16 そして「ヨセフの兄弟たちが来た」と言う、その声がファラオの家に聞かれ、それはファラオの目に、また彼の奴隷たちの目に良く、 17 ファラオはヨセフに向かって言った。「あなたはあなたの兄弟たちに向かって言え。『あなたたちはこれを行え。あなたたちはあなたたちの家畜に荷を積め。そしてあなたたちは行け、あなたたちはカナンの地へと来い。 18 そしてあなたたちはあなたたちの父とあなたたちの家を取れ。 そして私のもとに来い。そうすれば私はあなたたちのためにエジプトの地の良いものを与える。そしてあなたたちはかの地の脂身を食べよ』。 19 そしてあなたこそが命じられた。『あなたたちはこれを行え。あなたたちはあなたたちのためにエジプトの地から、あなたたちの小さな者たちのための、またあなたたちの妻たちのための荷車を取り、あなたたちの父を持ち上げ、来い。 20 そしてあなたたちの目があなたたちの家具について惜しまないように。なぜならエジプトの全地の良いものが、それこそがあなたたちに属するのだから』」。
ヨセフは上司であるファラオに自分の兄弟たちがエジプトに来たことを報告します。首相官邸から聞こえた泣き声は、ヨセフの嬉し泣きであったことをファラオも家臣も理解します。この情報は彼らにとっても良いものでした。「ファラオの家」にいる「彼の奴隷たち」はエジプト王宮の閣僚級の人物たちのことです。この人々はヨセフがヘブライ人であることを知っています。かつてヨセフを雇っていた宦官ポティファルもその中の一人です。ポティファルは、ヨセフが兄弟たちから売り飛ばされたことを知っていたはずです。彼の目には、ヨセフが兄弟たちを探し出し再会したことは良いことです。最悪の飢饉という天災がなければ、この再会はありえなかったのですから、悪いことを良いことのために神が用いられています。今回の鍵語は「良い」(トブ)です。
「目の中に良い」という表現は示唆に富みます。ファラオの宮廷が温かい眼差しで包まれたということを示しています。冷たい視線ではなく温かい眼差し。それは全世界を見渡す神の温かい眼差しと同じです。神が「良い」(トブ)と認めるのと同じように、ファラオの宮廷はヨセフと兄弟が相集い共に食事を食べることを良いことだと認めています。現人神として君臨するファラオでさえも、「ファラオのための父(=顧問)」(8節)であるヨセフの兄弟に、当然の親切を果たしたいと考えます。最近、例えばマスクをしていない人に対する冷たい視線が気になります。目の中に「神の良し」を具えたいものです。
ファラオはヨセフに向かって兄弟たちへの伝言を命じます。「あなたは言え」(17節)、「あなたこそが命じられた」(19節)。温かい眼差しではありますが、この言い方は上から下への命令です。さらに兄弟たちに向かって言うべき伝言の内容も、「あなたたちはこれを行え」(17・19節)ですから有無を言わさぬ上から下への命令です。命令の内容をまとめると、「カナンから自分たちが連れてきたロバとこれからこちらが与える荷車に、エジプト産出の食べ物をふんだんに積んで父の家に持ち帰り、その荷車を用いてカナンからエジプトへ父の家ごと引っ越して来い」というものです。善意に満ちた国家権力による命令。これがファラオの招きの一つの特徴です。
エジプトへの移住は、もちろんヤコブの家にとっての救済という側面もあるのですが、ヤコブの家の意思を無視した強制移住という側面もあります。チェルノブイリや福島の住民たちが国家によって「強制避難」させられたことが思い起こされます。一部の住民は、あえてチェルノブイリ近くで暮らすことを選んだのでした。故郷で暮らすことの価値と被曝を避けることの価値との間の決断です。その人々を嘲ることは誰もできません。現在コロナ禍のもとで、仕事をすることの価値と感染を広げないことの価値との間で、私たちは悩んでいます。国家が個人の行動について「するな/せよ」という要請をする中、あらゆる決断が嘲笑われるべきでありません。ヨセフによる一家の救いは、長い目で見ればより大きな悲劇の始まりでもあることに留意が必要です。
