バビロン捕囚から マタイによる福音書1章12-17節 2024年12月1日(待降節第一週)礼拝説教

はじめに

 本日は今年の待降節の第一週目・初日にあたります。マタイによる福音書の講解説教の開始時と重なったことに感謝しております。先週までもアブラハム・サラ以来の歴史を振り返ってきました。今週は、第一次バビロン捕囚(前598年)からイエス・キリストの誕生(前7-4年ごろ)の約600年の歴史が系図に記されています。この系図に登場する人物のほとんどはどのような人であったのかを知る手掛かりが全くありません。そこで、手掛かりのある人物に焦点を合わせ、そして極めて人為的につくりだされている「十四世代」(17節)に三区分していることが何を意味しているのか、この系図全体が訴えていることについて、お話をしていきます。

 

12 で、そのバビロンの移住の後、エコンヤはシェラティエルを生んだ。で、シェラティエルはゼルバベルを生んだ。 13 で、ゼルバベルはアビウドを生んだ。で、アビウドはエリアキムを生んだ。で、エリアキムはアゾルを生んだ。 14 で、アゾルはサドクを生んだ。で、サドクはアキムを生んだ。で、アキムはエリウドを生んだ。 15 で、エリウドはエレアザルを生んだ。で、エレアザルはマタンを生んだ。で、マタンはヤコブを生んだ。 16 で、ヤコブはヨセフ・そのマリアの夫を生んだ――その彼女から、キリストと呼ばれ続けているイエスが生まれたのだが――。 17 だからアブラハムからダビデまでその全ての世代は十四世代。そしてダビデからそのバビロンの移住までが十四世代。そしてバビロンの移住からそのキリストまでが十四世代。

 

ゼルバベル

 この系図の中で旧約聖書の有名人物は「ゼルバベル」(12-13節)しかいません。ただし、この人物についてキリスト教会ではあまり知られていないのも事実なので、少し詳し目に紹介いたします。

 ゼルバベルはバビロンに移住してから生まれたダビデ王朝の血統を引く人物です。祖父の「エコンヤ(ヨヤキン)」(12節)は南ユダ王国の王であり、第一次バビロン捕囚を経験してバビロンに連れて行かれました(王下24章15節)。ゼルバベルの父親「シェラティエル(シェアルティエル)」(12節)も、(そして預言者エゼキエルも)エルサレムから一緒に移住させられたのです。前561年にエコンヤは獄から解放され、バビロンの王から手厚く扱われたと書かれています(王下25章27-30節)。この時点からバビロンの地で、シェラティエルやゼルバベルも比較的裕福な暮らしぶりになっていったと推測されます。なお、南ユダ王国はエコンヤの次のゼデキヤ王(エコンヤの叔父)の時に滅ぼされます。ソロモンの第一神殿は破壊され、王制・祭司制も廃され、全ての貴族が移住させられました。第二次バビロン捕囚(前587年)。

 ゼルバベルはバビロンで生まれたのだと思います。彼はバビロニア語(アッカド語の一地方語)とアラム語で日常生活を過ごします。それがバビロンの公用語だからです。そして彼は、バビロンの地で創設された会堂(シナゴーグ)にも通います。会堂を中心に移住者は住みました。バビロンの人々はその信仰共同体を「ユダヤ人」と呼びました。ユダから来た人という意味です。

 会堂ではヘブル語が用いられ、モーセ五書(まだ完成していなかったかもしれません)の朗読を中心にした礼拝が行われます。移住者たちは元貴族たちなので文字を読めますし書けます。アラム語も話せます。会堂には、預言者エゼキエルが居たことでしょう。また、預言者イザヤの弟子集団が、イザヤ書の前半部分を始めさまざまな預言書を持っていました。アモス書、ホセア書、ミカ書、エレミヤ書などの原型部分です。さらに王宮の元書記官たちはダビデ王朝の歴史書を保管していました。彼ら彼女らは会堂でさまざまな文書を書き加え、編纂しなおし、旧約聖書正典を形作っていたのです。

 ゼルバベルは会堂で礼拝をしながら、ヘブル語を習得し、ユダヤ人の指導者として成長していきます。彼はダビデ王朝の罪の歴史を悔い改めます。しかしその自己否定を潜り抜けて、創世記の天地創造の神から希望をいただきます。自分も「良し」とされているのです。バビロニア地方(ウル)から族長たちが約束の地へ旅する姿に感化され、申命記の終わりで約束の地を前に死ぬモーセの姿にバビロンの地で死んでいった同胞を重ねます。

 前539年バビロン捕囚は終わります。ペルシャ帝国が新バビロニア帝国を滅ぼし、ユダヤ人たちもパレスチナ地域に帰還することが許可されたのです(エズラ記1章2-4節)。こうしてゼルバベルは帰還する民の政治的指導者として勇躍エルサレムへと帰って行きます(同2章2節)。宗教的指導者はイエシュア(ヨシュア)という祭司です。二人はエルサレム神殿再建事業を開始します(同3章)。この第二神殿は前515年に完成します。しかしゼルバベルの姿は歴史のひのき舞台からいつの間にか消されています。神殿完成の直前でしょうか、ペルシャ帝国当局から睨まれて暗殺されたのだと推測されています。ダビデの子孫である彼がエルサレムで政治的メシアとして王に即位し、ダビデ王朝が復古されることが警戒されたと言われます。ちなみにこの時代ユダヤ人たちは、政治的メシアと宗教的メシアの二人のメシアを待望していたようです(ゼカリヤ書4・6章)。政教分離原則の萌芽と言えるかもしれません。

