【はじめに】
ビルアムとバラクの物語は終わりました。預言者ビルアムの啓示(託宣・祝福)が、イスラエルの知らないところで起こります。その直後に、イスラエルの民は本日の25章1-5節で、ヤハウェの神を裏切り、別の神を拝みます。そしてレビ人ピネハスが他神崇拝者を粛清します(6節以下)。
この物語の組み立ては、「金の子牛事件」と同じです。出エジプト記32章において、モーセは神の啓示(律法)を受け取り、シナイ山の麓にいるイスラエルの民のもとに戻ります。民の知らない間に啓示(恵みとしての神の意思)が与えられていました。その直後に、民が金の子牛を「出エジプトの神ヤハウェ」として礼拝していたのでした。そしてレビ人が他神崇拝者を粛清します。
歴史は繰り返します。登場人物を変えて似たような出来事は起こることがあります。歴史を教訓として学ぶ意義が、そこにあります。敗戦後80年という節目に、かつての戦前と現在の状況が似ているならば注意が必要です。トランプ関税と、第二次世界大戦の原因となった保護主義は似ていないでしょうか。また、昨今の地価高騰の状況が40年前の土地バブルと似ているならば、同じ失敗を繰り返してはならないでしょう。
1 そしてイスラエルはそのシティムの中に住んだ。そしてその民はモアブの娘たちに向かって婚外交渉をした。 2 そして彼女たちはその民を彼女たちの神々の犠牲のために呼んだ。そしてその民は食べた。そして彼らは彼女たちの神々を礼拝した。 3 そしてイスラエルはペオルのバアルにつながれた。そしてヤハウェの鼻がイスラエルの中で熱くなった。 4 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。貴男はその民の頭たちの全てを取れ。そして貴男は彼らをその太陽に向かってヤハウェのために吊るせ。そうすればイスラエルによるヤハウェの鼻の熱は戻るのだ。 5 そしてモーセはイスラエルの士師たちに向かって言った。貴男ら各男性は、ペオルのバアルにつながれ続けている自分の男性たち(を)虐殺せよ。
【シティム】
「シティム」(1節)という場所は、エリコの町からヨルダン川を挟んで東に20kmほどにあります(33章49節「アベル・シティム」と同じ場所)。後にルベン部族に割り当てられています。また後にヨシュアがこのシティムからエリコの町へ偵察を派遣しています(ヨシュア記2章1節)。つまりシティムは長期にわたってイスラエルの民の拠点となった場所です。この場所でイスラエルの民のうち成人男性既婚者たちが、モアブ人女性たちと不倫をしたというのです。
この出来事はヤコブの長男ルベンが、父の妻の一人ビルハを犯した事件を思い起こさせます(創世記35章22節)。シティムがルベン部族の領内だからです。また、この出来事はモアブ人とイスラエル人の近い関係も想起させます。そもそもモアブ人は、アブラハムの甥ロトと、ロトの娘の間に生まれた男児モアブ(「父由来」の意)の子孫です(創世記19章37節)。男性既婚者たちの性的不祥事ということがらに、共通の環があります。
【バアル崇拝】
聖書の世界において、性的不祥事は他神礼拝と関わりがあります。ソロモン王が多くの外国の妻を「側室」とするたびに、他の神々がイスラエルに紹介されていくのと似た事情です(列王記上11章1-3節)。不祥事の相手方であるモアブの女性たちは、自分たちの礼拝祭儀にイスラエルの男性たちを呼びました。それはヤハウェの神を拝みながら、別の神々をも拝むことができるという考え方をイスラエルに導入することでした。だから厳密には、女性たちが男性たちを呼んだのではなく、女性たちを「聖娼」(後述)として雇っているバアル聖所の祭司たちが、イスラエルの男性たちをバアル崇拝に呼んだのです。女性を「誘惑する性」として紋切型に描いていることに注意が必要です。
「バアル」(3節)という神が、聖書で初めて紹介されています。ここからイスラエルは長い間信仰上の葛藤をします。ヤハウェのみを礼拝するか、それともバアル崇拝を混ぜるかという葛藤です。「イスラエルはペオルのバアルにつながれた」(3節)という一言は、約束の地におけるイスラエルの歴史全体を貫いた表現です。ヤハウェ以外の「契約の相手方である配偶者/主人(バアル)」がありえるのかという問いの前に、イスラエルの民は常に立たされ、誠実であり続けることができなかったのです。
【ペオルの頂】
「ペオル」という場所は、23章28節に登場しています。ビルアムがイスラエルを二度祝福した場所は「ペオルの頂」です。この小高い場所そのものが、バアルの神を礼拝する「高き所(バモト)」だったのでしょう。モアブの女性たちを「聖娼」として雇っているバアルの祭司たちは、そこでの祭儀のためにイスラエルの男性たちを呼びます。その礼拝儀式の中には死者たちに供える食物を食べることも要素として含まれ(詩編106編28-31節)、さらに「聖娼」との性交渉も要素として含まれていたと推測できます(ホセア4章11-14節)。預言者ホセアの妻ゴメルも聖娼だったと推測されています。
