今日は棕櫚の主日。今日から受難週に入り、来週は復活祭となります。キリストの十字架を覚えるこの時に、「ヘブライ人の神」について考えることは時宜にかなっています。出エジプトの神ヤハウェと贖い主イエスとは本質的に同じ神であるということが、今日も示されているからです。
「ヘブライ人」という単語(ヘブライ語イブリーム)について立ち入って考えてみましょう。エジプトをも含む古代東地中海世界において、ハビル/アピルなどと呼ばれていた流浪の民がいました。ここにヘブライ人という呼び名の源流があります。「川向こうの人」というような意味です。では聖書の中ではイブリームはどのような意味(の変遷)を持っているのでしょうか。
聖書に34回登場するイブリームは当初蔑称でした。そもそもは軍事的強敵ペリシテ人たちが、イスラエルの人々を「ヘブライ人」と呼び習わしていました(サム上29:3等・・・D的史書)。実は自分のことを「ヘブライ人」と呼ぶイスラエル人はほとんどいません。軽蔑されている者の痛みがこの呼び名から伺えます。ヤハウェは軽蔑されている者たちの神です。〔創39:14参照・・・J〕
外国人から受けた蔑称であるということと関わる別の用法もあります。自国内の奴隷たちを軽蔑して「ヘブライ人」と呼ぶというものです(申15:12・・・D、エレ34:9、出21:2・・・E)。これらの聖句は、「社会の内部で差別されていたヘブライ人・債務奴隷を自由な身に解放しなくてはいけない」という人道的規定の文脈におかれています。ヤハウェは奴隷解放の神です。債務奴隷を買い戻して自由の身にすることを贖いと呼びます。なお創39:17も参照。
これらと呼応してアブラムがヘブライ人と呼ばれていることは重要です(創14:13)。文法的に言えば、先祖エベル(創10:24・11:16)の子孫は皆イブリーム(エベルの複数形)と呼ばれても構いません。しかし聖書は、エベルの子孫の6代後ろの三人兄弟の内、アブラムだけをヘブライ人と呼びます。それは彼が父親と家と土地を棄ててあえて少数者の道を選んだからです。後にヘブライ人は褒め言葉になっていきますが(たとえばパウロ)、その根っこにはアブラムの記事があります。単純に血縁関係さえあればヘブライ人になれるわけではありません。ヤハウェは細い道を通り狭い門から入る者の神です。
P集団は決してイブリームという単語を使いません。それは今申し上げた「偏った色」がこの単語に付いているからでしょう。もっと超然とした世界全体の創造神を描きたいので、民族主義的・社会階層的匂いが強い「ヘブライ人の神」を敬遠しています。それに対してJとEはバビロン捕囚下で、「ヘブライ人」という単語を復権させます。捕囚の民を救う神は、茨の中に自らを現されたヤハウェである、この方こそ軽蔑された民の痛み・苦役の苦しみを知り、細く狭い少数者の夜逃げの道によって、奴隷を解放する神であると信じていたからです。
正にこのような共感・共苦と、困窮からの解放、つまり狭い道を選ぶことこそ、イエス・キリストが体験された歩みでした。ヘブライ人の苦しみは神の子の受難を指し示すし、イエス・キリストの受難はヘブライ人としてのものでした。エジプトの奴隷状態は十字架への道を示し、出エジプトという奴隷解放は十字架の贖いと復活による永遠の命の授与を示しています。さらに言えば、神の子らのバビロン捕囚はイエスの十字架の苦難、神の子らのバビロンからの帰還はキリストの復活の勝利を指し示しています。
さて物語本論に入っていきましょう。モーセとアロンの行ったファラオとの交渉はヘブライ人奴隷の解放を目指す非暴力の取り組みでした。エジプトの王宮に入るために、モーセはかつて自分が王子であったことを大いに利用したことでしょう。そこまでが口下手なモーセの仕事です。その後はエジプト語を使う交渉でしょうけれども、雄弁なアロンがファラオと対峙・対話をしたのでしょう。強大な国家権力に対しての働きかけにおいては、役割分担してことに当たらなくてはならないものです。
「イスラエルの神ヤハウェを荒野で巡礼させよ」という要求(1節)を、ファラオは突っぱねます。「ヤハウェとは誰か。わたしはヤハウェを知らない。だからイスラエルを去らせない」(2節)。これを受けてアロンは語ります。「知らないのならば教えましょう。ヤハウェはヘブライ人の神です。奴隷を自由人に買い戻す神です。わたしたちは自由に自分たちの神を拝みたいのです。神の子とされているファラオ・あなたをわたしたちは拝みたくありません。どうか三日の道のりを荒野に行かせてください」(3節)。
ファラオは敏感にアロン(とモーセ)の主張の急進性を察知しました。自己防衛本能です。エジプト社会の支配・被支配構造に楔を打ち込む可能性をみぬきました。個人が思想信条や意見を自由に持つことは支配者にとって歓迎されません。自分の頭で考えることは、「悪」です。むしろ何も考えずに黙々と従う民こそが支配者にとっては望ましいのです。個人の心の自由を認めることは支配者の秩序という堤防を壊す「蟻の一穴」になりうるから危険です。
ファラオは「変な考えを持つな。人々を煽るな。労働者の仕事の邪魔をするな。自分の労働現場につけ。権利なんぞというものを主張する前に勤勉に働け。働けば考える暇などなくなるから」(4節。9節も参照)。5節によれば、ファラオは厳しい労働による過労死こそを願っていたようです(1:9-14参照)。「この国にいる者」の直訳は「地の民(アム・ハ・アレツ)」、後に政党的結社(D的)、さらには被差別者を指す言葉にもなりました。イブリームと重なります。ファラオはヘブライ人の思想の管理をし、人数の管理をもしています。労働は支配の結果でもありますが、支配の道具にもなっています。
