前回までの話
パウロ、ルカ、アリスタルコたちをローマへと護送する船は、晩秋の地中海を航海している最中嵐によって難破してマルタ島に漂着しました。船に乗っていた276名/76名の人は全員救われました。この人たちは、エジプトのアレクサンドリアの人や、シリア地方の人、小アジア半島の人、ギリシャ半島の人、ローマの人(囚人を護送する部隊)などが混ざっています。ひとまとめに言えばギリシャ語を用いる人々です。彼ら・彼女たちすべてにとって未知の島であるマルタ島で何が起こったのでしょうか。三つの逸話が記されています。
1 そして救われた後、それから私たちはその島がマルタと呼ばれているということを認識した。 2 その非ギリシャ人たちもまた並外れた人間愛を私たちに示し続けた。というのも、降った雨のためまた寒さのため、焚火をたいて後、彼らは私たち全員を受け入れたからだ。
並外れた人間愛
最初の逸話はマルタ人たちの親切です(1-2節)。良いサマリア人の譬え話を彷彿とさせる逸話です。ルカは、凝り固まった差別と被差別の関係・仕組みを、この逸話で揺さぶります。彼は自分自身の差別性に向き合っています。
「非ギリシャ人たち(バルバロイ)」というギリシャ語の言葉は、ユダヤ人が非ユダヤ人のことを「異邦人」(直訳は「(他の)民族」)と呼ぶ言葉に似ています。世界は選民ユダヤ人とそれ以外の一段階下の人々で成り立っているという思い上がりです。ギリシャ人たちは自分たちのことを「美しい人々」と呼び、それ以外の人々をバルバロイと呼びました。バルバロイは、ギリシャ人から見て「バルバル」としか聞こえない言葉を用いていることに由来します。つまり「美しい文明語」であるギリシャ語を用いない野蛮な人々という意味合いがそこに込められています(英語barbarian野蛮人の語源)。
マルタ人は何語を話していたのでしょうか。ポエニ語と言います。フェニキア語(ヘブル語の姉妹言語)の一種です。文字はギリシャ文字やラテン文字を使うこともありますが、文法はヘブル語に最も近い言語です。海洋貿易民族だったフェニキア人は地中海西海岸から、イタリア半島の向かい側にも、周辺の島々にも、さらにはスペインまでフェニキア語を伝播させました。
ルカ(ギリシャのフィリピ出身)とアリスタルコ(ギリシャのテサロニケ出身)は、ポエニ語がわかりません。しかしパウロはヘブル語ができるので片言ならば理解できます。ルカにとって、マルタ人は何を言っているのか分からないバルバロイです。「認識」(1節)の外にいる人々です。その人々が「並外れた人間愛を私たちに示し続けた」(2節)ことが、著者ルカを揺さぶります。マルタ人が見ず知らずの困窮している人々を、まさにマルタ人を野蛮人と蔑むギリシャ人たちを、一所懸命助けて「自ら隣人となっている」姿に、ギリシャ人ルカは感動しています。海を泳いで疲れ切ってずぶ濡れになった「私たち」を見て、焚火を焚いて暖をとらせてくれたからです。晩秋の海辺の吹き曝しです。雨も降りました。言葉は通じなくても、温かい心は通じます。
非ギリシャ人たち(私たち以外)もまた同じ人間であるということをギリシャ人たちは学んだのです。ここにルカやアリスタルコの悔い改めがあります。
3 さてパウロが薪を一山集めた後、そして焚火の上に置いた後、蛇がその熱により出て来て後、それは彼の手を捉えた。 4 さてその非ギリシャ人たちが彼の手からその獣が吊り下げられているのを見た時に、彼らは互いに向かって言い続けた。「きっとこの人間は殺人犯である。その海から救われた彼を、刑罰は生きることを許さなかった。」 5 実にその時彼はその野獣を火の中へと振り落とした後、彼は傷で苦しまなかった。 6 さて、彼が腫れ上がるか、あるいは突然倒れるかして、死のうとしていることを、彼らは期待し続けていた。さて多くの(時)に接して彼らは待ちながら、そして彼の中に何も変わったことが起こらないのを見ながら、自身の考えを変えながら、彼らは彼が神であると言い続けた。
蛇とは
ポエニ語が何となくわかるパウロは、積極的に奉仕に巻き込まれていきます。薪集めをして、大勢の人のための焚火の火を絶やさないように働きます(3節)。パウロが集めた小枝の中に「蛇」または「蝮/毒蛇」が潜んでいました。その蛇が焚火の熱さに驚いてパウロを襲いました。なぜか「獣」(4節)、「野獣」(5節)と同じ蛇が言い換えられています。その動物の恐ろしさを言いあらわすためか、医者ルカにとって未知の生物だったからなのかでしょうか。毒を持っていると知っていれば治療にあたったことでしょう。
マルタ人たちは毒蛇であることを知っています。知っていて放置します。彼ら彼女たちには、この毒蛇に襲われる者は自分の悪事の「刑罰」(4節。ディケー=正義の女神)として処刑されるべき者であるという考え方が染みついていたのだと思います。いわば習慣法です。ローマの百人隊長によって護送されていることも段々と知られていたでしょうから、マルタ人の習慣と、状況が一致します。「パウロは殺人犯としてローマ皇帝に裁判を受ける、ローマ市民権をもったユダヤ人」と、マルタ人は理解しました。それだからパウロの死を「期待」(6節)して観察し続けたのです。パウロを含めギリシャ語を用いる他の人々にとっては全く察することのできない状況です。正義を重視するマルタ人たちは、特定の関心をもって神の裁きが下る瞬間を待つのです。
