11 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。「いつまでこの民は私を軽んじるのか。そしていつまで彼らは私を信じないのか。彼〔民〕の真ん中で私がした全ての諸々のしるしで(も)。 12 私は彼らを疫病で打つ。そして私は彼らに相続させない。そして私は貴男を彼らよりも大きくかつ強い国にする。」
ヤハウェはイスラエルの民の「総会」に介入します。ヨシュアとカレブを石打の刑に処そうとした、その時、「ヤハウェの栄光」が現れたのです(10節)。「栄光(カボード)」には「尊重」という語義がもともとあります。ヤハウェは重んじられるべき神です。それだから、自分が軽んじられていると判断できる場面で介入します。「いつまでこの民は私を軽んじるのか」(11節)。このことは日常の人間関係にも当てはまります。全ての人は尊重されるべきなので、自らが軽んじられる場所にいるべきではありません。また一人でも軽んじられるような環境に対して憤るべきなのです。
ヤハウェは怒りのあまり、出エジプトの経緯を全て打ち捨てて新しい提案をします。イスラエルの民をモーセ一人除いて疫病で殺すというのです。そしてモーセのみを「彼らよりも大きくかつ強い国にする」というのです(12節)。いささか唐突であり、怒りのあまり神が混乱しているようにも思います。個人モーセが国になるとはどのような事態でしょうか。ツィポラは除外されるのでしょうか。クシュ人の妻はどうなるのでしょうか。アロンやミリアム、ヨシュアやカレブまでもが殺されるのは不当ではないでしょうか。ギリシャ語訳とサマリア五書は一致して「貴男と貴男の父の家とを」と付け加えて、意味を通りやすくしようとしています。それほどに強い怒りが表出されています。
13 そしてモーセはヤハウェに向かって言った。「そしてエジプトは聞いた。貴男の力によってこの民を彼〔エジプト〕の真ん中より貴男が上らせた、と。 14 そして彼らはこの地の住民に向かって言うのだ。彼らはこの民の真ん中で貴男が、目と目で見合ったヤハウェであるということを聞いた。貴男はヤハウェ。そして貴男の雲は彼らの上に立ち続けている。そして雲の柱において昼、貴男は彼らの面前を歩き続けている。そして火の柱において夜(貴男は彼らの面前を歩き続けている)。
怒り狂う神ヤハウェに対してモーセは冷静です。神の怒りを鎮めようとして「ご提案はありがたいけれども、エジプトから見たらどうなのでしょうか」と神の視点を広げようとします。その際に、神が用いた「真ん中」という言葉をあえて用いて、「真ん中、真ん中とおっしゃいますが、エジプトの真ん中からイスラエルを救い出したのはあなたでしたよね」と切り返します。
エジプトの真ん中で、イスラエルは「無い存在」でした。ファラオの奴隷=礼拝者でした。軽蔑され無視されていました。そのイスラエルをヤハウェ(「彼は生じさせる」の意)という名前を持つ神が自由にし、彼ら彼女たちをヤハウェの礼拝者としたのです。無い者から有る者へと救い出したのです。「貴男はヤハウェ」という信仰告白が、14節で二回もなされています。モーセは、出エジプトの神は神の名のとおりに行動するべきと考えています。「彼は生じさせる」という名前を持つ方は、これからも礼拝の対象として民の真ん中に宿り、民の先頭を導き続けるべきなのです。エジプトでさえ/こそが、この出エジプトという救いを知っているのですから。
15 そして貴男が一人の男性のようにこの民を死なせるならば、貴男の噂を聞くその国々は言うのだ。曰く、 16 『ヤハウェはこの民を彼が彼らに誓った地へと来させることができなかったことにより、彼は彼らをその荒野で虐殺するのだ』と。 17 そして今、どうか私の主人の力が大きくなるように。貴男が語ったのと同様に。曰く、 18 『ヤハウェは、怒りが遅い。そして信実が多い。咎/罰と背反(を)担い続けている。そして彼は決して放免しない。父たちの咎/罰(を)息子たちの上に、第三の人々の上に、また第四の人々の上に報いながら。』 19 どうか貴男がこの民の咎/罰を赦すように、貴男の信実の大きさに応じて。そしてエジプトより今までこの民を担ったのと同様に。」
次にモーセはエジプト以外の国々に悪い噂が広がるという可能性をも示します(16節)。出エジプトの神は、「約束の地」に入れさせることができない神、自分の言った言葉すら完遂できない神、「仕事のできない男」だと噂されかねませんよ、と(17節)。「世間体を気にしなさい」という論法には、やや抵抗を感じますが、モーセも必死の説得をしているのでしょう。モーセの説得の良質の部分を現代風にまとめれば、「自分の無能さを部下のせいにして部下を切る上司のような者に、神がなって良いのか」ということでしょう。モーセはかなり神に辛辣です。神との関係や人間関係において参考になります。率直な言葉を言い合える人間を、一人でも持つことは良いことです。
続けてモーセは、ヤハウェ自身の自己紹介を引用しながら(出エジプト記34章6-7節)、ヤハウェはイスラエルを赦すべきだと主張します(18-19節)。サマリア五書においては、18節「そして彼は決して放免しない」は、全く正反対の文意です。一文字異なるだけなのですが、「そして彼は必ず彼のために放免する」と記されています。出エジプト記34章においても同じです。その方が論旨明快、一直線の主張となります。神は徹底的に赦す神である、というのです。自分に対して不実であり、背反し、自分を否む者に対しても、神自身は誠実であり続ける。これこそ聖書が啓示する神、イエス・キリストにおいて顕された神です。
