16 さて、わたしたちが祈りの中へと行く時に、ピュトンの霊を持った、とある少女がわたしたちに会うということが起こった。そしてその女性は神託をして彼女の主人たちに多くの利益をもたらし続けていたのだが。 17 彼女はパウロとわたしたちに従って、彼女は叫び続けた。曰く、「これらの人間たちは至高の神の奴隷たちだ。そして彼らはあなたたちに救いの道を告げているのだが。」 18 さて、これを多くの日々に彼女はし続けた。さて、パウロはうんざりして、そして霊に振り向いて、彼は言った。「わたしはイエス・キリストの名前において彼女から出て行くことをあなたに命じる。」そしてその時それは彼女から出て行った。
パウロとシラスとテモテは、リディアとルカの家に滞在しています。「祈り」(13・16節)は、ユダヤ教正統の会堂から派生した「神を畏れ崇める人々」の礼拝施設です。非ユダヤ人も女性もいる交わりです。日曜日の夜に礼拝をリディア宅で行い、安息日(土曜日の日中)に「わたしたち」(16節)は「祈り」にも行きます。少なくとも上記5名以上の「わたしたち」は、潜在的な求道者が多くいるはずの「祈り」へとリディア宅から通い、ナザレ派への勧誘をし続けます。
ここに一人の少女が登場します。彼女は「主人たち」(16節)に所有されている奴隷であり一種の巫女でもありました。主人たちにとって利益になる神託をすることが彼女の義務でした。「ピュトン」(16節)はギリシャ神話に登場する蛇の化け物です。アポロ神によって退治されたのですが、ピュトンの霊を宿すと神託を言うことができるようになると信じられていたそうです。少女は機転と話術において非常に優秀な巫女であり、主人たちに多くの利益を得させていました。彼女の神託のおかげで主人たちは大きな商談をまとめることができたのでしょう。あるいはフィリピの政治権力者たちとの関係をより良く保ったり広げたりすることができたのでしょう。
彼女の主人たちは「成り上がり者」である元解放奴隷リディアの商売上の競合者だったのかもしれません。家の教会を主宰するリディアがさまざまな人々を自宅に招き入れて、その商売を益々発展させていくように映ったのかもしれません。「ユダヤ教ナザレ派は商売繁盛の神である」と彼らは捉え、家の教会で商談がまとまっていくことを恐れたのではないでしょうか。
あるいは彼女の主人たちは多くの奴隷たちを所有しながら悠々自適に毎日を過ごす退役軍人たちだったのかもしれません。自分たちの所有する奴隷たちが「もはや奴隷も自由人もない」という福音に触れることを避けたかったのかもしれません。元解放奴隷の紫布商人リディアの家に行くと、奴隷も主人も対等になってしまう。そのような教えは上下関係を重んじる自分たちに大きな不利益をもたらす危険思想です。
主人たちはリディアの家の教会に関する情報を入手し、巫女の話術によって宣教活動を邪魔することとしました。褒め言葉を何度も語ることで皮肉な嘲笑に変え、パウロ・シラス・テモテの説教の腰を折り、リディアの家に出入りすると面倒なことが起こることをフィリピ住民に知らせていたのでしょう。「これらの人間たちは至高の神の奴隷たちだ。そして彼らはあなたたちに救いの道を告げているのだが」(17節)。彼女は巧みな話術で福音宣教を邪魔します。
毎日喉を嗄らせてする嫌がらせによって彼女は主人たちから労われ褒められます。「よくやった。忠実な奴隷よ。」しかし才知溢れる彼女には疑問が湧きます。批判精神がむくむくと湧いてきます。嫌がらせをするために自分は生きているのだろうかという疑念です。あのリディアのように自分も解放され、自分自身の才覚で生き抜きたいという希望です。
彼女が疑問を持ちながらも同じように嫌がらせをしていた、ある日パウロはナザレのイエスに倣って少女に向き合い、正面から語りかけます。「少女の希望を絶望にしばりつけている悪霊よ。イエス・キリストの名前において命ずる。彼女から出て行け。少女よ、起きなさい。うずくまっていてはいけない。あなたの信があなたを救った。贖い代金を請求されたらリディアがあなたを買い戻す。安心して行きなさい。ルカとテモテをトロアスまで同伴させよう。この町から逃げ出す手助けをしよう」。少女は神託を止め、フィリピの町を出て行きます。かつてのリディアのように自由になったのです。
教会は、整合性のとれた唯一の理想を実現するための政治団体ではありません。集まる人々の利害が一様ではないからです。教会は、一人ひとりの人生に出会って、その人の固有の状況のために祈り、できる限りの善を行い、各人の幸せを後押しする団体です。それにより相互に矛盾するかもしれない多種類の善を地上に実現することに仕える団体です。ナザレのイエスが、そのような救い主だったからです。
19 さて彼女の主人たちは、彼らの利益の望みが出て行ったことを見て、パウロとシラスとを掴まえて、統治する者たちに面した広場の中へと引きずった。 20 そして彼らを共同代表たちのもとに連れて行って、彼らは言った。「これらの人間たちはわたしたちの都市をひどく混乱させている、ユダヤ人として存在し続けながら。 21 そしてわたしたちにとって受け入れることも為すことも許されていない習慣を彼らは告げている、ローマ人であり続けている(わたしたちにとって)。」 22 群衆もまた彼らに対峙して立ち上がった。そして共同代表たちは、彼らの衣服を裂いて、鞭打つことを彼らは(口々に)命じた。 23 それから多くの傷が彼らに置かれて、彼らは牢の中へと放り込んだ、看守に彼らをしっかりと見張ることを命じて。 24 その彼はこのような命令を受け、彼は彼らを内の牢の中へと放り込んだ。そして彼は彼らの足〔複数〕を木〔複数〕の中へと固定した。
