家を出て一日目の夜、ヤコブは野宿をしました。そして夢の中で神に出会い、そこで礼拝を捧げ、母リベカの実家のある大都市ハランを目指します。
「そしてヤコブは彼の足を上げた。」(1節)。礼拝というものの本質がここに表れています。わたしたちは日曜日に礼拝をしますが、それは月曜日からの生活のためです。礼拝はそれ自体で楽しく意義深いものですけれども、そこで個々人に元気が与えられ、明日のために足が上がることを目的としています。人生の旅を続けるためのオアシスです。だから毎日の生活を犠牲にしてまで礼拝をするのは良くない。もしも日曜礼拝が日常生活を崩し、月曜日に足が上がらなくなるなら本末顛倒です。「東方(ケデム)」には、「前方」という意味もあります。礼拝は、前へと向かう足を上げるためのものです。
「そして彼は見た。そして見よ、その野に井戸が。そして見よ、そこに三つの羊の群れがそれ(井戸)に接して伏している」(2節)。おそらく三日の道のりを歩いた後のことです。一人で歩き続けてきたヤコブが、初めて井戸と、「東方の人々」と、羊の群れを見ました。ヤコブの喜びを伴う驚きが、「見よ」という言葉の連続から伝わります。
ここで物語話者は、ハランの羊飼いたちの習慣を説明します。その井戸の利用者にはルールがありました。複数の家に属する羊飼いがすべて集まってから、井戸の蓋である「大きい石」を転がして、所有者たちがそれぞれの羊に水を飲ませるという慣例です(3節)。この共同管理体制は、当時最先端の法治を誇るメソポタミア文明の一端を紹介しています。無法者たちが、井戸にいたずらをしないようにするために蓋をしておく。そして、一つの家だけが井戸を独占しないように、複数の家が「羊飼い組合」を結成する。その組合の中で抜けがけが起こらないように、「全ての羊飼い」(3・8節。サマリア五書、七十人訳による本文)が集まった時に公平に水を分かち合うのです。また、大勢が集まって重い石をどかし・戻すようにすることによって、家同士の協力関係を強め、一つの家の抜けがけも起こしにくくしています。
ヤコブにとって「早い者勝ち」や「抜けがけ」こそがルールです。ヤコブが兄エサウから「長男の権限」や「家長からの祝福」を掠め取ったことはすでに読んできました(25・27章)。我先に奪うことヤコブだけの性質ではなく、父イサク・祖父アブラハムにまで遡ってもあてはまります。家風です。井戸は掘った者が独占すべきだとイサクもアブラハムも考えています。だからこそ、イサク家の者たちも独力で、ペリシテ人たちによる井戸に対する横暴を防がなくてはいけませんでした。ペリシテ人たちも井戸を奪って良いと考えています(26章)。互いに協力して「組合」を作って、井戸に蓋をして共同管理をしようという「法治」は考えもしませんでした。
ヤコブは井戸の周りに居る羊飼いたちに話しかけます。ヤコブにとってハランの人々はルーツを同じくする同胞です。しかし生まれも育ちもカナンの地であるのでハランはもはや外国です。実際、ハランの人々は月神シン等天体を拝んでいたのですから、お互いは思想信条を異にしています。
「私の兄弟(親族)たち、あなたたちはどこから」「私たちはハランから」。「ナホルの息子ラバンを知っていますか」「私たちは知っています」。「彼に元気(シャローム)がありますか」「元気(シャローム)です。そしてご覧なさい、彼の娘ラケルが羊の群れと共に来つつあります」(4-6節)。
ヤコブは安心しました。母リベカが頼るようにと言っていた伯父ラバンは元気に暮らしているようです。シャロームは「円満」を意味する言葉です。そして従姉妹のラケルにもうすぐ出会うことができるのです。そうすれば、母の立てた避難計画どおり、伯父の家にしばらく居候させてもらえることでしょう。兄エサウの殺意が和らぐまでの辛抱です。そして、イサクの命令通り親戚と結婚でき、その後帰国すれば、完璧な運びとなります。
