ビルアムの死 民数記31章1-13節 2025年12月28日礼拝説教

【はじめに】

本日の箇所は、25章19節につながる物語です。26章以下の人口調査等によって長い中断がなされていますが、元来は25章と31章は、ミディアンとイスラエルの関係を描く「ひとつなぎの物語」です。「ピネハス」(31章6節と25章7節)や「ツル」(31章8節と25章15節)という共通の登場人物が、一つの物語であることを示しています。そこに、22-24章の物語の主人公である「ベオルの息子ビルアム」(8節。新共同訳「バラム」)の死が混ざり込んでいます。不可解な箇所を、通常の結論をひっくり返すような解釈を施して、大胆に読み返してみます。旧約聖書にはそれが許されます。

 

1 そしてヤハウェはモーセに向かって語った。曰く、 2 イスラエルの息子たちはそのミディアン人由来の(こと)を報復し報復せよ。その後、貴男は貴男の民に向かって加えられる。 3 そしてモーセはその民に向かって語った。曰く、貴男らは武装せよ、貴男らの共なるところから、そののための男性たち(よ)。そして彼らがミディアンに接するようになる、ミディアンにおけるヤハウェの報復を与えるために。 4 その部族に応じて千(人)、その部族に応じて千(人)、イスラエルの諸部族の全てから、貴男らはそののために送る。 5 そしてイスラエルの諸部隊からその部族に応じて千(人)が選出された。武装され続けている一万二千(人)という。 6 そしてモーセは彼らを送った、その軍のためにその部族に応じて千(人を)。彼らを、そしてその祭司エルアザルの息子ピネハスと一緒に、その軍のために(送った)。そしてその聖の道具と合図のラッパが彼の手の中に。 7 そして彼らはミディアンに接して戦った。ヤハウェがモーセに命じたのと同様に。そして彼らは雄の全て(を)虐殺した。 8 そしてミディアンの王たちを彼らは虐殺した。彼らの刺し貫かれた者たち、エビを、またレケムを、またツルを、またフルを、またレバを――ミディアンの王たちの五人――。そしてベオルの息子ビルアムを彼らは剣で虐殺した。 9 そしてイスラエルの息子たちはミディアンの女性たちと彼らの乳児たちとを捕虜とした。そして彼らの家畜の全てと彼らの購入物の全てと彼らの富の全てを略奪した。 10 そして彼らの居住地における彼らの町の全てと彼らの砦の全てを、彼らはその火で焼いた。 11 彼らはその戦利品の全てと略奪物の全てを取った。その人間において、またその家畜において。 12 そして彼らはモーセに向かって、またその祭司エルアザルに向かって、またイスラエルの息子たちの会衆に向かって来た。その捕虜と一緒に、またその略奪物と一緒に、またその戦利品と一緒に、その宿営に向かって、ヨルダンに接するエリコ(の向かいの)モアブの野に向かって。 13 そしてモーセとその祭司エルアザルとその会衆の指導者たちは、彼らに会うためにその宿営の外に向かって出て来た。

 

【報復戦争】

25章16-18節でヤハウェの神はミディアンを攻撃するようにモーセに命じています。31章はその実現です。ヤハウェの命令の理由は、①ミディアン人がペオルという場所でのバアル崇拝を引き起こしたということと、②ミディアン人コズビとジムリという男性の結婚にあります。この二つが③疫病蔓延の原因とされているようです。①のバアル崇拝については、ミディアン人ではなくモアブ人が原因なので的外れです。②の国際結婚については、ツィポラというミディアン人とモーセが結婚しているので、何も問題とはなりえません。③に至っては疫病が起こったことが25章で明記されていません。どう考えてもヤハウェがコズビ(ツルの娘)とジムリ夫妻を刺し殺したピネハスをひいきしているように思えます。つまり①②③の理由は、かなり無理があります。とうてい納得のいくものではありません。

この物語は逆説的な仕方で、「およそ戦争というものは無茶苦茶な理由で始まるものなのだ」ということを教え、「およそ戦争というものは宗教的な理由づけによって最も愚劣になる」ということをも教えているのではないでしょうか。旧約聖書のヤハウェ神は、軍神という側面を持っています。万軍の主(ヤハウェ・ツェバオート。「万軍」は、3・4・5節の「」(ツァバー)の複数形)は、聖戦をイスラエルに課します。政教分離原則によっても、また、平和主義の観点からも、このような神観をわたしたちは保持できません。

では、もう一ひねりして、仮に納得のいく理由があるのであれば報復戦争は可能なのでしょうか。レビ記19章18節は「貴男は決して報復しない」と語ります。「報復し報復せよ」(2節)と同じ動詞です。同じヤハウェが矛盾する命令を発しています。さらに同じレビ記19章18節の後半を用いて、イエスは自分自身のように隣人を愛する生き方を勧めました。わたしたちは、報復する生き方か、報復しない生き方かどちらを選ぶべきでしょうか。すべて戦争は自衛の名のもとに始まり、報復の名のもとに泥沼化します。

本日の箇所で、「虐殺する」という動詞が目を引きます(7-8節で3回登場)。ヘブル語には「殺す」を意味する単語が他にもあるのですが、ここではとても強い意味が込められた動詞ハラグが用いられています。ここに戦争の一つの本質があります。戦争とは虐殺です。20世紀になって初めて戦時虐殺が戦争犯罪とされました。そこだけを取り締まって戦闘行為による殺人を合法とすることでは、戦時虐殺を食い止めることにもならないでしょう。戦闘行為そのものが虐殺の一形態です。

