バラクとの対面 民数記22章36-23章3節 2025年2月16日礼拝説教

はじめに

ビルアムは罪を悔い改めて、自らの名誉欲・権威欲・支配欲によらず、ただ神の言葉だけを伝言するために雌ロバに乗ってモアブに向かいます。その姿は、力によらない平和をつくるためにロバに乗ってエルサレム入城を果たしたイエス・キリストに重なります(マタイ21章7節)。特にマタイによる福音書の描写です。マルコと異なり、イエスは雌ロバ(母ロバ?)と子ロバの二頭に乗っています。本日の箇所は、イスラエルに対する呪いを依頼したモアブ王バラクと、ヤハウェの預言者ビルアムの初対面の場面です。ビルアムの姿にイエスを重ね合わせて読み解きたいと思います。

 

36 そしてバラクはビルアムが来つつあるということを聞いた。そして彼は彼に会うためにモアブの町に向かって出て行った。それ(モアブの町)はアルノン(川)の境界線上にあるのだが。それ(アルノン川)はその境界の端にあるのだが。 37 そしてバラクはビルアムに向かって言った。私は貴男に向かって貴男に会うために確実に送らなかったか。なぜ貴男は私に向かって歩かなかったのか。実際に私が貴男を重んじることができないだろうか。 

 

【バラクの言葉】

遠く北東のアラムの地から雌ロバに乗って「ビルアムが来つつある〔現在分詞〕」ということを聞いたモアブの王バラムは、待ちきれなくなってビルアムに会うためにモアブの北端の町まで来ました。「アルノン(川)」は死海に注ぐ川で、その川より南がモアブ王国の領土です。巻末の聖書地図「3 カナンへの定住」をご参照ください。ここで言う「モアブの町」の位置は諸説あり、よく分かりません。文脈上大切なことは、北からの客人のために最北端まで王が迎えに行ったということです。最高の礼儀をバラクはビルアムに示しています。「ダビデの子、ホサナ」と叫ぶ群衆のように。

そしてバラクは、にこにこ笑いながら上機嫌でビルアムを揶揄しつつ咎めます。「二度も特使を送らせるとは何事か。なぜ一度目で来なかったのか。何が望みだったのか。分かっているぞ。報酬だろう。権威と名誉だろう。一度断って二度目の招きで来たということは、報酬を吊り上げたかったのだな。まあ、いい。イスラエルを呪うならば、あなたを私の最側近と同じくらいに重んじよう。これで取引完了だ。呪いが的中すれば権威も名誉もあなたは手に入れよう。」

 

38 そしてビルアムはバラクに向かって言った。何と、私は貴男に向かって来た。今私が何事かを語ることができるだろうか。神が私の口の中に置く言葉、それを私は語る。 39 そしてビルアムはバラクと共に歩いた。そして彼らはキルヤト・フツォトに来た。 40 バラクは牛と羊を捧げた。そして彼はビルアムのために、また彼と一緒にいた高官たちのために送った。 

 

【ビルアムの言葉】

浮足立ち浮かれているモアブ王バラクに対面したビルアムは至って冷静です。「王よ、私はあなたに向かって来たし、ご覧の通り今あなたの目の前にいる。しかしヤハウェの預言者はヤハウェの言葉しか語ることができない。私がイスラエルを呪うかどうかは分からない。ただ私は、自分の口の中に置かれるヤハウェの言葉だけを語る。」

エレミヤ書1章9節を彷彿とさせる表現です。神は預言者たちの口の中に神の言葉を授けます。その言葉は預言者の意思ではなく神の意思です。そしてその言葉を語ることで預言者が不利益を被ることになっても、預言者は語らなくてはなりません。ビルアムは覚悟をしています。もしかすると自分の語る言葉がバラクの気分を害して殺されるかもしれないと予感しています。十字架を前にエルサレムに入ったイエスの覚悟と似ています。

同床異夢を携えて、ビルアムとバラクは共に「キルヤト・フツォト〔市場の町の意〕」(39節)という町まで来ます。バラクは馬に、ビルアムは雌ロバに乗って、並んで進みます。さて、この町の位置も不明です。よく分からない町ばかりを言及していることは、ある種の暗号かもしれません。バラクはビルアムをモアブ王国の中で最も繫栄している「市場の町」に連れて行き、そこで盛大な宴会を催したのではないかと思います。牛と羊を捧げ、ビルアムたちに送る〔投げる〕という行為は、客に大盤振る舞いをしているモアブ王バラクの姿を描写しています(40節)。バラクと彼の高官たちは上機嫌で飲み食いをしますが、ビルアムは神妙な表情です。この場面彼の口は、飲み食いのためではなく、神の伝言のために用いられるべきだからです。「自分にひれ伏せばこの世の栄華繁栄、美食・飽食・満腹を手にできるぞ」というサタンの試みが聞こえてきます。

 

41 そしてその朝に次のことを生じた。すなわちバラクはビルアムを取った。そして彼は彼をバモト・バアル(に)彼を上らせた。そして彼はそこからその民の端(を)見た。 1 そしてビルアムはバラクに向かって言った。貴男は私のためにこの中に七つの祭壇を建てよ。そして貴男は私のためにこの中に七頭の雄牛と七頭の雄羊を準備せよ。 

