【はじめに】
本日の箇所はミディアン人との戦争の続きです。そもそもこの戦争は、大祭司エルアザルの息子ピネハスが引き起こした殺人事件(イスラエル人ジムリとミディアン人コズビ夫妻を槍で刺し殺した)をきっかけとして始まったものでした(25章)。戦争のどさくさにピネハスは、民族主義に駆られて、アラム人預言者ビルアムも殺します(31章8節)。こうしてイスラエル軍は宿営に凱旋し、モーセとエルアザルは宿営の外で出迎えます(13節)。この後、モーセはとても意外な行動に出ます。激怒です。モーセの怒りについて思いを巡らしたいと思います。
14 そしてモーセは、その戦闘の軍から来つつある軍隊の任じられている者たち、その諸千人隊の隊長たち、その諸百人隊の隊長たちについて激怒した。 15 そしてモーセは彼らに向かって言った。雌の全てを貴男らは生かした。 16 見よ、彼女たちはイスラエルの息子たちに属するものとなった、ビルアムの出来事〔ダバル〕において、ヤハウェにおける不誠実を置くために、ペオルの出来事〔ダバル〕に関して。そしてその疫病はヤハウェの会衆において生じた。 17 そして今、貴男らはその乳児の中の雄の全てを虐殺せよ。また、雄(と)寝るために男性(を)知っている女性の全て(を)貴男らは虐殺せよ。 18 また、雄(と)寝ることを知らなかった、その女性たちの中のその乳児の全て(を)、貴男らは貴男らのために生かせ。 19 そして貴男らは七日間その宿営の外に野営せよ。生命を虐殺する者の全てと刺し貫かれた者に触れる者の全ては、その三日目において、またその七日目において、自身を浄めよ。貴男らと貴男らの捕虜は。 20 そして服の全てと革の道具の全てと山羊たちの製品の全てと木の道具の全て、貴男らは自身を浄めよ。 21 そしてその祭司エルアザルは、その戦闘から来つつあるその軍の男性たちに言った。これは、ヤハウェがモーセに命じた律法の掟。 22 確かにその金を、またその銀を、その青銅を、その鉄を、その錫を、その鉛を、 23 その火の中で来る物の全て(を)、貴男らはその火の中で渡らせるように。そうすればそれは清くなる。確かに清めの水々の中でそれは自身を浄める。そしてその火の中で来ない物の全て(を)、貴男らはその水々の中で渡らせるように。 24 そして貴男らは貴男らの服(を)その七日目において洗うように。そうすれば貴男らは清くなる。そしてその後に貴男らはその宿営に向かって来るように。
【誤った激怒】
イスラエルの軍隊は、ミディアン人の女性たちと乳児たちを捕虜にし、家畜や財産、富の全てを略奪し、ミディアン人の居住地域を全て焼き払いました(9-10節)。多くの捕虜と戦利品を携えて凱旋した軍隊に向かってモーセが怒りを発します(16-18節)。とても激しい怒りに、唐突さを感じます。直後に続く「浄め」に関するモーセの発言はとても実務的な内容です(19-20節)。モーセに呼応した大祭司エルアザルの補足的指示にも合致しています(21-24節)。血や死体に対する禁忌があるのでしょう。これらのある程度合理的な発言の連続に比べると、モーセの激怒(16-18節)の不合理さが目立っています。モーセの激怒は何に向かっていたのでしょうか。
モーセの怒りの基礎には、女性に対する憎悪や差別があります。misogynyとも言います。15節「雌の全てを貴男らは生かした」と、18節「その女性たちの中のその乳児の全て(を)、貴男らは貴男らのために生かせ」は、対応しています。4歳以上の女性たちは殺されなければならないとモーセは考えています。また、7節で全ての雄は殺されたはずなのに、乳児である3歳以下の雄が生存していたことも、モーセを怒らせています。「そして今、貴男らはその乳児の中の雄の全てを虐殺せよ」(17節)。モーセにとって、雄は雌よりも価値が高いのです。敵である雄は皆殺しにすべきであり、雌はいささかの庇護がありうる、なぜならば雌は雄よりも劣っているからです。そしてまた雌には別様の利用がありうる、すなわち子孫を産ませることができるとも、モーセは考えています。
さらにモーセは女性の処女性を問題にしています。「雄(と)寝るために男性(を)知っている女性の全て(を)貴男らは虐殺せよ。また、雄(と)寝ることを知らなかった、その女性たちの中のその乳児の全て(を)、貴男らは貴男らのために生かせ。」(17-18節)。処女であれば清い=価値が高い、処女でなければ清くない=価値が低いという考え方にも、差別があります。価値が高い方を、自己のために利用しようという意見は、何重にも倒錯しています。つまるところモーセの問題は、「彼女たちはイスラエルの息子たちに属するもの」(16節)という根本的な構えなのだと思います。「イスラエル人男性はミディアン人女性を所有する」とは、民族主義もあいまって、何と酷い考えなのでしょう。
現代においてどうでしょうか。ここに何人を入れても、何性を入れても、全く許容できない差別発言そのものです。モーセの激怒に対して、そしてすべての差別者の場当たり的な激怒に対して、「あなたは怒るが、それは正しいことか」(ヨナ書4章4・9節)と、わたしたちは反問しなくてはいけません。
【正しい憤り】
