本日はダビデの妻ミカルという人物の人生を辿りたいと思います。彼女はイスラエルの初代王「サウルの娘」(29節)です。ベニヤミン部族のキシュという男性の息子がサウルです。サウルの妻はアヒノアムと言い、サウルとアヒノアムの間に三人の息子と二人の娘がいました。下の娘がミカルです(サムエル記上14章49-50節)。ちなみにミカルの長兄ヨナタンは、ダビデと大親友です。
ユダ部族のベツレヘム出身の羊飼いダビデを将軍として任用したのはサウル王です(同16-17章)。しかしサウルは次第にダビデを憎みます。自分の座を脅かし始めたからです。そこでサウルは敵軍との戦闘の最中にダビデが死ぬことを企みました(同18章)。後日、ダビデが自分の部下ウリヤにしたことと同じです(サムエル記下11章)。あえて疎ましい家臣を激戦地に放り込むわけです。激戦地に放り込む口実のために娘ミカルが悪用されます。「自分の婿になりたいのならばペリシテ軍を倒してこい」とサウル王はダビデ将軍に言いました。しかもサウルは、ミカルがダビデを愛していることを知っていて、この陰謀を実行しました。娘がすぐに夫を亡くしても構わないという姿勢です。
ミカルから見ればひどい話です。母アヒノアムがこの悪だくみを知っていてもサウルを止めることはできなかったことでしょう。女性の地位が低かったからです。天皇制をいまだに存置して皇族の人権を軽んじ、その情報を消費して愉しんでいるわたしたちには、古代人をあざ笑うことはできません。ダビデはこの陰謀を跳ね返し最強の敵ペリシテ軍を撃退してしまいます。結果、ダビデとミカルは結婚します。この夫婦は仲良しだったことでしょう。兄ヨナタン家族も合流した交わりがあったと推測します。
サウルは家臣全員にダビデ殺害を命じます。そこでミカルは自宅の窓からダビデを吊り下ろして逃がします。新約聖書でサウル/パウロが窓から吊り下ろされて逃げた行為は、旧約聖書のサウルの故事の裏返しです。ともかく驚くべき力を出してミカルはダビデの命を救いました。ダビデを愛していたからできたことです。寝床には偶像神テラフィムに山羊の毛をかぶせ着物を着せて偽装します。先祖ラケルが父ラバンのテラフィムを隠して父に報復した逸話を思い起こさせます(創世記31章)。ミカルはベニヤミン部族の母「ラケルの娘」なのです。ミカルの勇敢な行動は、過去と未来をつなぎます。
ダビデとミカルはこうして生き別れとなります。サウル王から指名手配となったダビデはアヒノアムという女性と結婚しました。次にアビガイルという女性とも結婚した時に、サウル王はミカルをパルティ(またはパルティエル)という男性と結婚させます(同25章44節)。おそらくミカルはずっと縁談を断り続けていたのです。ダビデが別の女性二人と結婚するまでは。ミカルは、命の恩人でもある自分との結婚をダビデが軽んじていると知り、ダビデに失望します。翻ったミカルは再婚相手のパルティ(愛情深い男性)とも幸せな家庭を築きました。この決然とした割り切りの良さがミカルの優れた点です。
その後サウル王が戦死し、ダビデ家とサウル家の南北両王朝の戦争が七年半続きます。サウル家の内部抗争という「男たちの都合」によって、再びミカルに悲劇が訪れます。サウル家の重臣アブネルがダビデの側に裏切ります。ダビデは裏切りの代価として、ミカルの身柄を要求します。アブネルは強引にパルティエルとミカルを離婚させ、ミカルをダビデのもとに送るのです(サムエル記下3章6節以下)。その上でダビデは裏切ったアブネルを暗殺し、サウル王朝にとどめをさします。ミカルは南王国の首都ヘブロンにあるダビデの家にきました。最初の結婚の時と状況は様変わりしています。父サウル王と長兄ヨナタンは死んでいます。統一王国の王の娘ではありません。南王国の王の妻の一人です。ダビデはアヒノアムとアビガイルだけではなく、マアカ、ハギト、アビタル、エグラという四人の女性をもヘブロンで妻にしています(同3章2-5節)。ミカルは七番目の妻です。もはやダビデを愛することは難しい状況です。ダビデは、サウル王朝の血を引くミカルを南北統一のために利用したのです。
ミカルがヘブロンに来てすぐに、ダビデはエルサレムへの遷都を決行します。そして「ヤハウェの契約の箱」をエルサレムに安置することで統一王国の首都として権威付けをしようとします。本日の場面は、その出来事を記しています。並行記事はサムエル記下6章です。
25 そしてダビデとイスラエルの長老たちと千人の部隊長たちは、ヤハウェの契約の箱をオベド・エドムの家から喜びでもって上らせるために行く者たちとなった。 26 そして神がヤハウェの契約の箱を担っているレビ人を助ける時に次のようなことが起こった。すなわち、彼らは七頭の雄牛と七頭の雄羊を奉献した。 27 そしてダビデは亜麻布の長衣にくるまれ続けている。そして箱を担っているレビ人全てとケナニヤ、指導者、音楽家、歌い手たち。そしてダビデの上に亜麻のエフォド。 28 全イスラエルはヤハウェの契約の箱を上らせ続けている、叫びでもって、また角笛の音でもって、またラッパでもって、またシンバルでもって。弦楽器と竪琴でもって奏しながら。 29 そしてヤハウェの契約の箱がダビデの町まで来るということが起こった。そしてミカル、サウルの娘はその窓越しに見下ろし、彼女は踊り続けまた戯れ続けている王ダビデを見、彼女は彼を(または「それのために」)軽蔑した、彼女の心の中で。