ほっと一息してヤコブは羊たちを眺めます。「完璧な人」ヤコブは、気の利く人です。同じ職業を持つ羊飼いとして、ハランの人々の不可解な行動に気づきます。彼にとって、三つの家の羊の群れが何もしないで伏しているのは時間の無駄のように見えます。
「見よ、まだ日は大きい(ガドール)。家畜が集められる時刻ではない。あなたたちは羊に飲ませ、行き、草を食べさせなさい」(7節)。ヤコブは初対面のハランの羊飼いたちに、三連発の命令で上から目線の発言をしています。彼には「大きい(ガドール)石」の存在が目障りです。早く着いた羊飼いの自由を奪っているからです。まるで兄(大きい兄弟)エサウのようです。
ハランの羊飼いたちは、風来坊の旅人、高ぶるヤコブに対して優しく教えます。「私たちはできない、全ての羊飼いが相集まるまで。そして彼らがその井戸の口の上からその石を転がす。そして私たちが羊の群れに飲ませる」(8節)。三つの家の羊飼いたちは、羊飼い全員が集まってから「彼らが」石を転がし、その後で三つの家の「私たちが」飲ませると言います。それがルールです。
「でも・・・」とヤコブが反論しようとした矢先のことです。ラケルが羊を連れて来るのが見えます。ヤコブは、母リベカから両親の馴れ初めを聞いていたのでしょう。イサクの結婚相手を探すために遣わされた、祖父アブラハムの僕は、神に祈っていました。「水をください」との願いに対して、「あなたにだけではなく、あなたのラクダにも水をあげましょう」と答えてくれる女性に出会えるように。その女性こそ、イサクの妻にふさわしいから、と。その祈りが終わらないうちにリベカが登場し、僕とラクダに水を井戸から与えたのでした(24章)。この話はリベカだけが生き生きと再現できる楽しい思い出です。リベカに愛されていたヤコブは、この逸話を何回も聞き、よく覚えています。
ヤコブはラケルと羊の群れを見た瞬間に「ラケルの羊に水を与えなくては」と思い立ちます。リベカの息子だからです。結婚相手を探すためにハランに来ているからです。ヤコブは法を破って一人で勝手に大きな石の蓋を転がします(10節)。全員の羊飼いが集まるまで待つのがルールです。さらにヤコブはラバンの羊にだけ水を与えます。これもラケルにだけ許されている行為です。
「伯父ラバン」という表現が10節に3回も繰り返されています。原文は「ラバン、兄弟、彼の母の」というくどい表現です。こうして物語話者は、リベカの結婚を思い出すようにと指示しています。ヤコブが法を破ってまでリベカと似たような行動をしているのには理由があります。物語はヤコブと従姉妹のラケルがこの後結婚することを予告しているのです。それは丁度イサクとリベカの結婚が、神の導きであったのと同じ仕方です。
「ヤコブはラケルに口づけした。そして彼は彼の声を上げた。そして彼は泣いた。そしてヤコブはラケルに告げた。彼が彼女の父の兄弟(親族)であること、また彼がリベカの息子であることを」(11-12節)。ラケルは叔母リベカのことを知っていました。父ラバンには妹がいて、遠くカナンの地に結婚目的で引越しをしたという出来事です。ヤコブの顔が、父ラバンや祖父ベトエルに何となく似ていることをラケルは認めました。いきなり大声で泣き出す男性に驚きましたが、ラケルはすぐに事情を飲み込みました。初対面の旅人を自分の従兄弟だと認め、その上でヤコブに対して「羊の番をしながらここで待つように」と言って、ラケルは自宅へ一人駆け出します。「そして彼女は走った。そして彼女は彼女の父に告げた」(12節)。同じ動詞の使用は、ラケルがヤコブの言葉を忠実に父ラバンに伝言したことを表しています。