ちなみに、預言者ビルアムはモアブ王バラクと別れた後イスラエルの民に合流したのですが、このペオルというバアルの礼拝場所をイスラエルに教えたことを理由に粛清されています(31章8・16節、黙示録2章14節)。
ホセアやエレミヤ、エゼキエルといった預言者たちは、ヤハウェ信徒の他神崇拝を「宗教的な不倫」と批判しました。「あなたは姦淫してはならない」という第七戒は二重の意味を持っています。自分の結婚契約も隣人の結婚契約も壊してはいけないという意味と、神を第一に礼拝していると言いながら別のことがらを第一優先順位に並べてはいけないという意味です。
【ヤハウェの怒りとモーセの行動】
「ヤハウェの鼻がイスラエルの中で熱くなった」(3節)。ヤハウェ神は烈火のごとく怒ります。熱情の神です。そして驚くべき残酷な命令をモーセに下します。「貴男はその民の頭たちの全てを取れ。そして貴男は彼らをその太陽に向かってヤハウェのために吊るせ」(4節)。十二部族の長(1章5-15節)の公開処刑です。それを受けたモーセは「士師たち」(裁判官の意)に命令を下します。「貴男ら各男性は、ペオルのバアルにつながれ続けている自分の男性たち(を)虐殺せよ」(5節)。
モーセはヤハウェの残酷かつ不当な命令を和らげ、少し合理的な内容に改変しています。ヤハウェはどの男性が行っている不倫・偶像礼拝かを問わず、一律に「民の頭の全て」を公開処刑にすべしと命じますが、モーセは士師による裁判を経た適正手続を求め、その裁判の中で個々の事情を考え合わせて罰せられるべき人を特定しようとします。何人も裁判を受ける権利を有し、個人の罪は個人に罰が及ぶべきだからです。
ヤハウェの神は預言者モーセが自らの命令の内容をかなり変えてしまったことをどのように思ったのでしょうか。またモーセの改変命令も実際に行われたのでしょうか。何も書いていません。9節は、神の裁きが「疫病」という形で表れたように読めます(詩編106編29節、コリントの信徒への手紙一10章8節)。士師たちによる処刑は実施されなかったようです。
6 そして何と、イスラエルの息子たちのうちの男性が来た。そして彼は彼の兄弟に向かってそのミディアン人女性をモーセの目に、またイスラエルの会衆すべての目に近づけた。そして彼らは会見の天幕の入口(で)泣き続ける。 7 そしてその祭司アロンの息子、エリエゼルの息子、ピネハスは見た。そして彼はその会衆の真ん中から起きた。そして彼は彼の手で槍を取った。 8 そしてイスラエルの男性の後ろにその小部屋に向かい彼は来た。そして彼は彼ら二人を刺した。イスラエルの男性を、また彼女の腹に向かってその女性を(刺した)。そしてその疫病はイスラエルの息子たちの上から止められた。 9 そしてその疫病で死んだ者たちは二万四千人となった。
【ピネハスによる殺害】
ペオルにお参りするイスラエル人男性たちが続出していたちょうど同じ時期に、イスラエル人男性(ジムリという人物。14節)がミディアン人女性(コズビという人物。15節)と結婚しようとするという出来事がありました。本日は、概略のみを紹介し、詳細を次回に譲ります。
この物語をどのように理解・評価すべきなのかは非常に難しいものです。事実だけに焦点を絞ります。シメオン部族の頭(つまり先ほどヤハウェに公開処刑にされそうになったけれども、モーセの判断により救われた頭たちの一人)であるジムリという人物が、結婚相手であるコズビというミディアン人(モアブ人聖娼ではない)をモーセに紹介し、会衆全体に紹介し、承認を求めました。モーセの妻ツィポラはミディアン人です。ジムリとコズビはこの結婚が「公認」されたと確信する一方、会衆は泣き続けます。その晩自宅で性交渉をしている最中に、夫妻はピネハスという祭司に槍で殺害されたというのです。
後味の悪い凄惨な殺人事件です。国際結婚であることが問題なのでしょうか。ミディアン人との結婚は他神礼拝につながったのでしょうか。部族の長の行動だから問題なのでしょうか。全会衆の公認を求めたから問題となったのでしょうか。ピネハスの行動は是認できるでしょうか。この時ツィポラも殺されたのでしょうか。これらの問いについて、次回掘り下げて考えたいと思います。旧約聖書は問いを突き付ける正典です。問いは教育の道具です。
【今日の小さな生き方の提案】
日本社会が契約を重んじないことは一つの問題です。聖書の神の義憤・悲憤は、契約というものを軽んじたり、薄めたりする言動に対して常に燃え上がるのだと思います。信仰においても私生活においても、契約の相手方を意識する必要があります。さて、憤りは正義や公正というものの源泉です。モーセは神の感情を共通の法に落とし込みました。どんな悪事をした人にも裁判が用意され弁明の機会がある、この悪事に対してはこの罰が相当ということが明示されている、誰も誰かの代わりに裁かれない、こういった法令が正義や公正を形作ります。こう考えるとピネハスの行為は短慮に見えます。わたしたちの身の回りにこの種の短慮が溢れています。神の怒りを濾過したモーセに倣いたいと思います。それは愛です。私憤を公義に変えていく、冷静で忍耐強い営みです。