ベツレヘムの悲劇 マタイによる福音書2章16-18節 2025年1月12日礼拝説教

はじめに

マタイ教会が伝えるクリスマス物語にはヘロデ大王による虐殺事件があります。しかも殺された人々は二歳以下の子どもたちです。この年齢の幼さが出来事の悲劇性やヘロデ大王の残虐性を際立たせています。

マタイ教会によれば、ベツレヘムの悲劇はエレミヤ書31章15節の預言の成就です。マタイ福音書は決して個人の書下ろし作品ではありません。ヘブル語旧約聖書を担当する教会員、ギリシャ語訳旧約聖書を担当する教会員が、総動員で「預言と成就」にあてはまる聖句を探し、そして合意を得て「引用」がなされています。つまりそこには多様な本文の合成や書き換えがありえます。

合成引用の作業を少しばかりたどりながらマタイ教会が大切にしていることを分かち合いたいと思います。そうして本日の聖句が今日の世界に対して何を語っているのかについて、胸を開いて聞きたいと願います。

 

16 その時ヘロデは彼がその博士たちによって欺かれたということを見た後、彼は激しく怒った。そして遣わした後、彼はベツレヘムにおける、また、彼女の地方全てにおける、二歳から下の子どもたち全てを上げた。彼がその博士たちから確認したその時期に従って。 17 その時その預言者エレミヤを通して述べられたことが満たされた。曰く、 

 

ヘロデ大王の暴挙

ヘロデ王は、博士たちがベツレヘムから10㎞ほどの距離にあるエルサレムの王宮に戻って来るのを待っていました。ユダヤ人の王として生まれた赤ん坊がどこに居るのかの報告を、博士たちは彼にすることになっていたからです。この報告を基にユダヤ人の王候補者の赤ん坊を暗殺することをヘロデは企んでいたのです。博士たちの目的はキリスト礼拝ですから、ヘロデは彼らを欺いたのです。

ところが博士たちは天使から、「ヘロデのところに戻らないように」と告げられたので、王宮に立ち寄らずに自分たちの出身地へと帰ります。結果としてヘロデは「博士たちによって欺かれた」ということになりました。「欺かれた」は、「愚弄された」「馬鹿にされた」とも翻訳できます。権力闘争の限りを尽くして絶対的権力者にまで上り詰めたヘロデの主観がここに入っています。支配欲・名誉欲、そして強烈な自負を持っているヘロデは激怒します。他人を出し抜き欺くことには慣れている彼は、正にそれだからこそ、欺かれることを潔しとしません。

博士たちを探し出すことは不可能です。誰がユダヤ人の王候補者であるかを知ることも不可能です。そこでヘロデは自らの力を使ってとんでもないことを企て実行に移しました。ベツレヘムとその周辺地域の二歳以下の子どもを全員殺すという暴挙です。博士たちは二年ほど前から、不思議な星を観測していたのでしょう。その時期を確認していたので、二歳以下であれば誰でも殺す。そうすればその中の一人はユダヤ人の王候補者なのですから、その危険人物を殺すことができるとヘロデは考えました。

16節「子どもたち」はパイスという単語です。「男性奴隷たち」という意味もあります。ここにもヘロデの主観が入っています。彼にとって、住民は奴隷たちに過ぎません。自分の意のままになる奴隷であるのだから、別に殺しても構わないのでしょう。もちろん古代人の子ども差別もあります。子どもに人権は無い時代のことです。彼は子どもたちを「上げた」のです。この上げるという言葉は、「取り上げる」→「取り除く」→「処分する」→「殺す」というように派生した動詞です。24回中21回がルカ文書で用いられています。キリスト信徒にとっては十字架に上げられて処刑されたイエスを思い起こさせる動詞です。

イエスは「僕(奴隷)となった王」と呼ばれます。イエスの宣べる「神の支配」は、互いに仕え合うという交わりです。誰も王となってはならない、むしろ給仕訳とならなくてはならないという集団です。イエス自らがその仕えるという道を十字架に至るまで歩きぬきました。ヘロデの暴挙を通じてマタイ教会は、イエスと殺された子どもたちの連帯感を描こうとしています。そしてヘロデの支配は神の支配ではないということを強く訴えています。子どもたちこそが神の国に真っ先に入るべき人々だからです。

詳細は詳らかではありませんが、ヘロデは他人を遣わして多くの子どもたちを粛清しました。「上げた」という言葉から推測すると、死刑執行のような仕方であったかもしれません。親や親族や隣近所の者たちにとって、いたたまれない出来事です。泣き声、嘆く声、悲鳴、怒声、うめき声、悼む声が、ベツレヘムとその周辺に上がります。

マタイ教会にとって、この悲劇は預言者エレミヤの預言が実現したこととなります。ヘロデの激怒に基づく暴挙執行の時が、エレミヤの言葉の実現の時です(その時)。例によって、四番目の成就引用として(17節、1章23節、2章5・15節)、エレミヤ書31章15節が引かれます。次のようにマタイ教会は記します。

マタイ教会の合成引用

 

