1 そしてヨセフは来、ファラオのために告げ、言った。「私の父と私の兄弟たちと彼らの羊と彼らの牛と彼らに属する全てがカナンの地から来た。そして見よ、ゴシェンの地に(いる)」。 2 そして彼のきょうだいの末端から彼は五人の人々を取り、彼らをファラオの面前に据えた。 3 そしてファラオは彼の兄弟たちに向かって言った。「あなたたちの仕事は何か」。そして彼らはファラオに向かって言った。「あなたの奴隷たちは羊飼い。私たちも私たちの父たちも」。 4 そして彼らはファラオに向かって言った。「この地に寄留するために私たちは来た。なぜなら、あなたの奴隷たちに属する羊のための牧草がないからだ。なぜならかの飢饉がカナンの地で重いからだ。そして今、どうかあなたの奴隷たちにゴシェンの地に住まわせてほしい」。
ヨセフはヤコブの家に予告した通りに、ファラオに告げます。台本通りです。あとは兄弟たちも台本通りの言葉で、ファラオに「家畜の人々」とだけ自己紹介すればよい、そうすれば「ゴシェンに住まわせて欲しい」と自分がファラオに直訴すると、ヨセフは考えています。そこでヨセフは五人を選びます。
原文には謎の一言「末端から」とあります(2節)。ほとんどの翻訳は無視をしていますが、これを年齢の下の方からと解して訳出します。そうすればヨセフが父ヤコブを真っ先に紹介しない理由も説明できます。下からベニヤミン(母ラケル)、ディナ、ゼブルン、イサカル(以上母レア)、アシェル(母ジルパ)の五人です。今までの物語で一言も言葉を発していない、男女交えたおとなしめのきょうだい。年齢の上の方から兄弟を選ぶなら、ルベン、シメオン、レビ、ユダは外せません。レアの息子のBig4は固有の逸話を持っている人物たちです。ヨセフは自分の台本通りに動くことを期待して、支配しやすい人物を選抜したのでしょう。もし、ユダを選んでいたら、必ず物語の語り手はその名前を記すはずです(46章28節参照)。
ファラオはヨセフの台本通りに質問をします。「職業は何か」(3節)。ヨセフの台本通りならば、ここは「家畜の人々」と曖昧に言うべきところです(46章34節)。「羊飼い」と言ってはいけません。なぜなら羊飼いという職業がエジプトでは差別されていたからです。「羊飼い」も「羊」も発してはいけない言葉です。ところが、従順に「家畜の人々」と言うはずの五人が、きっぱりと言いのけます。「羊飼い。私たちも、私たちの父たちも(ヤコブもラケルも)」。ヨセフは慌てます。ファラオの機嫌を損ねないかと心配します。
さらに驚いたことに、五人のきょうだいはヨセフには一瞥もくれずに、堂々とファラオに向かってまっすぐ言葉を継いで言うのです。台本によれば、これはヨセフのセリフです。「エジプトに寄留させてほしい。カナンには羊のための牧草がない。ゴシェンに住まわせてほしい」。五人は、意見のない人間を演じることも、自分たちの誇りある職業を隠すこともしませんでした。「我ら羊飼いを恥とせず。ベトエルもラバンもリベカも、アブラハムもサラもロトも、イサクもエサウもヤコブもラケルも、そして私たちも羊を飼う羊飼い。何が悪いのか。このような職業の外国人も大国エジプトは養う責任があるのではないか」。通訳が間違いなくファラオに伝えます。自分のセリフを完全に奪われたヨセフは、緊張してファラオの言葉を待ちます。
5 そしてファラオはヨセフに向かって言った。曰く、「あなたの父とあなたの兄弟たちがあなたのもとに来た。 6 エジプトの地、それこそあなたの面前に(ある)。かの地の最も良い所にあなたはあなたの父とあなたの兄弟たちを住まわせよ。彼らはゴシェンの地に住むこともできる。そしてもしあなたが知っているなら、――彼らの中に有能な人々が存在するのか――、あなたは彼らを私に属するものの上の家畜の高官(酪農担当大臣)に置くべきだ」。