モーセの激怒した内容について、一つだけ弁護できることがあるようにも思います。それはビルアムをイスラエル軍が殺してしまったことに対する憤りです。モーセが取り乱しているからでしょうか、16節は原文の理解が難しい箇所です。私訳は語順通りです。「見よ、彼女たちはイスラエルの息子たちに属するものとなった、①ビルアムの出来事〔ダバル〕において、②ヤハウェへの不実を置くために、③ペオルの出来事〔ダバル〕に関して。」
主語は明確にミディアン人女性たちであり、「ペオルの事件」(新共同訳)ではありません。そして「唆す」(新共同訳)という動詞はありません。①「ビルアムの出来事〔ダバル〕」を「ビルアムの言葉〔ダバル〕」と訳する時に、意訳として「唆す」がありえます。しかし、③「ペオルの出来事〔ダバル〕」を「ペオルの言葉〔ダバル〕」とは訳せない以上、この近い文脈での訳し分けは難しいでしょう。②「ヤハウェへの不実を置くために」も、理解困難な表現です。古代以来、この部分の読み替えの提案が種々なされていますが、今一つ説得的ではありません。②③を外して、主文「彼女たちは…となった」の後に①だけを繋げると理解しやすくなります。②③は取り乱したモーセの非論理的付け加えとみなすのです。②③は疫病の被害と繋げた方が良いでしょう。
「22-24章のビルアムの出来事において、ミディアン人女性たちはイスラエル人男性たちに属するものとなった」。22章4節を呼んだ際に取り上げませんでしたが、ミディアン人の長老たち(31章の五人の王たち)もイスラエルへの呪いを依頼していたのでした。しかし何の断りもなくミディアン人たちは物語から姿を消します。ビルアムとモアブ王バラクが喧嘩別れした時に、ミディアン人はビルアムについてイスラエルに合流したのではないでしょうか。ジムリとコズビの結婚は、その流れで生じた出来事ではなかったかと推測します。
モーセの憤りはヤハウェに向かっています。ピネハスやエルアザルに肩入れして、ミディアン人への戦争と虐殺を命じたのはヤハウェです(25章16-18節)。モーセとしては間に無理矢理人口調査を行なうなどして(26章)、この戦争を回避しようとしたのです。しかしヤハウェの意思は固く戦争をせざるを得ませんでした(2節)。その結果ピネハスの思い通りに、良き隣人である預言者ビルアムをも死なせてしまったことに、言いようのない怒りが支離滅裂な形で、モーセの口をついて出ます。中間管理職の人が、上司から意に反する業務を命ぜられて、否応なく従う時の嫌な気持ちに似ています。そういった場合に部下に八つ当たりする中間管理職もいるのではないでしょうか。
【18節と19節の間】
さてモーセの不当な怒りと正当な憤りがないまぜになった諸々の命令を、部下は執行したのでしょうか。千人隊長や百人隊長がミディアン人の男性乳児や、4歳以上の女性全員を虐殺したという報告記事はありません。「聖戦でもない(開戦時に聖絶が命じられていない)のに、この事後の虐殺命令はあまりにも行き過ぎだ」と彼らは考え、立ち止まりました。この命令は、モーセの妻ツィポラをも殺害しなくてはならない内容です。冷静になってみれば、モーセも考えを翻すはずです。
18節と19節の間には比較的長い時間があったと推測します。
そこでモーセも我に返ります。七日間宿営に入らないように、戦争の際の汚れ(血や死体への接触により生じた宗教的な意味での汚れ)を浄めるための儀式を行うようにと、千人隊長・百人隊長に命じています。もしこの間に捕虜を殺した場合には、さらに宿営に入ることはできなくなります。捕虜に対しても浄めの儀式を命じている趣旨は、ミディアン人たちをイスラエルの中に受け入れるという意味でしょう。思い起こせば生まれたばかりのモーセも、男の赤ん坊であるという理由で殺されかけたのでした(出1-2章)。ファラオと同じ類の虐殺命令を出した自らをモーセは恥じて悔い改めます。
祭司エルアザルはモーセが冷静になった時を見計らって、略奪品の清めの儀式というまったく事務的な内容を指示します(21-24節)。金属の類は火で精錬し、それ以外のものは「清めの水々」(23節)の中をくぐらせるというのです。これらの浄めの儀式は19章と対応しています。「清めの水々」の中には「赤毛の雌牛」を燃やした灰が入っています。
【今日の小さな生き方の提案】
モーセに親近感を覚えるものです。わたしたちが日常生活でしばしばイライラし、しばしばうまく怒りを表現できないからです。憤りなしには社会正義は実現しませんから、怒りは一概に悪い感情ではありません。大切なのは、正当な憤りか、不当な怒りかの仕分けです。仕分けるためには、時間が必要です。いわゆる「6秒ルール」だけでも時間は十分ではありません。6秒後に八つ当たりが始まる場合もあるのです。出来事が起こってからでは取り返しがつきませんから、今から学び日々実践し続けなくては、怒りを制御することは不可能です。差別に仕向けられる仕組みを変えていきましょう。適切な意見表明の方法について実践しましょう。「わたしの怒りは正しいか」という聖句を胸に刻んで、自らの言動を整えましょう。間違えても人生は終わりません。失敗事例を振り返り同じ怒りをしなければ良いのです。モーセのように。