イスラエル・ファーストである「ピネハス」は、選民イスラエル人と結婚したミディアン人女性コズビを槍で突き刺して殺しています(24章8節)。ピネハスの憎悪は、コズビの父親「ツル」に向かいます。「彼らの刺し貫かれた者たち」(8節)と、虐殺された五人の王たちが紹介されています。単なる死ではありません。きわめて残忍な仕方で、ツルたちは惨殺されたのです。ちなみに「刺し貫く」という動詞ハラルは、イザヤ書53章5節「苦難の僕の詩」でも用いられています。イエス・キリストの十字架のような惨殺です。ツルは娘コズビと同じく、またイエスと同じく槍で刺し貫かれたのでしょう。

五人の王を殺したのと同時期に、そのどさくさ紛れにベオルの息子ビルアムもこちらは「剣で」殺したと、報告されています。

 

【ビルアム】

16節にビルアムは、ミディアン人の女性たちを唆してペオルのバアル崇拝事件を引き起こしたと言われていますが、25章には全くそのようなことは書かれていません。先に述べたように、モアブ人女性の出来事をミディアン人女性にかぶせることは不当です。ビルアムへの冤罪でしょう。

22-24章でイスラエルへの祝福を行なった預言者ビルアムは、その後どのような人生を歩み、この場面でなぜ再登場し、死ななければならなかったのでしょうか。24章25節でアラム人ビルアムは、「彼の場所に立ち帰った」とあります。アラムの自宅まで帰ったと書いていないことが味噌です。託宣の中でビルアムは、自分の老後についての願望を語っています。自分はイスラエル人として生涯を終えたいと彼は言っています(23章10節)。ビルアムは、自分の居場所を見出しました。それはイスラエルの中です。ミディアン人ツィポラの一族郎党のように、イスラエルの只中に宿る寄留者として、イスラエル人と約束の地に入る旅に合流したのだと推測します。

ビルアムが選んだ部族は、ルベン部族でしょう。本日のミディアン人との戦争記事(五人の指導者たちの名前も一致)とビルアムの死は、ヨシュア記13章21-22節にも報じられています。それは、ルベン部族の領土についての説明の中にあります。ビルアムの罪については言及されていません。こうしたことから、ビルアムはアラムに帰らず、ルベン部族の中で、ヤハウェを礼拝する寄留者の一人としてルベン部族に混ぜてもらっていたと考えます。

イスラエルにおけるビルアムは、少数者minorityです。イスラエルの中にいる寄留者・孤児・やもめに、ビルアムは共感しています。その点においてモーセとも話が通じる人物です。モーセもまた複雑な背景を持つ異質なイスラエル人でした。モーセは40年エジプト人として生き、40年ミディアン人として生きる、ヘブル語の苦手な人でした。モーセはビルアムを歓迎したでしょう。ビルアムに感謝もしたことでしょう。モーセは自分たちイスラエルの知らない間に、イスラエルが祝福を受けていたことを、ビルアム本人から後で聞かされています。ビルアムの命がけの祝福に、モーセは深く感謝しています。

気骨のあるビルアムは、雄弁な大祭司アロンの後継ぎエルアザルや、その息子ピネハスの持つ選民思想を批判していたのかもしれません。そして、コズビとジムリの結婚を心から祝福していたのかもしれません。ひょっとすると、このような形でミディアン人との親族関係を深め広めることは、預言者ビルアムの進言によるものだったかもしれません。エリートであるピネハスは、少数者を弁護し包摂するビルアムを危険視します。権力を握り、ウリムとトンミムという神意を示す籤(6節「聖の道具」)をも手の中に持つピネハスは、自分の意思をヤハウェの意思と強弁して、コズビ虐殺の正当化のためにミディアンの町を侵略し、略奪し、蛮行の限りを尽くします。さらにピネハスは、戦争で民族意識が高揚する中、冤罪を非イスラエル人ビルアムにかぶせて虐殺します。目の上のたんこぶを粛清したかったということでしょう。

こうしてビルアムの死は、ナザレのイエスの十字架刑死と一直線に並びます。義人アベルの血(創世記4書1-8節)、祭壇の間で殺されたゼカリヤの血(歴代誌下24章21-22節)、ミディアン人と連帯して殺されたビルアムの血、わたしたちの罪を贖うために殺されたキリストの血が、共に叫んでいます。「わたしの神がなぜわたしを棄てたのか」。

 

【今日の小さな生き方の提案】

旧約聖書は未完の正典です。その神は「力を濫用するエリートが自分たちにとって都合よく描いた神」である時があります。ヤハウェは、ユダヤ民族主義にまみれた宗教貴族のための軍神「報復の神」という一面を持っています。わたしたちは神の子イエス・キリストによって示された神によって、旧約聖書を読み返す必要があります。この読み返し作業によって、わたしたちは自らがピネハスになることを避けることができます。自らの持つ力に自覚的になり濫用を避けましょう。キリストの贖いはそのためになされたのです。そしてピネハスが立ってはならないところに立つことを防ぎましょう。戦争と思想弾圧はいつも一組で登場します。イエスの虐殺・惨殺がそれを教えています。わたしたちは少数者ビルアムのような存在を、「あなたがこの社会にどうしても必要だ」と言い抜いていきましょう。キリストが小さなわたしのためだけにではなく、小さくさせられているすべての隣人のために殺されたからです。