メシアとは誰か ルカによる福音書20章41-44節 2018年7月1日礼拝説教

メシア(マシアッハ)という言葉はヘブライ語で「救い主」という意味です。それをギリシャ語に訳すとキリスト(クリストス)という言葉になります。キリスト教の語源は、このクリストスにあります。キリスト教は、「イエスをキリストと信じている宗教」です。メシアとは誰か。ナザレのイエスである。これがわたしたちの信仰です。

今日の聖書箇所は、「どうして」(ギリシャ語ポース)という言葉が繰り返されています(41・44節)。このポースの第一の意味は、howであってwhyではありません。「どのような仕方で」という意味であって、「なぜ」という意味ではないのです。聖書研究の基礎ですが、繰り返されている言葉は鍵語です。メシアが誰であるのかということだけではなく、「どのようにしてダビデの子がメシアであるのか」を考えなくてはいけません。

ルカ福音書はイエスというメシアがダビデの子/子孫であることを記しています。イエスの系図の中にダビデは先祖として入っています(3章31節)。だから、今日の箇所も、「メシアはダビデの子孫ではない」と言いたいのではないでしょう。むしろ、「どのような仕方でダビデの子孫であるイエスがメシアとなっていったのか」ということを言いたいのです。このことを考えていくと、当時の人々が思い描いていた理想のメシア像が砕かれていきます。壊されて、新たなメシア像が浮かび上がってきます。

メシアとは誰か。ナザレのイエスです。ではどのような仕方でイエスはメシアとなったのか。そして、どのような救いをわたしたちにもたらすメシアなのか。真の問いはここにあります。正しい問い立てには、常に有意義な回答が与えられるものです。イエスのメシアへの道は、わたしたちの救いへの道と、軌を一にします。二つは鉄道レールの右左なのです。

初めに旧約聖書の引用について説明をいたします。42節でイエスが引用しているのは詩編110編1節です。福音書記者はギリシャ語訳の旧約聖書から忠実に引用しています。日本語に直すと重訳となるので原文から離れてしまいます。ヘブライ語旧約聖書本文は、次のように書いてあります。ただし私訳です。

ダビデに属する賛歌。

わたしの主人へのヤハウェの託宣。「わたしの右にあなたは座りなさい。わたしが、あなたの敵ども(を)あなたの両脚のための足台(として)置くまで。」

この詩は、ダビデ王朝の歴代の王たちが即位する際、その即位式の儀礼の中で王を讃える歌として歌われたと言われています。ですから、元々はダビデが作った詩ではなく、ダビデ王朝に仕える祭司たちが作った詩です。この意味で「ダビデに属する賛歌」、ダビデ王朝へのほめたたえです。

「わたしの主人」はダビデの子孫であり、今王になろうとしている人物を指します。祭司の主人です。託宣は神ヤハウェの発言です。「わたしの右に座れ」というのは、神から新王への命令です。「右」は神の直ぐ下の地位であり、神の権威のもと権力を授けられた人を意味します。神は新王に、軍事的支配を約束します。「敵を足台にする」という図は、いささか残酷な場面です。これは、戦争によって敵国の王の首を切り、その首を足で踏むという場面の描写です。軍事的支配を象徴します。しかもそれが両脚の足台なのですから、複数の敵たちの首が想定されています。

ダビデとその子孫たちである王たちの支配は、戦争による支配です。それをヤハウェという神の名前において強化しているのです。詩編110編1節の元々の意味は以上のようなものです。この聖句をヘブライ語で素直に読むならば、ダビデの子孫である軍人が即位することを期待することは正当です。イエス時代の人々が、ローマ帝国の軍事支配をひっくり返し、皇帝の首を足台にするような「ダビデの子」・軍事的英雄を待ち望むことは自然の流れです。彼ら彼女たちは、英雄の即位式で詩編110編を歌いたかったことでしょう。

イエスはこの常識に果敢に挑んでいきます。彼の論拠は興味深いものです。元々の意味ではなく、自分の生きている時代の状況から大胆に解釈をしていくからです。一つの事情が新たに生まれていました。

それは、詩編全体の編纂者がダビデ個人であるという言い伝えが、普及し固定化していたという事情です。150編ある詩編は5部に分かれています。新共同訳聖書では残念ながら分かりにくくなりましたが、以前の口語訳聖書では、1-41編までが「第一巻」と明記していました。5という数字に意味があります。詩編5部作は「ダビデ五書」という位置づけになったのです。モーセとダビデを対抗させているのです。シナイ山とシオン山が並び立つという感じです。ダビデやエルサレム神殿の祭儀を権威付けたい人々が、ダビデを詩編全体の編纂者とみなし、それが民族主義的なダビデ人気によって固定化されました。

「ダビデの詩」という翻訳の伝統は、このダビデ著者説に後押しされたものです。あたかもダビデが書いたかのように思わされますが(もちろんある部分はダビデが書いたのでしょうけれども。特に51篇)、多くの詩はダビデやダビデ王家に献呈されたものです。ヘブライ語では、単に「ダビデへの」「ダビデに属する」と書かれています。

ダビデ著者説はダビデの子・軍事的英雄への待望を煽りました。18章38節に登場した盲人は「ダビデの子イエスよ」と呼びかけています。またエルサレム入城の場面でも、群衆は「われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マルコ福音書11章10節)と叫んでいます。この人々はダビデの子孫である軍人をメシアとして待ち望んでいたのでしょう。

