今日の箇所は先週の続きです。3章1節から始まるモーセの召命記事の一部です。神から出エジプトの指導者として任命されたモーセは、何とかこの任命を断ろうと努力します。まずは、「わたしは誰なのかわからない」という理由で(11節)、次に「わたしはヘブライ人の神の名前を知らない」という理由で(13節)、断ろうとします。それに対してエロヒムという神は、「わたしが共にいるから大丈夫」と答え、「わたしはある(エフイェ)」という神の名をモーセに告げました。さらに、ヤハウェという神は、「ヤハウェがわたしに現れた(見られた)」と言えば、ヤハウェを礼拝するヘブライ人は信用してくれると、念押しをしてくれたのです(15-16節)。
モーセの反論である「それでも彼らは、『ヤハウェがお前などに現れるはずがない』と言って信用しないでしょう」(4:1)はこの文脈につながっています。モーセの心配は生前のイエスを見たことがないパウロの苦労、「復活のイエスがわたしに見られた」と力説しても信用されないパウロの苦労と似ています。
神に使命を授けられ任命された人が、その任命を拒もうとするという出来事は他にもあります。預言者エレミヤ(エレ1:6)も有名ですが、それは来週の箇所との関係が深いので今日は取り上げません。むしろ今日の箇所は士師ギデオンや(士師記6章)やサウル王(サム上9:21)の召命記事に似ています。今回もJ集団は、「申命記的歴史書」(申命記・ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記)を継承しながら批判するためにモーセの召命記事を描いています。
継承している内容は「神は小さい者を選ぶ」ということです。ギデオンはマナセ部族の中で最も貧弱な一族であり家族の中で一番年齢が低いことを、士師就任を断る理由としています(士6:15)。また、サウルはイスラエルの中で最も小さなベニヤミン部族の中の最も小さな一族の一員であることを、王就任を断る理由としています(サム上9:21)。
ギデオンとサウルを前提にするとモーセは自分の小ささを理由に断ることができなくなります。正に小さい存在であるがゆえにこそ神は選ぶことがあるからです。これはわたしたちのように自分の小ささ・至らなさを日々痛感している者にとっては大きな慰めであり励ましとなります。また、自己肥大している者が力をふるい、小さくされている者が貶められている世の中に対する強烈な批判でもあります。
しかもヤハウェは極めて対話的な神です。ギデオンやサウルに比べて長大な押問答がここには記されています。彼らは問答無用で選任されているにもかかわらずモーセは丁寧に話を聞いてもらっています。この点に現代的な意義があります。仮に相手が小さくても、相手を説得させ共に協力し合うために必要な態度は対話的であることです。決して威圧的であったり、暴力的であったりしてはいけないのです。Jは対話的な神ヤハウェを描きながら(創18章も)、申命記的歴史書の高圧的神像を批判しています。
もう一つ重要な主題は「しるし」と呼ばれる超常現象をどう考えるべきなのかということです(8節)。士師ギデオンは「聖戦」勝利の保証のためにしるしを要求します(士6:36-40)。そして神はギデオンの要求通りに超常現象を引き起こします。士師記においてはしるしというものが全面的に肯定されています。おそらく、この態度の根っこには預言者イザヤの言葉があります(イザ7:10-17)。預言者イザヤはしるしを要求しないアハズ王を厳しく批判します。神の意思を探るために超常現象を求めることは良いことと考えられています。何らかの不思議な出来事は神がそこに関与している証明というわけです。
昨年までヨハネ福音書を読んできたわたしたちは、福音書の中でしるしが肯定的にも否定的にも取り上げられていること、しかも全体としては否定的に考えられていることを確認してきました。イエスはしるしを見て信じるような人々を信用しませんでした。ヨハネ福音書のしるし理解と、Jのしるし理解は似ています。今日の箇所も一見しるしが肯定されているように見えますが、そうではありません。ギデオン物語の裏返しとして、しるしもまた批判の対象です。
なぜかと言えば、「結局しるしは人を説得する力にならない」ということがこの後の物語を読み進めていくと明らかになるからです。モーセには三つのしるしが授けられました。すなわち、①杖を蛇にすること、②皮膚の病気を自在に操ること、③ナイル川の水を血に変えることという超常現象を行うことができるようになりました。このことはヘブライ人から信用を得るためのしるしとされています。この後の物語4:30-31で、アロンというモーセの兄がこのしるしを民の前で行ったので、モーセは指導者としての信用を得ることになりました(4:30のしるしを行った主語を、新共同訳と同じくアロンととります)。しかしモーセを指導者として信用した民は、すぐにモーセの言うことを聞かなくなります(6:9)。民はむしろアロンとの関係でモーセを信用したのでしょう。しるしはモーセを指導者として信用することの役に立っていないのです。
①②③のしるしは、エジプト王ファラオとの行政交渉の武器でもありました。自分たちの背後には力強い神がいることを示せばファラオも出エジプトを許可するだろうという思惑です。実際にアロンはファラオの前でも杖を蛇に変えました。しかしファラオは説得に応じません(7:8-13)。モーセは皮膚の病気を蔓延させることもしましたが、ファラオは説得に応じません(9:8-12)。ナイル川の水を血に変えることもしましたが、ファラオは説得に応じません(8:14-24)。ヤハウェはファラオが頑なになることを最初から知っていました。「わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたち(モーセとアロン)の言うことを聞かない」(7:3-4)。しるしは人を説得させる力を持っていないことを、ヤハウェは知っています。なぜでしょう。