5節で第一回目の交渉は終わっているようです。6節以降でファラオは、アロンとモーセに対してではなく、「民を追い使う者」と「下役の者」に通達をします。ファラオの通達の内容は、アロンとモーセの行政交渉に対する報復行為です。れんがを造るという労働において、れんがの材料であるわらを自分たちに調達させよと言うのです。今まで国家が支給していた材料の一部を、労働者負担にせよというわけです。しかも完成品のれんがの数量は今までと同じでなくてはなりません。国というのはこの類の報復を民にしてはいけません。沖縄と日本国政府の関係を思い出させる記事です。
この後の物語を読むと「追い使う者」はエジプト人であり、「下役の者」はイスラエル人のようです(14-16節)。ファラオは、エジプト人の労働管理者とその下にいるイスラエル人の現場監督を同時に呼んでいます。ここに狡猾な分断策があります。イスラエル人の現場監督は中間管理職のような位置に置かれ、自分の民とエジプト人管理者との板挟みにあいます。エジプト人管理者には優越感が与えられ、ファラオのためにイスラエル人を酷使しようとするでしょう。どちらも支配のピラミッドの中では頂点に立てないのですが、それぞれの序列で満足するように仕向けられ、互いに緊張感を持たされ消耗させられるのです。ファラオの目的は、支配体制の維持にしかありません。
卑劣な支配者はデマを流布することも忘れません。「イスラエル人は怠け者だ。礼拝の自由などという主張は怠けるための言い訳だ。アロンとモーセの言葉は嘘っぱちだ。だから過労死するまで追い込んで構わないのだ」(8-9節)。これはひどい言い方です。前提には「エジプト人は勤勉だ。だから適度に休んでも良いのだ」という考えがあります。この前提そのものが間違えています。支配者層のエジプト人に適度な休みが与えられるのは、イスラエル人の奴隷労働があるからだからです。
このような傲慢な言葉・荒唐無稽な流言飛語も、国家権力によって流されることで暴力的な破壊力を持ちます。エジプト人大衆の考えも、反イスラエル/ヘブライ人になっていき、世論が形成されます。国家に少し不満を持っている人は、国家によって目をそらされやすいものです。自分の中に差別意識を持っていると、容易に操られ誤導されます。「自分たちよりも目下の連中が、自分たちよりも上等な要求を国家に求めているとは何事か」という心理です。「在特会」が一定の支持を保ち、ヘイトスピーチを根絶できない理由です。
このような視点から現代のエジプト学の発掘をとらえ返してみましょう。ピラミッドの労働現場に「ファラオ万歳」という落書きがなされていたそうです。それを根拠に、「ヘブライ人に対する強制労働は聖書の語る虚妄である、あれはファラオによる人道的な公共事業だったのだ。弁当まで支給されていたのだから」という学説があります。どこに立って物事を見るのかが重要です。文字を奪われるほどに貧しい人ではない人が落書きを書けるわけでしょう。落書きは文字を持つエジプト人のした行為です。また、仮に酷使されている労働者が書いたとしても、さきほどのような操作された世論に従って言っているだけかもしれません。仮に弁当が支給されても支配の手段でしかありません。事の本質はファラオの支配です。彼は罪の権化です。罪とは支配欲のことだからです。
今日の聖書箇所は、今日の日本社会の問題とその問題解決のための示唆に富むと考えます。問題とは、わたしたちがものをじっくり考える時間や労力を持たされていないということです。それは敗戦後70年かけて長期政権によって巧妙につくられた仕組みです。民を忙しくさせ何も考えさせない、自分の意見を言うことを学校でも職場でも奨励しない、ただ勉強だけ・労働だけしていれば良い、社会のことに無関心にさせる、権力者に不満持ち始めたら「怠け者」「自己責任」と攻撃したり、別の攻撃相手を提供しそこで対立させ消耗させる(ネトウヨ)、選挙の時には眠っておいてもらう(投票率の低下)、選挙の時に言わないことを実行する(9条の解釈変更を閣議決定)、選挙で民意が示された場合でも無視する(沖縄)、無力感を植え付け反抗しない民に育てる…などなど。ファラオの政策は未だに生きています。今や世襲議員の特権階級である首相が自衛隊を「わが軍」と呼んでも辞任しないのです。歴代政権が「自衛隊は軍ではない、合憲だ、だから存置しうる」と強弁していたからこそ罪深いでしょう。
大多数が無関心にさせられ、それが支配を堅固に強化していくという課題はどのように解決されるのでしょうか。まず「暇な社会」を作らないといけないでしょう。どのようにしてそれを実現できるでしょうか。聖書の民は楽観的に生きることができます。アロンとモーセが行ったこと、そして神の子イエス・キリストが行ったことに解決があると素朴に信じることができるからです。
第一回目の交渉以降アロンとモーセは何回も王宮に足を運んでファラオと話し合いをします。いわゆるロビイング活動であり行政交渉であり本人訴訟です。その姿は十字架の道を進むイエス・キリストの姿でもあります。権力者であるサドカイ派・ファリサイ派に対して言論のみで挑戦し法律の解釈で戦い、その結果として死刑に処された神の子が、アロンとモーセと重なります。言葉と論理で相手を説得することを決してあきらめてはなりません。その姿を見て、対話相手も無関心な人々の心も動くのです。これもまた伝道です。
今日の小さな生き方の提案は、どんな人にも、たとえば不正な権力者に対してさえも、礼をもって交渉をし続けるということです。教会内外で非暴力の紛争解決の輪を広げましょう。対話相手も変わり、周りも変わることを信じて。他人にも良心があることを信じられるのは信仰者の特権です。