かなり長い間、焚火を囲み片言のポエニ語を使うパウロと雑談しました。しかし何も起こりません。体の異変も、言語的な障害もありません。ひそひそ話が始まります。パウロも不審に思うでしょう。「パウロさん、お体に変調はありませんか」「いえ、何も」。定期的に何回も聞かれたかもしれません。そこでマルタ人たちは自分たちの考えを変えます。悔い改め方向転換します。「殺人犯などと疑ったことは申し訳ない。むしろ彼は神の守りを受けた人間だ」(6節)。マルタ人の率直さから学ぶことは多くあります。この場面は、先ほどのギリシャ語を使うルカの悔い改めに続いて、ポエニ語を使う非ギリシャ人の悔い改めが記されています。自分が間違えていたら率直に間違えを認めて謝罪することが求められているのです。「罪人の私を赦してください」と。
聖書は「蛇」という動物を善悪両面、有益/有害両面をもった動物として描いています。知恵をもっているがゆえに誘惑することができるという性質(創世記3章)。大きな力で人々を抑圧し小さくする「蝮」にもなりうるし(ルカ3章7節)、「小よく大を制す」という逆転劇を演出する「蝮」にもなりうる性質(創世記49章17節)。殺傷力を持つ毒蛇でもありながら、人々の傷病を癒す「炎の蛇」でもあるという性質(民数記21章4-9節)。3-6節の逸話で焚火から登場した毒蛇(炎の蛇)は、疲れ切った人々を癒し、マルタ人との交流をさらに強く形作ることをもたらしました。「彼が神である」(6節)はもちろん誇張した尊敬表現です。イエスから福音宣教者たちに与えられる不思議な守りを物語は語っています(ルカ10章19節、マルコ16章18節)。
7 さてこの場所の周辺において、ポプリオス〔プブリウス〕という名前の、その島の長に属する土地が存在した。その彼が私たちを歓迎しながら三日間隣人愛でもてなした。 8 さてポプリオス〔プブリウス〕の父親が熱と下痢にとらえられながら臥せるということが生じた。その彼に向かってパウロは入って来て後、そして祈って後、両手を彼に置いて後、彼は彼を癒した。 9 このことが起こって後、そしてその島において無力を持っている他の者たちはやって来ながら、そして彼らは続々と癒された。 10 その彼らも多くの敬意で私たちを尊敬した。そして出航のときに彼らは必要な事々に向けての物々を置いた。
ポプリオス〔プブリウス〕
「ポプリオス〔プブリウス〕」という名前の「その島の長」が、丁度パウロたちが漂着した海辺周辺に所有地を持ち自宅を構えていたというのです。そしてこの人も非常に親切です。276名/76名の難破船から救助された人々を、三日間自宅に温かく迎え入れて衣食住を提供したというのですから、これも並外れた「隣人愛」です(7節)。ポプリオスはギリシャ語名でラテン語の読み方ならばプブリウスとなります。プブリウスという名前はローマ市民権を持つ人に与えられることが多かったそうです。彼は、パウロがローマ市民権を持っていることに親近感を持ったのかもしれません。そしてローマの部隊には親切をしたいという思いもあったことでしょう。広大な豪邸にギリシャ語を用いる雑多の人々は招かれ、本当に生命が救われたことを実感したと思います。
ポプリオスの父親が熱と下痢で苦しんだときに、パウロが癒したという出来事が記されています(8節)。ここに医者ルカもアリスタルコも同伴していたと推測します。著者ルカはいつも控えめで自分の「業績」をひけらかしません。パウロやアリスタルコの祈りは病人の魂に働きかけ、ルカの治療行為が病気の症状に働きかけ、結果として父親は神によって癒されたのだと思います。するとマルタ島の「無力を持っている他の者たち」が続々とポプリウスの自宅に来ます。「無力の者」≒「衰弱した者」≒「病人」です。実は体の不調だけではない、自分の無力さを実感する人やがっかりしている人、打ちのめされている人も含まれる表現です。ルカたちはこの人たちも癒します。
三日間しかポプリウスの家にはいないのですから、他のマルタ人の家に分宿して三か月をマルタ島で過ごし春を待ったのでしょう。それは人々を癒し続けるという働きをしながらの滞在です。パウロたちはここで狭い意味の伝道・布教をしていません。キプロス島と異なります(13章4-12節)。むしろマルタ人たちとの交わりと医療行為のみをしています。それは広い意味の福音宣教です。宣教師たちが病院を建てたのと似ています。こうして7-10節の逸話も、癒しと相互の尊敬という主題で一貫しています(10節)。
小さな生き方の提案
「私たち」以外の人々から揺さぶられ学ぶことが大切です。日本人以外、クリスチャン以外、教会以外、家族以外、クラス以外、職場以外、地域以外等々、さまざまな「私たち以外の人々」が存在します。無いものにしてはいけません。境界線を自由に行き来して、同じ人間として尊敬し合い学び合い助け合い仕え合う場を、教会が提供したいと願います。それが自分と周りの人々を癒す行為です。福音宣教はそのような形で進められるものです。