神は民の咎と罰を担い続ける方です。少なくともモーセはそのように信じています。そこに神の「信実の大きさ」(19節)があります。モーセ自身も殺人の咎を犯しました。「貴男は殺すはずがない」(第六戒。出エジプト記20章13節)という、神の言葉はモーセ自身にとって大きな衝撃です。迫害者パウロが使徒として用いられたことと一脈通じます。殺人という咎を犯した者は、死刑という罰によって報復されるべきではありません。民/社会全体の咎と罰とを同時に担い続けているイエス・キリストの十字架を見上げるべきです。神は世界に対して、常に恵みでもって訪問し続ける方です。
20 そしてヤハウェは言った。「私は貴男の言葉に応じて赦した。 21 しかしながら私は生きている。そしてヤハウェの栄光はその地の全てに満たされている。 22 なぜならば、私がエジプトにおいてまたその荒野においてした、私の栄光と私の諸々のしるしとを見続けている全ての男性たちは――そして彼らは私をこれで十回試したのだが、また、彼らは私の声を聞かなかったのだが――、 23 私が彼らの父たちに誓ったその地を見ない。そして私を軽んじる者たち全ては彼女〔地〕を見ない。 24 そしてカレブは私の僕。別の霊が彼と共にあった結果として、彼は私の後ろで全うした。そして私は彼を、彼がそこへ来た地へと来させるのだ。そして彼の子孫は彼女〔地〕を相続する。 25 そしてそのアマレク人とそのカナン人はその谷の中に住み続けている。明日貴男らは向きを変えよ。そして貴男らは貴男らのために(杭を)引き抜け、その荒野(へ)、葦の海の道(で)。」
驚くべきことに、ヤハウェはモーセに説得されます。シリア・フェニキアの女性にイエスが説得されたのと似ています(マルコ7章24節以下)。激怒する神を、民の指導者モーセが鎮めたのです。聖書、特に旧約聖書は神という固定観念を常に揺さぶります。わたしたちは「仙人」のようなイメージで、優しい男性年配者をなんとなく想定していないでしょうか。本日の箇所の神は、むしろ自己の感情の爆発をとどめられない思春期の若者に似ています。その熱情の神を、仙人のようなモーセが宥めています。普通逆ではないでしょうか。そこに聖書独特の教育があります。固定的な教理を植え付けることが教育ではありません。逆さまからも考える力を身につけることが教育です。それが生活力、毎日を生きる力となります。
ヤハウェはモーセに説得され、すぐにイスラエルを赦します。「私は貴男の言葉に応じて赦した」(20節。完了形)。そして、自分の尊厳(栄光)が保たれるぎりぎりの結論を導き出します。全ての対話による合意形成とは、このような妥協の産物です。「しかしながら私は生きている」(21節)という誓いの決まり文句の後に、ヤハウェの意地が示されています。ある種の条件交渉がなされているのです。
「なるほど、民全体を不自然な形で一挙に殺すことはしない。民は自然死を迎えるべきだ。とはいえ、このまま全体をその地に入れるべきではない。彼ら彼女たちが私を軽んじているからだ。私も我慢して彼ら彼女たちの真ん中に宿り続けはする。しかし現にアマレク人とカナン人が住み続けている地へと導きはしない。例外はカレブと彼の子孫だけだ。荒野へ行け。荒野で生きよ。」
ちなみに民数記という書名は、ヘブル語では「荒野で」というものです。出エジプトの神、シナイ山の神が、荒野の神となったのです。ヤハウェとモーセの対話、条件交渉の結論です。神は自分を軽んじる信徒と共にはいるけれども「救い」を完成させないというのです。そのような自由な判断をする神が、聖書の神です。この神の「後ろを全う」するため、「僕」として仕えるためには(24節)、柔軟な考え方と生き方が必要とされます。
たとえば現在の「パレスチナ問題」も頭を柔らかくしなければ解決しないでしょう。どのような話し合いによる妥協の産物がゴールなのでしょうか。パレスチナ側から見ればかなりの妥協ですが、例えばイスラエル建国時の国境線だけがせいぜいイスラエルが主張できる、国連が認めうる領土です。それ以外の土地は国際法上違法な軍事占領によって占有している土地です。エルサレムが「聖地」であろうが占領する理由にならないし、勝手に壁を作って行動制限をする理由、経済的に苦しめる理由もありません。ハマスなるものは、「軽んじられている者たちの苛立ち」なので根絶されえません。荒野の神は、現に住んでいるパレスチナ人の土地に、おのれの民を導かない自由を持つ神です。このヤハウェの名前を騙って隣人を無い存在にすることはできません。今こそ妥協の産物である「共存できる器」を創り出すための創造的話し合いが必要だと思います。イスラエルは一院制・比例代表制で国会議員を選出しています。少数者の意見が入りやすいシステムです。どうすればぎりぎりの尊重が成り立つかを話し合うテーブルを、わたしたちは用意すべきです。
今日の小さな生き方の提案は、モーセとヤハウェの率直さや柔軟さに学ぶことです。神に対しても、隣人に対しても、「自分の尊厳が脅かされている」と思うことは「おかしい」「否」と直截に主張することを目指したいと思います。「私はこう思う」と主語を必ず一人称にしながら。そのような主張を受けた場合、頑固にならないことが必要です。ぎりぎりの尊厳を保ちながら、妥協のための話し合いを持つ柔軟さが必要とされます。信念は盾とはなりますが、決して矛としてはいけないものです。