 

【バモト・バアル】

キルヤト・フツォト〔市場の町〕と同様に、「バモト・バアル」についても考えてみましょう。この町の位置も不明だからです。バモト・バアルの意味は「バアル神の高き所」です。ギリシャ語訳も「バアル神の石柱」としていますから、バアル神の像が設置されていた礼拝施設という意味で考えた方が良いでしょう。歓迎の大宴会の次の朝、バラクはビルアムを「バアル神の高き所」に連れて上らせたのだと思います。ビルアムは雌ロバに乗って高き所を上ります。「高き所」と言う通り、それらの礼拝施設は小高い丘にありました。見晴らしの良い場所です。ビルアムはイスラエルの民の一部をかすかに見ることができました。

バラクはビルアムがどのような礼拝儀式を行って占い/託宣をするのかを知りません。バアル宗教に則って、女性たちとビルアムとの性交渉を要素とする祭儀が行われることを予想していたのかもしれません(25・31章参照)。しかしビルアムはイスラエル風の犠牲祭儀を行います。預言者は、七つの祭壇を築くことと、七頭の雄牛と七頭の雄羊を犠牲獣として用意するように、バラクに命じます。七つも祭壇を築くことや、七頭の雄牛と雄羊を焼く儀式は律法に記されていません。この場面だけの特別な祭儀ですが犠牲獣を用いるところがイスラエル風です。バラクは驚きながらも従います。すべてビルアムの指示のままに何でも準備しようという構えです。

犠牲祭儀を行う祭壇は高き所になかったので、これらを準備することは一苦労の重労働でした。小高い丘にある石をかたっぱしから拾い集めて牛を丸ごと置くことができる大きな祭壇を築き、市場から七頭の雄牛と七頭の雄羊を連れてくるのですから。バラクは自分の権力を用いて人々を動かし、国家予算を用いて犠牲獣をかき集めます。全てはイスラエルを呪うため。そうであればお安い御用です。

 

2 そしてバラクはビルアムが語ったようになした。そしてバラクとビルアムは雄牛と雄羊をその祭壇において上げた。 3 そしてビルアムはバラクのために言った。貴男は貴男の(煙を)上げる供物に接して自分自身を屹立させよ。そうすれば私は歩きたい。おそらくヤハウェは私に会うために現れるだろう。そして彼が私に見せる出来事(を)、そして私はあなたのために啓く。そして彼は裸の丘(を)歩いた。

 

【礼拝行為】

バラクは忠実に大きな七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と雄羊を調達しました。ビルアムは、バラクに同じように犠牲獣を奉納することを指示します。七つの祭壇のうち一つはビルアム、一つはバラクのものです。残り五つが誰のための祭壇かは不明です。単数形で雄牛と雄羊が言及されているので、ビルアムは一頭の雄牛と雄羊を燔祭とし、煙を上げました。新共同訳「焼き尽くす献げ物」です。同じようにバラクもします。知らないうちにモアブ王バラクは、ヤハウェの神を礼拝する行為を行っています。アブラハム、イサク、ヤコブによって行われた礼拝様式・犠牲祭儀です。ビルアムはバラクを神礼拝に招き伝道をしています。雌ロバはそれを休みながら見ています。イスラエルを呪おうとする者が、イスラエルを祝福し続ける神を礼拝しているという皮肉な現象が起こっています。

ビルアムは新規礼拝者バラクを一人にさせます。あなたの祭壇の傍らに自分の体を屹立させ続けよ、立ち尽くせと命じて、自分は次の場所へと移動します。礼拝者は結局のところ自分の祭壇・自分の信仰・自分の本心に立ち続ける必要があります。

荒野で試みを受け、人々の交わりから退いて山で祈り、弟子たちから離れてゲツセマネでただ一人祈り、十字架の道を歩んだイエスのように、雌ロバも置いてビルアムは独りで真っ直ぐ「裸の丘」を歩みます。一対一になった時に神は出来事を絵巻物のように啓示するかもしれません。一対一にならなければ神の意思を知ることはできないのでしょう。

 

今日の小さな生き方の提案

礼拝は会衆がいて成り立ちます。共に同じ神を賛美し、神に祈り、神の意思を知るものです。その上で、相反する出来事が礼拝において起こっています。各自がそれぞれ別の神の意思を知るということです。同じ聖句を読んでも感動するところは異なります。わたしたちは共に、しかし同時に単独に、神を礼拝しています。共通の神を礼拝しながら、しかし同時に異なる出来事を啓示されています。ある種の錯覚を含んで、わたしたちは共に礼拝しているのです。

ビルアムとバラクも互いにずれた会衆でした。イエスと弟子たちもそうです。パウロと諸教会も、また教会員たちの間にもずれや葛藤がありました。礼拝は不思議な現象です。集団幻視のように復活のイエスを見ながら、個別ばらばらにそれぞれのキリストを知り、それぞれの人生に意義のある慰めや励ましが聖霊によって得られるからです。教会は礼拝前後の人間関係に拠るものではありません。教会は礼拝を中心にした交わりによってなるものです。