです。五人の女性たちの悲痛な訴えは、不当な差別に苦しむ全ての人が共有している叫び声です。

3 「わたしたちの父は荒野で死んだ。そして彼はコラの会衆と共にヤハウェに接する会衆を成している会衆の真ん中に居なかった。実際彼は彼の罪のうちに死んだ。そして息子たちは彼に属さなかった。 4 なぜわたしたちの父の名前は彼の氏族の真ん中から消されなくてはならないのか。彼に属する息子が存在しない故に。わたしたちのためにあなたは財産を与えよ、わたしたちの父の兄弟たちの真ん中で。」

 彼女たちは一つの歴史的な出来事を引き合いに出しています。「コラの反乱」(16章)。これはモーセに対するクーデターです。コラはレビ部族、彼につき従ったのはルベン部族のダタンとアビラムという兄弟とオンという人物です。かなり深刻な分裂と内紛であったことがうかがい知れます。「会衆」という言葉が動詞の形を含めれば三回も繰り返されています(3節)。この単語は、2節の「会衆」と同じです。今残っている会衆と同等の会衆がコラに従ったのです。

彼女たちはなぜこの出来事を引用したのでしょうか。ルベン部族がマナセ部族と関係が近いので(共にヨルダン川を渡らなかった)、「父も自分たちもコラとは違う」と言いたかったのかもしれません。父ツェロフハドが死んだのは「世代の罪」のためであって、特別大きな罪を犯したからではないということです。世代の罪というのは、約束の地に入りたくないという意思を示した罪です。この罪のために、その時生きていた世代は約束の地に入れないという罰を受けることとなりました。彼女たちの父は原則通り荒野で死んだのです。やんわりと彼女たちはツェロフハドとモーセを並べています。「あなたも約束の地には入れない人の一人ですよね。わたしたちは約束の地に入りますけど」。こうして「コラの反乱」という事件を引用しながら、彼女たちは自分たちの主張を補強していきます。

「娘も父の家(名前)を継承できるはず。娘も父の財産を相続できるはず。父の兄弟たちと平等に扱え。父の兄弟たちの真ん中から父の名前だけを削除することに耐えられない。息子がいないということによって父がいないことになるのか。それは不条理だ」。論理的な五人の女性の言葉にモーセは何も言い返せません。「最高裁長官」であるモーセは神に判断を仰ぎました。

5 そしてモーセは彼女たちの裁きをヤハウェの前に接近させた。 6 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。曰く、 7 「ツェロフハドの娘たちの語っていることは正しい。あなたは確かに彼らのために嗣業の財産を与えなくてはならない、彼らの父の兄弟たちの真ん中で。そして彼女たちの父の嗣業を彼女たちのために渡らせなくてはならない。 8 そしてイスラエルの息子たちに向かってあなたは語らなくてはならない。曰く『男性が死ぬ時に彼に属する息子がいない場合、あなたたちは彼の嗣業を彼の娘のために渡らせなくてはならない。』」

 「彼女たちの裁き」という一単語の最後の文字Nが(「彼女たちの」の意)、原文では「大きなヌン」で書かれています。代々の写字生たちは、この単語と「彼女たちの」という意味に特別な注意を払って、強調して写してきました。ここに女性差別を許すべきではないという本文そのものの主張を読み取ります。

 ヤハウェ神の判決は、若干の不備はあるにせよ当時としては画期的な判決です。もしも息子がいないならば娘が父の財産を相続できるというものだからです。娘が父の兄弟たちよりも優先される(8-11節)。この判例が新たな法律を生みました。もし息子がいても娘が相続できるならば現代の民法と同じです。「彼女たちを再び父の兄弟たちの真ん中に据えよ。そうすることによって平等に扱え。この彼女たちへの割り当て(quota)は全体のためになるから」。

 7節下線部に一か所だけ文脈にそぐわない「彼らのために」があります。サマリア五書や後代の写本は「彼女たちのために」と修正していますが、本日は「彼らのために」を重視します。「彼ら」は「父の兄弟たち」をも指し、またヘフェル氏族、マナセ部族、イスラエル全体をも指すと考えます。

 現代のクオータ制にも通じる考え方です。女性への割り当ては「逆差別だ」「かえって不平等だ」という主張に対して、これは社会全体のためになるのですという答えがありえます。いつも「指導者らしく、男らしくあれ」と言われることに男性たちも困っているのです。近視眼的には「持っている男性たち」は自分たちの取り分が減るのはおかしいと考えるかもしれません。しかし人生には何があるか分かりません。「持っていない男性」になった時に、クオータ制という考えを共有した社会は、どんな人にも(性的少数者も含め)優しく共感して取り分を割り当ててくれるでしょう。そういう社会になることがイスラエルにも、現代にも必要です。