 ゼルバベルという人物は、イエス・キリストを指さす「メシア的人物」の一人です。「これがゼルバベルに対するヤハウェの言葉。曰く、能力においてではなく、力においてではなく、ただ私の霊において、とヤハウェ・ツェバオートは言った」(ゼカ4章6節)。能力主義に立たず、力の濫用もせず、ただ聖霊に包まれてへりくだって歩むゼルバベルの人となりが伺えます。秘密裏に国家権力によって殺されたところもイエスに似ています。

 

十四世代・三区分の系図

 先週も申し上げたとおり、十四世代というものは、人為的です。先週は数名を省くことで十四世代としました。ちなみに本日のエコンヤから「ヨセフ」(16節)までも十三世代しかありません。それを強引に十四世代と言い張っているのです。ここには隠れた使信があります。

ヘブル語アルファベットはそれぞれ数をも意味します。一文字目のアレフは「一」をも意味します。ダビデという名前はDWDと書きます。Dは四番目の文字なので「四」、Wは六番目の文字なので「六」を意味します。DWDは、4+6+4=14です。十四世代の三区分としている理由は、ダビデの子孫であるということを強調しているのです。この姿勢は、1節で「ダビデの息子」とあえて記していることと符合します。キリストは「ダビデの息子」です。

もう一つの隠された使信があります。14は7×2でもあります。14×3=7×6です。キリストの誕生によって、世界は7×7の時代に入ることになります。聖書においては「七」は完全数です。真の安息が始まる、新しい時代の到来をマタイ教会は暗号として埋め込んでいます。

 さてイエスはダビデの息子なのでしょうか。マタイ教会は、ユダヤ民族の英雄であるダビデの子孫であるから、ナザレのイエスはキリストであると言いたいのでしょうか。そうでもなさそうです。

 16節にあるように、ダビデの子孫であるのは「ヨセフ・そのマリアの夫」です。ルカによる福音書の系図(ルカ3章)と異なり、この系図はマリアの系図ではありません。最後のどんでん返しです。一所懸命にアブラハムから書き起こし、ダビデやゼルバベルにも言及していますが、しかしこの系図はヨセフがダビデの子孫であることしか証明していません。18節以降の物語で明らかなように、ヨセフとイエスの間には血縁関係がないのですから、イエスはこの系図によってはダビデの息子とはいえません。

 こうして系図は相矛盾する使信を発しています。キリストはダビデの息子である(DWDの三重の繰り返し)、ダビデの息子であるということを重視するべきだという主張。それと同時に、キリストはダビデの息子ではない、ダビデの息子であるということを重視すべきではないという主張が、同時に盛り込まれています。

 ここには連続と非連続が同時に言い表されています。そして連続と非連続があるということは聖書的な思考パターンです。例えば旧約聖書と新約聖書は連続しています。二つで一つの本です。前編と後編なのです。しかしそれと同時に旧約と新約の間には深い溝があります。イエス・キリストが旧約聖書にいないからです。7×6の旧世界と、7×7の新世界はやはり天と地ほどの差があるのです。

系図は、聖書特有の考え方を身に着けるようにと私たちに促しています。人生には連続していることと、連続していないことが同時に存在しています。復活のキリストは、十字架のイエスです。連続しています。しかし決定的に異なる方でもあります。地上の人々と連帯した人の子(人類仲間の意)が、復活後に永遠の生命を配る神の子となったからです。連続と非連続を見極め、整理しながら、ある時は連続していることに慰めを受け、また別のある時には連続していないことに励ましを受けることが、聖書を信じる信仰生活です。ここに人生の幸せの秘訣があります。

眠るとすっきりします。昨日の嫌なことが少し晴れます。一晩眠ったからと言って人生は終わらず連続しています。生命が維持されていることに慰めを受けることでしょう。それと同時に睡眠によって一度死んで復活しているので連続していません。まったく新しい生命の始まりに励ましを受けることでしょう。古い自分に死ぬこと・悔い改めること・バプテスマを受けることは、非連続の出来事です。その非連続・非日常は、日常を生き抜く力となります。人生が終わるわけではないからです。長く継続している懸案・課題には必ず小さな変化が生じます。小さな非連続を見抜くことが課題の解決につながります。

 

今日の小さな生き方の提案

 ゼルバベルが会堂での毎週の礼拝によって希望を育て、力に頼らない生き方を身に着けていったように、わたしたちもこの礼拝を続けていく中で、能力主義を捨て、力の濫用をしない、聖霊の中で聖霊の実を結ぶように成長したいと願います。愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制が聖霊の実です。自分の力は、これらのことがらに振り向けられるべきです。

そして連続と非連続を見極めて、人生・日常・生命を振り返り、明日を生きたいと願います。日曜日は土曜日と非連続、日常と断絶された礼拝の日です。しかし月曜日と連続しています。月曜日に疲れが残る日曜日は問題です。賛美・祈り・聖書、これらの非連続で切り替えて、引き続き生き抜きましょう。