ファラオは五人の顔とヨセフの顔とを見比べながら、愉快そうにヨセフに向かって言います。「あなたの夢解きの場面を思い出す。この人たちは正にあなたのきょうだい、ヘブライ人だ。きょうだいと父が来たと聞いたが、なぜあなたの父はここにいないのか。ツェファナト・パネアよ、あなたの面前にエジプト全地がある。ゴシェンの地が最良だと言うならそこに住まわせよ。あっぱれな兄弟たちの中で、有能な者がいるか知っているか。その人物を酪農担当大臣に取り立てよ。あなたと同じように内閣の一員に任命しても構わない」。
この「有能」(ハイル)という言葉は、どちらかと言えば軍事・政治用語です。箴言31章10節でも女性に対して用いられているので、もしディナが有能であれば、取り立てるという意味にもなります。「高官」(サル)は、ポティファルと同じく内閣を構成するような高い地位です(37章36節)。なお、6節は底本の構文が壊れています。私訳はサマリア五書による復元です。
ファラオの方がヨセフよりもうわてです。ファラオは羊飼い差別・外国人差別を強く持っているわけではありませんでした。むしろ、真正面から自分の意見を言う、有能な人間をファラオは好むのです。だからこそヘブライ人の囚人だったヨセフは、一日で総理大臣にまで出世できたのでした。「私を侮るな。変な遠慮をせず、誇り高い、自由な、あなたの父親にも会わせよ。」
7 そしてヨセフは彼の父ヤコブを連れて来、ファラオの面前に対峙させた。そしてヤコブはファラオを祝福した。 8 そしてファラオはヤコブに向かって言った。「あなたの命の年々と日々はどれほどか」。 9 そしてヤコブはファラオに向かって言った。「私の寄留の年々の日々は三十と百年。私の命の年々の日々はわずかで悪くなった。そしてそれらは、彼らの寄留の日々における、私の父祖たちの年々の日々に追いつかなかった」。 10 そしてヤコブはファラオを祝福し、ファラオの面前から出た。
こうして日を改めてヨセフはゴシェンを往復して、父ヤコブをファラオの前に連れてきます。ヤコブの格好は普段着です。髪は長く、髭も伸ばし放題、羊飼いの服装のままです。エジプトの王宮では異彩を放っています。また動物の匂いをつけたままです。足を引き摺りながら、ヤコブはファラオに近寄ります。ゆっくりどこまでも近づき、とうとうヤコブはファラオに触ります。そして、ファラオにくちづけをし、匂いを嗅ぎ祝福をするのです(27章36節)。
この祝福は、ヤコブが苦労して兄エサウから奪い取ったものです。一子相伝、長男から長男へしか相続されない「祝福」を、ヤコブは横入りして兄エサウになりすまして盗みました。また、祝福は、ヤコブが苦労して神と相撲をとり、神から獲得したものです。明日を生きる力、子孫繁栄、約束の地を授かるという約束、これらの詰まったものが祝福です。二回ともかなり苦労して獲得した祝福を、ヤコブは惜しげもなく二回もエジプト人ファラオに与えます(7・10節)。外国人政治家も神の祝福の中に含まれています(イザヤ書45章1節参照)。自由人ヤコブの真骨頂です。彼は祝福の一子相伝ルールを止めてしまう、変わった族長なのです。ファラオは、ヘブライ人の言葉を理解しませんが、感動しました。言葉を超えて羊飼いの文化に敬意を払いました。
「おいくつか」。堂々としたヤコブの態度に言葉を失っていたファラオは、まったく平凡な問いを発します。前段でヨセフを飲み込んだファラオが、後段でヤコブに飲み込まれています。この平凡な問いに対する答えは非凡なものです。「私の寄留は百三十年」。ヤコブは、人生を「寄留(ゲール)」と表現します。父祖たちの人生も「寄留」と呼んでいるので、すべての族長にあてはまる人生観なのでしょう。つまり、人生とは「仮住まい」「短期滞在」であるという考え方です。だから百三十年は「わずか」(メアト)なのだ。しかも先祖より実際に短いのです。メアトはヤコブの口癖です(30章30節、43章2節、43章11節、44章25節)。彼は普段考えている人生観を述べました。
