バラムの託宣 民数記23章4-12節 2025年3月2日礼拝説教

はじめに

ビルアム(バラムの原音表記)はモアブ王バラクに連れられて「バモト・バアル(バアルの高き所)」という小高いところに行きました。そこからはテントを張って宿営しているイスラエルの民の端っこが見えたようです(22章41節)。そこからビルアムは少し離れ丘の頂で、一対一でヤハウェの神と会います。神はそこでビルアムに、神の言葉を預けます。

新共同訳聖書が「託宣」(7節)と翻訳している、ヘブル語マシャルという言葉は、「箴言」「格言」「譬え話」という意味の言葉です。マシャルの原義は「比較する」という行為です。「あれとこれは似ている」という発見から諺は生まれやすいからです。「神の国は・・・に似ている」という言い回しは、旧約聖書の箴言に由来しています。ギリシャ語訳聖書は「ビルアムが格言集を振り上げた」というようにヘブル語からギリシャ語に翻訳しています。預言者ビルアムは知恵の教師であり、その限りでナザレのイエスを遠く指さす人物(メシア的人物)です。

ビルアムの箴言はイスラエルが何に似ているのかを示しています。そのイスラエルの姿はバプテスト教会の姿とも似ています。

 

4 そして神〔エロヒーム〕はビルアムに向かって会われた。そして彼は彼に向かって言った。その七つの祭壇を私は備えた。そして私は雄牛と雄羊(を)その祭壇で上げた。 5 そしてヤハウェは言葉(を)ビルアムの口の中に置いた。そして彼は言った。貴男はバラクに向かって戻れ。そしてこのように貴男は語るべきだ。 6 そして彼は彼に向かって戻った。そして何と、彼の献上物に接して彼とモアブの全ての高官たちは屹立し続けている。 

 

【神の名前】

日本語で「神」と翻訳される言葉はヘブル語で三つあります。一つは4節の「〔エロヒーム〕」です。この言葉は普通名詞「神〔エロアハ〕」という言葉の複数形です。だからエロヒームは「神々」とも訳しえますが、エロアハは「神」としか訳せません。エロヒームが固有名詞のように使われる時、複数形ではありながら単独の存在となります。「尊敬の複数」と呼ばれます。強く訳せばエロヒームは「唯一神」です。エロアハ、エロヒームともう一つ「エル」という言葉も「神」と訳されます。8節「〔エル〕」が正にそれです。エルは、元来カナンの神々の主神でした。ヘブル語の親戚言語ウガリト語で「イル」という名前を持つ神が、多神教神話上の主神として登場します。

旧約聖書の信仰は「主こそ神」というものです。イスラエルを救った「ヤハウェ」(5節)という名前の神が、各地固有の土着神(エル)でもあり、世界に一般的に存在する神(エロアハ)や神々(エロヒーム)をも包み込む、唯一のエロヒームであるという信仰です。ヤハウェはエロヒーム。創造主であるヤハウェ・エロヒーム(主なる神)が、アラム人ビルアムを預言者として用います。ヤハウェはビルアムの口の中に言葉を置きます。彼はそれを飲み込んではいけません。咀嚼もせず、そのまま吐き出すのです。

モアブの王と高官たちは、七つの祭壇の前に立ち尽くしていました。高官たちは五人いたのでしょうか。それぞれが雄牛と雄羊を一頭ずつ、それぞれの祭壇でイスラエル流に捧げ、煙を天に上げました。神への犠牲があり、神の言葉がある、これが礼拝の基本構造です。今日に至るまで同じです。わたしたちも主の晩餐・献金・賛美などを犠牲に捧げ、説教や聖句を与えられるものです。モアブ人たちはイスラエル流の礼拝に付き合わされ伝道されています。ここでヤハウェの名前を呼べば完璧なイスラエル流礼拝でした。

 

7 彼は彼の箴言を持ち上げた。そして彼は言った。アラムから、モアブの王バラクは私を案内した、東の山々から。貴男は行け。貴男は呪え、わたしのためにヤコブ(を)。そして貴男は行け。貴男は非難せよ、イスラエル(を)。 8 いかにしてわたしは冒涜できるか。神〔エル〕は呪詛しなかった。そしていかにしてわたしは侮蔑できるか。ヤハウェは侮蔑しなかった。 9 なぜなら岩々の頂からわたしは彼を見るからだ。そして丘々からわたしは彼を観察する(からだ)。何と、孤高の民が宿る。そしてその諸国の中に彼は自身を認識しない。 10 誰がヤコブの塵を数えたか。そして数、イスラエルの四分の一を。わたしの生命は、真っ直ぐな人たちの死(を)死ぬように。そしてわたしの終わりは彼のようになるように。 

 

【ビルアムの箴言】

ビルアムは「箴言を持ち上げ」ます。一冊の本というよりは、その時に与えられた言葉を、韻を踏んで朗唱したということでしょう。格言もまた語呂合わせがありラップのようです。調子よく、何かと何かを比較します。