 放蕩息子の兄は父の弟への偏愛に不公平だと言いました(ルカ15章)。「父の兄弟たち」と同じ態度です。二人息子の父親(神を指す)は、「わたしは二人の息子のどちらも愛している」という態度を崩しません。相続財産を半分どぶに捨てた弟を、なお息子とし続けることは、兄にとっては自分の割り当てが著しく減らされることです。そもそも弟の倍の取り分があったはずなのに弟に同額の生前贈与をした父親の割り当てに不満があります。減らされた残り財産をさらに半分に割り当てられることは著しい不平等に感じられます。そのような不当な仕打ちをする父親は「逆差別」をしているように見えます。しかしそうではありません。もし兄息子にも不測の事態が起こったら、父親は弟息子の分を減らしてでも兄息子を助けるでしょうから。こうしてお互いに信頼しうる共同体が形成されます。割り当ては全体のためなのです。

 さてこの判決と新法の制定を受けて、ツェロフハドの娘たちは実際に相続を割り当てられたのでしょうか。極めて残念な結果を報告せざるをえません。いわゆるバックラッシュ(反動)によって、この判例と新法は骨抜きにされ、彼女たちの主張は家制度に呑み込まれます。民数記36章にその顛末が正直に記されています。

 「父の兄弟たち」よりもさらに上の「ギレアドの家長たち」(36章1節)が政治的圧力をかけます。この意味はマナセ部族全体ということです。彼らの難癖はこうです。「ツェロフハドの娘たちが土地を相続して、もし異なる部族の男性と結婚した場合、マナセ部族の土地が減るではないか。それはマナセ部族にとって損である」(2-4節)。あろうことかモーセはヤハウェに相談せず、ヤハウェの立てた法律を改悪します。「ツェロフハドの娘たちの結婚はマナセ部族に限る。その相続地は結婚相手の夫のものとなる」(5-9節)。この法改正は女性たちの人生を左右します。マフラ、ティルツァ、ホグラ、ミルカ、ノアは「父の兄弟たち」の息子たち(彼女たちの従兄弟)と結婚するように仕向けられたのです(10-12節)。

 こうしてツェロフハドの名前は、彼の兄弟たちの真ん中で消し去られました。娘たちの望んでいないことに決着しました。仮に部族内の結婚に限るとしたとしても、女性が家長になることが認められれば問題は解決したはずです。マナセ部族、イスラエル全体、モーセの中にある女性差別が真の解決を阻んだのです。彼らは家父長制を強化する法改悪の道を採りました。

 さてマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァは闘いに敗れたのでしょうか。その他の聖書箇所をくまなく当たっても、五人の女性たちの子孫は記されていません。従兄弟たちとの間に子どもが与えられているかどうかが不明です。サウルの娘ミルカという同名別人物が子どもを生まない女性であることも一つの示唆ですが、女性たちは子どもを生まない選択をしたかもしれません。そのことが精神的に耐えられない苦痛だからです。この世界に女性差別が続く限り、彼女たちの名前は覚えられ、彼女たちが起こした行動は記念されるべきです。大変逆説的な事実ですが、もしこの勇気ある娘たちがいなければ父ツェロフハドの名前は聖書に記載されなかったかもしれません。

 今日の小さな生き方の提案は、出来事の原因を探求すること、出来事の改善に汗をかくこと、そして改善されたと思われる事柄を執拗に追い続けることです。その出来事とは日常の些細なことです。「女の子は理数系に向かないからね」と何気なく言われたことに、「おや」と思うことです。「男の子なんだから泣きなさんな」と言われたことに、「なぜ」と思うことです。その原因には社会全体からの性役割の押し付けがあるのです。あらゆる「らしさ」の押し付けを止めていく改善努力が求められています。割り当て(quota)もその一つです。もちろんそれ以外の方法もありえることでしょう。そしてこれらの改善努力は常に「反動」との対話・対峙を必要とします。1990年代からの日本は反動期にあたると思います。教会も日本社会の真ん中にあります。荒野を旅しているからです。教会と社会の中の「おや、なぜ」を同時に問うていきたいと願います。ツェロフハドの娘たちを記念し、彼女たちに後に従って。