21 そしてイスラエルの息子たちはその通りに行ない、ヨセフは彼らのために荷車をファラオの口に基づいて与え、彼らのためにかの道のための携行食料を与えた。 22 彼ら全てのために彼は各人のために長衣の着替えを与えた。さらにベニヤミンのために三百枚の銀と五着の長衣の着替えを与えた。 23 さらに彼の父のために以下のように送った。(すなわち)エジプトの良いもの由来の(ものを)載せている十頭の雄ロバ、および穀物とパンと、かの道のための彼の父のための食料を載せている十頭の雌ロバ。 24 そして彼は彼の兄弟たちを送り、彼らは行き、彼は彼らに向かって言った。「あなたたちはかの道において動揺してはいけない」。
ヨセフはファラオの招きを忠実に伝えたようです。イスラエル(ヤコブ)の息子たちは、カナンからエジプトへの引越しに同意します。ヨセフは彼らのロバにつなげることができる荷車を与えます。さらに二十頭の雌雄のロバとそれぞれにつなげる荷車も与えます。そこに積まれているものは全て穀物とパンです。それを「エジプトの良いもの由来の」(23節)物と言っているのです。18節・20節で、ファラオが自慢している「エジプトの(全)地の良いもの」も詰まるところパンと穀物でしかありません。なぜなら、全世界は飢饉にあっており、エジプトにも飢饉は続いていたからです。ヨセフが備蓄したものは腐りにくい穀物だけです。穀物だけがエジプトにだけあるという世界です。
それを「良いもの」と呼ぶことに、この物語の深さがあります。「大切なものはそんなに多くはない。いや一つだけである。マリアは良いものを選び取った」(ルカ10章42節)。イエスの言葉が思い起こされます。エジプトは飢饉の前から全国に設置した倉庫に一つの穀物を備蓄するという政策によって、飢饉の中でも生き残り周辺諸国をも救います。これがエジプトの誇る「良いもの」です。コロナ禍は私たち一人ひとりに、あなたの良いものは何か、人生で最も大切なものは何かを問うています。ある人は家族だと気づき、ある人は暴力をふるうような家族ではないと気づく。ある人は仕事だと気づき、ある人は満員電車で通勤するような職場ではないと気づく。わたしが気づいた一つのことは、この礼拝がわたしたちにとって紛れもなく「良いもの」であるということです。
ヨセフが兄弟たちに与えた服は、兄弟たちがびりびりに引き裂いた「長衣」(シムラ)の替えでした(44章13節。なお37章34節でヤコブも長衣を引き裂いている)。新共同訳「晴れ着」は、物語の冒頭のヤコブがヨセフにだけ与えた「晴れ着」(ケトナ)に引きずられた翻訳です(37章3節)。しかしこの場合は素直に、同じ単語は同じように違う単語は違うように訳す方が良いでしょう。彼らはこれから多くの荷物を積んだロバと共に帰るのですから、晴れ着を必要としていません。むしろエジプトとカナンの往復という長旅・野宿に必要な長衣(外套・上着)をヨセフは与えたのでしょう。そこに込められた思いは恢復と慰めです。もう嘆いて長衣を引き裂くことはない。その破れは繕われた。この思いを込めて、ヨセフは兄弟たちに一つだけ注文をつけて見送ります。「かの道において動揺してはならない」(24節)。