少女の主人たちは収入源を失ったことに対する報復を行います。彼らは白昼堂々とパウロとシラスを掴まえ行政処分を請求します。彼らは富裕層でフィリポ市の権力中枢とも懇意な関係があるのでしょう。「広場(アゴラ)」(19節)は市場にもなり、役所にもなる町の心臓部です。そこに直接二人を引きずり、「共同代表(ストラテーゴイ)」(20節)というフィリポ市行政のトップに就く二人委員に行政処分をさせます。何とも訳しにくい官職名ですが、ローマの行政組織上フィリポのような植民市は二人の共同統治がなされていたそうです。このようにラテン語からの翻訳の官職名のような細かい情報に詳しいことは、著者ルカがフィリポ住民だったことの証拠ともなります。
金を稼ぐ奴隷を失った怒りを主人たちは行政のトップにぶつけます。事実無根の罪状をまくしたてていくのです。「共同代表方よ。問題はこの小ローマであるフィリポの町に、ユダヤ人という奇妙な者たちがいて、自分たちの奇妙な風習をわたしたちローマ人に広めて、町を混乱させていることにあるのだ。この二人はローマ人に受け入れがたい、ユダヤ人の風習を宣べ伝えるためにこの町に潜入して来た不審者である。おかげでわれわれの奴隷も騙されてユダヤ人とされていなくなった。」
「顔見知りとは言え、つまらない案件が上がってきた。どうせ商売敵に対する腹いせだろう」。仮に金持ちたちの訴え通りのことをパウロたちが行ったとしても、ローマの法律上犯罪には当たりません。ローマは被支配民族の風習に寛容だったからです。しかし、何かしら彼らが満足するような処分を下さなくてはいけません。金持ちと権力者が癒着しているからです。
共同代表の二人は面倒くさそうにパウロとシラスを見ます。確かにユダヤ人のような顔つきです。しかし、なぜかユダヤ人たちは何も語りません。次に共同代表たちは広場で事の次第を傍聴している群衆を見ます。群衆も、面倒くさそうにぱらぱらと立ち上がります。少女の主人たちに賛成であるという意思表示です(22節)。賄賂もあったかもしれません。
二人の共同代表は面倒くさそうに処分の内容を告げます。「鞭打ちして一日牢に入れて釈放ぐらいの処分が妥当」。二人の意見は一致していました。それで金持ちたちの溜飲が下がれば町に治安上の問題は起こらないということです。二人は口々に判決を述べ、鞭打ちと投獄を命じて、次の仕事に移ります。「こんなささいな案件に長時間関わって時間を無駄にしてはいけない。」二人はパウロとシラスに聴聞もせずに、不利益処分を下してしまいました。
直ちに広場という公衆の面前で「杖官」と呼ばれる副官が、鞭打ちを行い、多くの傷を受けて後、パウロとシラスは牢に投じられます(23節)。しっかりと見張るように命じられた看守は、最も内側にある牢に放り込み、牢屋を仕切る格子状の材木に二人の両足を縛り付けて固定しました(24節)。実に非人間的な扱いです。寝返りも打てないので苦しい姿勢です。背中を下にすれば打たれた傷が痛みます。
後にパウロは、「以前フィリピで苦しめられ、辱められた」(一テサロニケ2章2節)、「(ローマ人から)鞭打たれたことが三度」(二コリント11章25節)と述懐し、フィリピでの投獄が辛い経験であったことを思い出しています。パウロは自分自身の受けた苦難を、十字架のイエスの受難と重ね合わせます。そして、そのような苦難における「弱さ」こそが、逆説的にキリスト者の誇るべき「強さ」であると言います(同12章9-10節)。パウロとシラスが、共同代表たちに何も申し開きをしなかったのは、イエスの十字架に至るまでの苦難の道をあえてなぞるためだったように思います。
フィリピの教会は少女の奴隷を搾取の仕組みから脱出させました。そのためにリディア以下各人は全力を尽くしました。その代償・身代わりとしてパウロとシラスは牢に投げ入れられ縛り付けられ自由を奪われました。彼らにはしたたかな策略もあったことでしょう。たとえば、自分たちがローマ人であることを隠して後の交渉(教会を迫害しない約束等)を有利に運ぶという策です。しかしそれと同時に、純粋に敬虔な動機で、彼らは甘んじてこの不等な処分を受けたということも事実でしょう。つまりそれは、イエス・キリストに倣うという動機です。元奴隷の彼女の苦しみの代わりに、パウロとシラスはキリストの苦しみを真似るのです。この思想は元来シラスのものだと思います。パウロは後にローマ市民権を用いて鞭打ちを避けているからです(22章25節)。
今日の小さな生き方の提案は、フィリポの教会に倣うということです。リディアたちは自分たちに嫌がらせをする少女に出会って、彼女の人生を掘り下げました。どうすれば神に従うことになるのか、それによってどんな反動が起こるのか、うんざりするほど考えて祈って彼女を脱出させました。彼女のバプテスマは書かれていません。緊急的な避難が先に必要だったからでしょう。教会はバプテスマに象徴される純宗教的な救いを広めるための集団です。それと同時に教会は、社会の仕組みの狭間で窮地に立たされている個人に、その人に困らされていたとしても、できる限りの善を行う集団です。そのための苦難も甘んじて引き受ける交わりです。愚かなほどのお人好しになれるでしょうか。