その間ヤコブは何をしていたのでしょうか。ヤコブはルール違反に対するお説教を羊飼いたちから聞くことになったのでしょう。実に気まずい留守番です。しかしこの後同じハランの住民となり、同じ羊飼い組合に属するようになるためには、重要な「洗礼」です。ヤコブの高い鼻はへし折られます。外国で暮らす時に必ず異文化交流/摩擦が起こります。自分の考えが通じないことや、自分の考えが狭かったことに気づかされます。イサクの家ではヤコブは何でもできる男性と自他共に認めていました。しかしハランでは通じません。畏れるべき神に出会い、共に生きるべき隣人に出会う時、人は謙虚になるものです。
「彼(ヤコブ)は彼の声を上げた」(11節)は、「ヤコブは彼の足を上げた」(1節)と単語レベルで対応しています。声を上げる行為も、人生の旅を続けるために必要です。大声は感情の発露です。ヤコブは神と出会い足を上げて生きる力を受け、ハランの羊飼いたち(ラケル含む)という隣人と出会い声を上げて生きる力を与えられました。へりくだって神と人と共に生きる道です。
「そしてラバンがヤコブ・彼の妹の息子の情報を聞いた時、以下のことが起こった。すなわち彼は彼に会うために走った。そして彼に抱擁し、彼に強く口づけし、彼を彼の家へと連れて行った」(13節)。ラバンの行動は、ヤコブ・ラケルのとった行動をすべて上回っています。放蕩息子を迎えた父親のようです(ルカ福音書15章21節)。ただしこの歓待はラバンの演技でしょう。
父イサクはヤコブに対してはあまり良い父親ではありませんでした。イサクは兄エサウを依怙贔屓していたのです。ヤコブは伯父ラバンから熱烈な歓迎を受け、素直に嬉しかったと思います。「そして彼はラバンにこれらのすべての出来事を物語った」(13節)。ヤコブはラバンに、一つ一つを数え上げるようにして、説明しました。生まれてからのこと、エサウとの葛藤、リベカの計画について。そして「結婚相手をラバンの家の中から見つけるために居候をさせてほしい。ただしすぐには帰らせないでほしい」と頼むのです。父イサクに対しては隠し事がありました。しかしラバンには包み隠さず話しました。
ラバンは長い話を聞いた後に、少し考えたと思います。ラバンもまたヤコブと同じ性質を持っています。自分にとって得になるかどうかで判断をするという癖です。ヤコブを受け入れるのが得になるのか損になるのか、ヤコブとどの娘を結婚させれば一番得になるのか、ヤコブの弱みにどのようにつけこむのが一番得になるのか、ラバンは計算します。14節のラバンの言葉は曖昧です。「確かにお前は私の骨・私の肉」と積極的に居候を認めたのか、それとも「(無一文の)お前ではあるけれども、私の骨・私の肉(だからしょうがない)」と消極的に認めたのかは、解釈次第です。ラバンはあえて渋々認めたふりをして後の交渉を有利にしたと思います。彼は自分のためにヤコブの居候を認めます。
今日の小さな生き方の提案は、人生の旅を神と共に歩むことです。神はどこにいるのか。羊飼いたちは月神シンを拝む異教徒ですが、ヤコブにハランの習慣を伝えながら生きる道を示しました。そこに従姉妹ラケルが来て、伯父ラバンを紹介します。意地悪なラバンの損得勘定もヤコブのいのちを救いました。そうして神はヤコブのいのちを生かし、足を上げ・声を上げさせたのです。信仰は露骨に介入しない神を感じる人生の旅です。神は多様な人々との出会いによってヤコブやわたしたちを導きます。「あの時あなたが出会ったあの人が実はわたしだったんだよ」と神は、いつかわたしたちに教えてくれるでしょう。このような祝福に満ちた人生に全ての人が招かれています。