新共同訳「争わないように」はサマリア五書を参考にしています。ヘブライ語本文は「震える」「恐れる」「動揺する」という意味が強い表現です。実際この旅は、ヨセフ以外の兄弟同士が喧嘩をするような場面ではありません。争うとすればベニヤミンへの依怙贔屓でしょうけれども(5着の着替えと銀300枚)、そのような嫉妬はユダをはじめとする兄弟たちはすでに乗り越えています。ヨセフは兄弟たちの気が変わってエジプトに来なくなることを心配したのです。「約束の地を離れて言葉も習慣も異なるエジプトへ移住することについて、あなたたちは恐れてはいけない、父の説得も諦めてはいけない、わたしは決してあなたたちに復讐をしないから」と励ましているのです。
25 そして彼らはエジプトから上り、カナンの地、ヤコブ彼らの父のもとに来、 26 彼のために告げた。曰く「ヨセフはまだ生きている。そして実に彼がエジプトの全地を統治している」。そして彼の心は麻痺した。なぜなら彼が彼らを信じなかったからである。 27 そして彼らは彼(ヤコブ)に向かって、彼(ヨセフ)が彼らに向かって話したヨセフの言葉を全て語り、彼はヨセフが彼を乗せるために送った荷車を見、ヤコブ彼らの父の霊は生き返り、 28 イスラエルは言った。「多い。まだヨセフ私の息子が生きている。私は行こう。そして私は見よう、私が死ぬ前に」。
ベニヤミンの帰りを待ちわびていた父ヤコブに対して、息子たちは「ヨセフが生きていて、エジプトの総理大臣になっている」ことを告げます。ヤコブの心は麻痺したとあります。その理由は、ヤコブが息子たちを人格的に信頼していなかったからです。実際今までも交渉に失敗し続けている息子たちにヤコブは不満を持っていました。「次はとぼけた嘘で何かをごまかそうとしているに違いない」。ヤコブは相変わらず見たものしか信じません。
そこで息子たちは、省かずにヨセフが語ったすべてを語り、そしてヤコブは半信半疑ながら外に出ます。そこで20頭のロバと30台ほどの荷車と荷車に満載された穀物を見ます。「多い」(28節)。ヤコブは息子たちの言葉を、おびただしい「良いもの」を見てから信じます。これだけの穀物と家畜と車輌を贈ることができるのは相当の権力者だけなのだから、本当にヨセフが生きていて総理大臣になって、ファラオと共に自分をエジプトへと招いているのだと、じわじわと信じ始めたのです。このヤコブの変化を聖書は、「ヤコブ彼らの父の霊が生き返り」(27節)と表現しています。それは「心の麻痺」(26節)から、「霊の活性化」への変化です。不信から信頼への変化です。
ヤコブは詐欺師的な英雄です。騙されるより騙すという人格です。ヨセフはそのヤコブよりもひとまわり大きな説得力を身につけています。「良い知恵」と呼べるものです。ヨセフは物欲の強い父に圧倒的な支援物資も見せながら、自分との愛情や信頼に訴えてエジプトへの移住に踏み切らせています。父が本当に見たいものは、自分の顔であろうということをヨセフは知っています。不信によって心が鈍麻している限り人間は絶望に陥り動くことができません。しかし、愛や信頼によって霊が生き生きと自由に動き回る限り人間はいつでも希望をもって新しい行動に移ることができます。「私は行こう、私は見よう、死ぬ前に」。エジプトに行き、ヨセフ・ヨセフの家族・ファラオを見る。「悪/災い」ばかりを見ていたヤコブが、神の備える「良いもの」を見ようとします。12人の兄弟が初めて一致結束して一つの業を成し遂げました。
今日の小さな生き方の提案は、自分の視野をひとまわり大きく広げるということです。そのためには目の中に「良い」ものを入れ、眼差しを温かくして寛容にならなくてはいけません。現下の良し悪しに振り回されないことも必要です。長い目で見た「良い知恵」を求め、「良いこと」を共に企画しましょう。そして「良い方」(神)を見上げましょう。わたしたちを良いと認め、歴史を良い方向に導く方を信じましょう。そうすればわたしたちの霊は生き返ります。