しかし、皮肉な矛盾が起こってしまいました。ダビデが書いたとすると「わたしの主人」は、ダビデではなくなってしまうという矛盾です。「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主はわたしの主にお告げになった』」(42節)。

そもそもは何も問題はありませんでした。ダビデ王家の家臣が、新王を「わたしの主=メシア」と呼んでいるだけのことだったからです。ダビデを著者/編集者とみなすから起こった矛盾です。「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(44節)。イエスは批判しています。あの軍人・政治家ダビデ。政敵を葬り去って王位に上り詰め、王位に就いてからも身勝手な理由で部下を粛清したダビデ。彼をモーセに並び立つ宗教家に押し上げて、民族主義を煽る人々をイエスは批判しています。そのような仕方で、メシアがダビデの子であると熱狂的に信じてはいけないのです。なぜなら真のメシアは、ダビデのような政略家ではないからです。敵を処刑する側ではなく、敵を愛し敵のためにあえて処刑される側に立つ方だからです。

詩編110篇1節は、使徒言行録にも一度引用されています。ご存知のとおり使徒言行録はルカ福音書の続編であり、両者は一体のものと考えなくてはいけません。使徒言行録2章34-35節(216頁)を、32節からの文脈で読むと、ここでは「神の右に座る」ということの意味が説明されています。それはイエスが神によってよみがえらされたという意味です。

どのような仕方で、ナザレのイエスはダビデの子孫でありながらメシアとなったのかについて、著者ルカと、ルカの属する教会は福音書と使徒言行録を用いて説明しています。それは復活です。復活によってイエスはメシアとされたのです。しかしもちろん、復活には前提があります。誰も死ななければよみがえることはできません。また義人が殺されなければ、神によってよみがえらされることはありえません。つまり、十字架と復活です。十字架と復活が一体のものとして、メシアの即位です。

まず先にバプテスマのヨハネの首が、領主ヘロデの足台とされました(8章9説)。ヨハネの処刑は、イエスの処刑の前触れです。ルカ福音書において両者は親戚という近さにあります(1章)。ここからメシア像の裏返しが始まります。ダビデの出世は、ペリシテ兵ゴリアトの首を切り落とすところから始まったのでした(サムエル記上17章51節)。ダビデは私兵と共に略奪をしながら、時にペリシテ人を利用したりしながら、生き延びていきます。そして最終的にエブスという町を私兵によって攻め落とし、統一王国の首都エルサレムとします。

それに対してイエスは、失業者、病人、徴税人、娼婦、子ども、「罪人」と呼ばれていた者たちの隣人となります。そして、町々の支援者たちに助けられて、食卓運動を展開しながらエルサレムに向かいます。イエスは軍馬ではなく、子ろばに乗ってエルサレムに入りました。そこで処刑されるためです。

イエスは社会の片隅に追いやられた人々を弁護し、追いやる人々を批判しました。直接の処刑の原因は、イエスに批判された権力者たちの力の濫用にあります。差別や力の濫用は「悪としての罪」です。もう一つ、間接的な原因も見過ごせません。弟子たちも含む人々の幻滅です。彼らもメシアを強い英雄だと誤解し、失望の結果裏切りました。また保身のためにイエスを見捨てました。彼らは死刑囚イエスと連帯できない。誤解や保身は「弱さとしての罪」です。

すべての人は「悪・弱さ」の奴隷です。ダビデ王のようなメシアに憧れることは、罪の奴隷であることの証です。わたしたちは罪人としてダビデの子です。ダビデの悪や弱さを是認することは、罪からの解放を促しません。それに対して、イエスをメシアと信じることは、わたしたちを罪から贖い出し、自由にし、わたしたちを救います。

イエスはユダヤ民族の政治的解放という目的のためではなく、すべての人が解放されることのために殺されました。ダビデの子孫がダビデのように生きないことで、全人類の罪責を背負って生きかつ死んだのです。ただ一度、神の子がすべての罪を背負って殺されることで、誰も罪の報酬を払わなくて良くなりました。罪の支払うべき報酬は死です。イエスは殺されつつあるときに、殺す者たちに向かって、「あなたの罪の肩代わりとしてわたしは死ぬのだ」と言うのです。すべての人は義人イエスの十字架を見て、自分の罪を知ります。悪い権力者たち、弱い弟子たち・群衆に、自分のもつ差別や力の濫用、誤解、保身を見ます。そして罪から救われたいという本心に立ち返るのです。

この本心が、死刑囚イエスの復活を信じる原動力になります。復活を信じる人は、イエスが身代わりになることができる神の子だと知ります。全世界分の死の身代わりになることができるメシアは、全世界分の命をもつ救い主であると知ります。自分の罪が殺したイエスから、正にこのイエスからのみ、わたしたちは自分の命を配られるのです。こうしてわたしたちは、罪があるままに、罪から救われ、罪にあぐらをかかずに、永遠の命を生きるのです。

今日の小さな生き方の提案は、このような仕方でメシアとなったダビデの子であるイエスの救いを受け入れるということです。イエスの十字架をよく見て自分の罪を知り、キリストの復活を信じて自分の命を輝かせましょう。あなたの罪は赦されている。赦された者としてイエスに倣って神・人を愛しましょう。