サムエル記下6章20-23節には、裸で踊り回って自宅に帰って来たダビデをミカルが直接批判する場面があります。それに対するダビデの反論・ミカルへの裁きの宣告があり、その結果ミカルが子を持つことのないまま死んだかのように描かれています。ところが、ミカルが子どもを授からないまま死んだという事実はありません。ダビデはミカルを疎んじ王宮から追い出したようです。そしてミカルはアドリエルという男性と結婚し、五人の息子を授かっています(同21章8節)。ミカルの三度目の結婚もまた幸せなものだったのでしょう。彼女は常に顔を上げて堂々と生きています。
ところでダビデはミカルの五人の息子をギブオン人たちの手によって殺しています。ヨナタンの息子と同じくサウルの孫にあたるからです。将来ダビデ王朝を脅かすかもしれません。統一王国樹立のためにはサウル王家の血を利用し、ダビデ王朝が安定した後はサウル王家の血を理由に殺す。これが天才的軍人である政略家ダビデのやり方です。息子たちを奪われ「ラマで嘆く声」をミカルも発します。ベニヤミン部族に伝わる嘆きの伝統です。
さて、歴代誌はミカルに対する裁き(不妊予告)を記しません。この意味で歴代誌はミカルに共感的です。実際サウル王朝や北王国を無視する歴代誌にとって、サウルの娘ミカルを紹介することそのものが異例の出来事です。一般に歴代誌はダビデ王朝びいきです。だからこそダビデがミカルになした酷い言動、事実と異なるダビデの発言をすべて歴代誌は省いているとも言えます。ダビデに対する弁護のためです。
しかし、それと同時にサムエル記で悪しざまに描かれているミカルを、歴代誌は気品のある人物として描き、彼女を正しく記念してもいます。二度離婚させられても、全ての息子たちを殺されてもなお前を向いて生き抜いた彼女の全てを知っているからでしょう。歴代誌は、その他のミカルの人生を一切省き、たった一つの小さな逸話に絞った紹介をすることで、逆に鮮やかにミカルの人となりを紹介しているのです。そしてサムエル記と表現を変えることによってミカルを評価しています。細かく見てみましょう。
「そしてミカル、サウルの娘はその窓越しに見下ろし、彼女は踊り続けまた戯れ続けている王ダビデを見、彼女は彼を(または「それのために」)軽蔑した、彼女の心の中で。」(29節)。
「その窓」と冠詞が付いていることが最初の注目です。もちろん引っ越し続きだったので自宅は異なりますが、ここで言う「窓」は冠詞によって特定されています。ミカルがダビデの生命・全存在を助け出した、「その窓」です。ミカルは、自分がかつて心から愛し命がけで救った男性が、どのような人物であったのかを見ます。この「見る」は認識するという意味合いです。ダビデは戯れ続けている人物です。歴代誌はサムエル記と言葉を変えています。もっとふざけて遊ぶという含意の動詞が「戯れる」です。ダビデは権力闘争というゲームに興じ続けている人物です。そのためにヤハウェの契約の箱も利用するし、祭服を着て宗教的権威も利用するし、サウル王家の血も利用します。このような打算家であるダビデを窓から吊り下ろして救い出したことで、果たして自分の人生が豊かになったのかどうかをミカルは自問します。
「彼を」か「その(男性名詞)ために」か、翻訳の可能性は分かれます。「彼を」であればダビデを軽蔑するということです。その場合、アッシリア帝国のような超大国を軽蔑するという含みになります。本日の箇所以外で唯一同じ前置詞(レ)が使われている用例だからです(王下19章21節)。一方「その窓(男性名詞)のために」ということであれば、ミカルは何を軽蔑したかが曖昧になります。対象がないからです。だからミカルがダビデになした救済行為なども軽蔑の対象となりえます。本日はどちらも含めていると解します。
さらにギリシャ語訳歴代誌は「心」を「精神/魂/全存在(プシュケー)」としています。元来のヘブライ語においても全存在(ネフェシュ)という言葉だった可能性が高いと言えます。口に出さなかったという意味だけではなく、魂を注ぎ出すような行動も意味されています。歴代誌版ミカルは自分の人生全てにおいて(過去・現在・未来を含む)、何かを軽蔑しています。それはダビデという一人の男性に対する軽蔑というよりも、もっと深く広い内容を持っています。つまり、「王」「王国」「国家」「権力ゲーム」「戦争」「内戦」「女性差別」「家父長制」「力による支配」などなど、サウル王やダビデ王との関係において自分が経験したすべての嫌なことは、ミカルの軽蔑の対象です。
多くの苦労を経てもミカルは前を向いて生き抜きました。ダビデの死は報告されていますが(列王記上2章)ミカルの死は記載がなく詳細不明です。彼女の人生を記念する者の中にミカルはいつでもよみがえります。その姿は常に毅然として穏やかに胸を張って前を向いて歩いている姿です。
今日の小さな生き方の提案は、ダビデに倣わずミカルに倣うことです。わたしたちはどのような不条理の苦労があっても、前を向いて歩き続けたいと思います。復活の主イエス・キリストはそのような一人ひとりと共に歩んでくださいます。
ミカルが軽蔑していることがらをわたしたちも批判し、ミカルがしたかったであろうことをわたしたちが実現していきたいと願います。選挙は自治にとって大切なものです。王制よりも民主政がましです。しかし国家である限り限界があります。民主国家であっても個人の幸せを踏みにじることがあります。教会の交わりは国家を超えて誰とでも結ばれるものです。国家に踏みにじられたミカルが、そしてまた誰とでも共に生きることができたミカルが、今ここに居たら世界中の人々と交わりをもつことができる礼拝を喜んだことでしょう。