モアブ王バラクは、ヤコブの祖父アブラハムに家出を命じるヤハウェに似ています(創世記12章1ー3節)。しかし役回りは逆さまです。アラムのハランから「あなたは自分自身のために行け」と、ヤハウェはアブラハムに命じました。それはアブラハムが諸民族の祝福になることの約束と一組の命令でした。それとは反対に、バラクは自分のために「ヤコブイスラエル」を呪え、そのために「あなたは行け」とビルアムに言います。ビルアムは対比しています。バラクはアブラハムを呪う者は呪われるということを知らないのです。

イスラエルは「」(10節)に似ています。端っこの「四分の一」(10節)だけでも、数えることができない夥しい数です。この言葉も、創世記13章14-17節の祝福に似ています。それは、ヤハウェがアブラハムにかけた「あなたの子孫は大地の砂粒のようになる」という約束です。つまり、ビルアムとヤハウェがここで類似しています。またビルアムはアブラハムを祝福したサレムの王メルキゼデクにも似ています(創世記14章18-19節)

孤高の民」イスラエルは、孤高の神ヤハウェに似ています。ヤハウェが民の真ん中の宿営地に宿るように、イスラエルは世界の真ん中に宿っています。イスラエルは十二部族を東西南北に配置しながら、ヤハウェの宿る聖所・会見の幕屋を真ん中に配置しながら旅を続けています(民数記2章)。ビルアムは民の一端を高いところから観察しています。イスラエルの只中に宿るヤハウェは、世界の只中に宿るイスラエルの類比です。イスラエルは世界の中で・世界に対して、異なる文化を確保している「祭司の王国」です。それゆえに迫害されるかもしれません。教会もイスラエルに似ています。神を礼拝しながら仕え合うという文化と実践を確保することで孤立することがあっても、教会は毎週礼拝をし、そのような形で世界に宿ります。異分子扱いされることがあっても、そこに祝福があります。十字架のイエスに似ているという祝福です。

さらに、この場面でイスラエルが知らず知らずのうちにアラム人ビルアムの祝福をいただいていたということも重要です。教会にも似たようなことがありえます。イスラエルが知らず知らずのうちに部外者ビルアムから観察され祝福されたように、教会もまた地域から知らず知らずのうちに祝福されているかもしれません。使徒言行録に多く登場する「神を畏れる者たち」(キリスト者ではないけれども好意的な隣人)によって支えられているということが、昔も今もあるからです。

 イスラエルは「真っ直ぐな人たち」(10節)です。この表現は25回中14回が箴言に用いられる格言用語です。新共同訳聖書では「正しい人」とも訳されています。「わたしの生命は、真っ直ぐな人たちの死を死ぬように」という願いは、生きることと死ぬことの類似を示しています。ある意味で生きることと死ぬことは似ています。真っ直ぐに自分の生命・生活を生きる人は、真っ直ぐに自分の死を見据えて死ぬのではないでしょうか。死に様にその人の生き様が立ち現れます。ナザレのイエスが正にそうであったように。

 こうしてビルアムの言葉は、旧新約聖書を貫く信仰の箴言となっています。わたしたちは神の祝福や隣人の祝福を受けて真っ直ぐに歩み、隣人を呪うような曲がった生き方を死ぬまで避けるべきなのです。そこに幸いがあります。

 

11 そしてバラクはビルアムに向かって言った。貴男がわたしになしたことは何か。わたしの敵を呪詛するためにわたしは貴男を取った。そして何と、貴男は祝福に祝福した。 12 そして彼は答えた。そして彼は言った。ヤハウェがわたしの口の中に置くことを、それをわたしは語ることを守るべきではないか。

 

【バラクに対して】

呪いの依頼主バラクはビルアムに反発します。苦労してビルアムを招き、その指図に従ってバアルの礼拝施設に七つも祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を調達し、慣れない犠牲祭儀まで行って、ようやく呪詛の託宣をいただけるかと思ったら、依頼とは反対の行為をしているように見えたからです。「何と、貴男は祝福に祝福した」(11節)。同じ動詞を連ねる強調表現です。呪詛ではなく祝福をすることは、請負契約違反ではないかとバラクは抗議します。至極もっともな主張に聞こえます。

しかしビルアムは当初から契約を受ける際に留保をつけていたのです。22章38節にあるとおりです。「預言者は神が与える言葉だけを語る」という留保です。この姿勢は、神の命令に基づいています(22章20・35節)。これらに基づいて、ビルアムは堂々と自分の立場を主張します。「ヤハウェがわたしの口の中に置くことを、それをわたしは語ることを守るべきではないか」(12節)。王への抗弁に、初代バプテストの精神に通じるものを感じます。国家は個人の良心の主になることはできません。

 

【今日の小さな生き方の提案】

ビルアムの箴言は、キリスト信徒の生き様について教えています。特に受難節に入ったわたしたちは十字架の主イエスが体を持って示された幸いな生き方に倣いたいと願います。一つは「あれとこれは似ている/正反対である」という感覚を磨き、論理的に説明することです。箴言/譬え話の発想を身に着け、世界を読み解くのです。もう一つは信念を持つこと、あるいは、自らの良心に従うことです。日本社会においてキリスト者として生きるということは少数者として生きることです。さまざまな外圧でわたしたちの「真っすぐ行きたい道」は捻じ曲げられています。この葛藤の只中で真っ直ぐ生きることを願う人生に幸いがあります。