ファラオは驚きます。エジプト人は永遠の命を信じています。ミイラによって永遠に生きることができると考えています。そのためには巨大なピラミッドを作らせたりもします。「なるべく長く生きたい」というファラオに対して、人生というものは仮住まいに過ぎない、百三十年であっても大した長さではないと言い切るのです。しかも、百三十年の人生が「悪くなった」とも言います。ヤコブは一切ファラオに感謝を述べていません。「ヨセフがお世話になっています」とか、「エジプトのおかげで一族が救われました」とか、「立派なピラミッドですね」とかも言いません。ヤコブからすれば、神が導く歴史の中で政治家が経済によって人々を救済することは当たり前ですし、その一コマに自分の息子が用いられたというだけのことです。見ようによれば約束の地を離れたのだから「悪くなった」とも言えます。私たちは人生の良し悪しを知りません。ただ神の歴史の一コマに仮住まいしているだけに過ぎません。
ファラオはヤコブに飲まれます。人生観を揺さぶられ、言葉を失います。「人生は短くても神の歴史を意識していれば充実するものなのか」。うろたえるファラオにヤコブは口づけをし、彼の匂いを嗅ぎ、彼を祝福して出て行きます。「あなたが明日生きる力を神から与えられるように」。最後までヤコブは、かっこよくファラオを圧倒しました。難民が統治者を祝福で支配したのです。
11 そしてヨセフは彼の父と彼の兄弟たちとを住まわせ、彼らのためにエジプトの地における所有地を与えた。(それは)かの地の最も良い所に(ある)、ラメセスの地に(ある)、ファラオが命じたとおりに。 12 そしてヨセフは彼の父と彼の兄弟たちと彼の父の家の全てを養った。小さい者の口のためのパン。
ヨセフはきょうだいたちと父の立ち居振る舞いに感銘を受けました。羊飼いとして、共にいる神を信じる者として、ヘブライ人として、彼ら彼女たちはエジプトの現人神ファラオと堂々と渡り合いました。自分の出自を恥じなくても、小細工をして最初からゴシェンの地と決めなくても良かったのです。「ラメセス」は後代の土地の名前です。きょうだいたちはヨセフに気を使って「ゴシェンの地に寄留させて」と言ってくれました。ヨセフもそれに応えます。ゴシェンの中で羊を飼うために最適の土地を、ヨセフは与えました。
そしてヨセフは、パンを一家に支給します。ヤコブの家は特別です。銀を支払わなくても、エジプト国家がパンを支給します。今までのやりとりと同じルールです。「小さい者の口のための(口に応じて)パン」が無償で与えられます。いつの時代も飢餓・貧困は子どもたちを直撃します。国家の役割とは、外国人も含む住民にパンを配ることです。平和は、平等にパン(のぎへん)が口に配られることです。
今日の小さな生き方の提案は、自分自身の尊厳を保つということです。特にお上に向かって「ありがたや」と思わなくて良い。仮に生活保護を受給していても。誰からか人格を踏みにじられても、誰かから理由のない差別を受けても、胸を張って生きるということです。神は、「あなたは高価で尊い」と祝福しています。神は、大きな歴史の一つの大事な部分として、あなたの人生を用いています。その神を信じることです。そうすれば尊厳が保てます。自分の小さな人生を恥じない人は、周りを動かすことができます(ヤコブ、モーセ)。礼拝において自分のかけがえのなさを実感しましょう。そして明日も生きましょう。