18 ①声がラマにおいて聞かれた。多くの悲鳴と嘆きが。

②ラケルは彼女の子どもたちを泣き続けている。

③そして彼女は慰められることを望み続けなかった

④なぜなら彼ら/彼女ら/それらはいないからだ。

 

注目すべき点に三種類の下線を引きました。これらの部分にマタイ教会の信仰が伺えるからです。「子どもたちを」(テクナ、中性名詞)、「慰められることを望み続けなかった」、「彼ら/彼女ら/それら」の三つです。マタイ教会は、ヘブル語の聖書とギリシャ語訳旧約聖書を広げながら、自分たち独自の「引用」聖句を創り出しています。実際に比べてみましょう。ヘブル語旧約聖書とギリシャ語訳旧約聖書にはそれぞれ次のように書かれてあります。

【ヘブル語】

  • 声がラマにおいて聞かれた。嘆き、諸々の苦みの悲鳴が。
  • ラケルは彼女の息子たちについて泣き続けている。
  • (彼女は)彼女の息子たちについて慰められることを拒み続けている。

④なぜならはいないからだ。

【ギリシャ語】

  • 声がラマにおいて聞かれた。悼みの、また悲鳴の、また嘆きの(声が)。
  • ラケルは彼女の息子たちについてひどく泣き続けている。
  • 彼女は彼女の息子たちについて止めることを望み続けなかった
  • なぜなら彼ら/彼女ら/それらはいないからだ。

 

一文目はギリシャ語よりもヘブル語をマタイ教会は採っています。ギリシャ語訳旧約聖書はかなり自由な翻訳です。翻訳ではあっても引用である限り、あまり自由な翻訳は勧められません。マタイ教会は聖書に対して誠実です。この態度はわたしたちの模範となります。

二文目は独特です。マタイ教会が「息子たち」という男性名詞ではなく、あえて中性名詞の「子どもたち」を選んでいることが分かります。ヘブル語に中性名詞はないので、ここはギリシャ語の特性を活かした引用です。また、「~について」という前置詞を用いず、「~を」という直接目的表現(対格)もあえて選んでいます。「~を泣き続ける」という表現が珍しいので、ここにはマタイ教会独特の主張・特別な注意が透けて見えます。

マタイ教会は男性の赤ん坊だけを殺したと採らずに、女性の赤ん坊や男女にくくれない赤ん坊も含まれていたかもしれないと問い直しています。一つの特定の出来事「について」ということではなく、子どもたちの存在「」丸ごと重要なことがらとして取り扱っています。ヘロデの残虐性にのみ留まってはいけません。何事か災いが起こる時、子どもたちこそが真っ先に犠牲となるということを、わたしたちは常に自覚しなくてはいけないのだと思います。乳幼児にあたる子どもたちが、災害弱者であり、社会的弱者であるからです。

三文目「慰められること」はヘブル語を採り、「望み続けなかった」はギリシャ語を採って、両者を合成しています。一方のギリシャ語「止めること」は何を止めることなのかが不明ですし、他方のヘブル語「拒み続ける」は意味が強すぎるからです。マタイ教会が、どちらの本文にも敬意を払っていることが分かります。ヘブル語一辺倒でもなく、ギリシャ語に偏っているわけでもありません。こうした多様性や多元性を認めて尊重しようとする態度も、一つの主張と理解することができます。わたしたちも模範とすべき点です。

四文目「彼ら/彼女ら/それら」について、マタイ教会はギリシャ語訳を採っています。殺された子どもたちは複数人いますから、「彼ら」の方が文法的に滑らかです。そしてこの部分のヘブル語「彼」は男女が明確な表現ですが、この部分のギリシャ語訳は「彼ら」は「彼女ら」や「それら」も意味しえます。こうしてマタイ教会は男の子だけを焦点にしません。全体としての子どもたちこそが社会の宝です。だから同時に、ヘロデ大王が「男性のみをユダヤ人の王候補と思い込んだ」ことも批判されています。

マタイ教会はベツレヘムの悲劇という特定の一回きりの出来事を、良い意味で普遍化しています。いつでも、どこにおいても、誰に対しても、性別を問わず、およそ力を濫用する暴君のいるところに、およそ包摂性のない社会に、同じ悲劇・社会的弱者の排除は起こりえます。

 

今日の小さな生き方の提案

マタイ教会に倣いたいと思います。後天的につくりだされた性別を、マタイ教会は乗り越えようとしています。ジェンダーに基づいて、特定の性に特定の期待を寄せることは止めるべきです。神はすべての個人を神の似姿として創り、イエス・キリストによってすべての人の子を神の子としてくださっています。誰一人として奴隷はいません。一人の王もいません。

だれも隣人を「要らない」と排除すべきではありません。共同体の中で最も排除されがちな構成員が真ん中に据えられるべきです。少子化の大きな要因は女性に対する経済差別ですが(103万円等の壁に矮小化されてはならない)、もう一つは子どもの人権に対する軽視でしょう。どの赤ん坊が抑圧されると分かっている社会に生まれようと思うでしょうか。一斉行動を強いる学校化社会や超高額教育費の問題が問われています。教会は裏返すべきです。