理由はヤハウェが人間に自由な心を与えているということにあります。人が人を信じるかどうかは、その人の自由です。8-9節のヤハウェの言葉は、ヘブライ人が①②のしるしを信じない可能性を前提にしています。実にヤハウェでさえ人が何を信じ/信じないかを知らないということです。やはりこの記事の全体は、しるしというものに懐疑の目を向けています。超常現象は神の意思を現すものでもなければ、人を説得させ人からの信頼を得るための道具にもなりえません。虚仮威しであり胡散臭いものです。
特に6節の「重い皮膚病」が宗教的な意味合いを持っていること、また社会的に大きな影響を与え続けているので、しるしという超常現象に冷静な批判が必要です。ヘブライ語ツァラアトはハンセン病を含みます。しかしそれ以外のものにも使われます。たとえば家の壁などもツァラアトにかかることがあります。ハンセン病は感染力が弱いにも関わらず、独特の症状から忌み嫌われ、患者は差別されていました。宗教界もその差別を助長しました。レビ記13章にあるように隔離することを宗教的に根拠づけているからです。イエスがツァラアト患者を癒した以上に、患者に触った行為そのものが奇跡であると言われる所以です(マコ1:41)。
特効薬プロミンが開発され1940年代から実用化された後でも、たとえば日本でも1996年まで悪名高い「らい予防法」によって隔離が合法化されていました。戸籍から抜かれ社会的に抹殺され名前を変えさせられ隔離された人も多くいました。未だに元患者への不当な差別は根強く残っています。今日の箇所もそのような病気に対する恐怖と患者に対する差別が前提となっています。
このしるしを見せつけられ、授けられたモーセはどのように感じたのでしょうか。「ヤハウェの神はひどい」と考えても無理はありません。杖が蛇になった時点で、モーセは飛びのいています(3節)。それに加えて、ツァラアトです(6節)。まさか「ハンセン病差別の悪さを教えるためにハンセン病にした」とでもヤハウェは強弁するのでしょうか。殺害動画を生徒に見せた教師の、出来の悪い言い訳のようにしか聞こえません。
興味深いことに、ギリシャ語訳聖書はツァラアト(ギリシャ語に訳せばレプラ)という単語を削除しています。手が雪のようになったとだけ記しています。ギリシャ語訳聖書が書かれた前3世紀のギリシャ語圏では、ユダヤ人差別の一環として「ユダヤ人の先祖はハンセン病患者だったのでエジプトから追放された」というように、出エジプトの出来事が流布されていたからでしょう。もちろん翻訳者たちの中にもハンセン病患者差別があることは批判されるべきです。しかし、聖書が自分たちを貶めていると感づいた時に聖書の一部を切り落としたという勇気は大したものです。同様にイエスも「宗教の持つ胡散臭さ」に敏感でした。だからこそ律法の一部を軽視したり読み替えたりして、貶められている人々であるツァラアト患者・徴税人に触れることができたのです。
モーセも同じような切り落としをしています。彼はこの後、ヤハウェの指示に従わないからです。ヘブライ人の信用を得るためにしるしを行え、少なくとも二つは行えと言われているのにもかかわらず、先ほど申し上げたとおり、アロンにそれらのしるしを行わせたからです(30節)。簡単すぎる報告は、アロンが三つ目のしるしを行わなかったことを示唆しています。モーセはヤハウェの授けたしるしが嫌で嫌でたまらなかったのでしょう。人が人を信用するために、また信頼のネットワークを広げていくために、虚仮威しは不要であり、むしろ害悪になることをモーセは知っていたのです。
そしておそらくヤハウェもしるしの無意味さを知っています。知っていてなぜ超常現象を見せびらかしたり、授けたりするのでしょうか。モーセという人との対話を楽しむというぐらいの意味しか無いでしょう。相手が意固地になるのを期待して無理なことをしているのですから、ヤハウェは相当にひねくれており一筋縄ではいかないお方です。よく言えば、モーセという人の本心を知るための直接的対話をヤハウェは好むということです。あるいはヤハウェに対する問いを常に持つようにとヤハウェ自身が望んでいるとも言えます。ヤハウェは偽悪的な神です。それは偽善よりもましな態度です。
この両義的な物語は、神の言葉が本当に神の言葉であるかどうかについては絶えざる吟味が必要だということを教えています。今日の小さな生き方の提案は、健全な批判精神を持つことです。それが第一のおすすめです。そうでなくては、わたしたちはさまざまな政治的・社会的・宗教的な虚仮威しに騙されてしまいます。自分自身が貶められてしまうような窮地から身を守りましょう。
第二の小さな生き方の提案は、対話的でありましょうというおすすめです。聖書の神が信頼に足りるお方であると信じられる理由は、聖書の神が対話的であるということに尽きます。三位一体の神はご自身の内で/間で対話的な神でです。この神のあり方が、教会のあり方を規定し、社会の模範となります。言うことを聞かないモーセの言い分も一応聞くのです。次週ヤハウェは怒りますがしかし妥協もしています。話し合いは妥協を前提しています。これこそヘブライ人の信頼を得るためにモーセに求められている姿勢でもありました。信頼を得るために信頼を広げるために水平的対話の輪をかたちづくりましょう。