ヤコブの判断 使徒言行録15章13-21節 2022年6月5日 聖霊降臨祭礼拝説教

AFKU7539

13 さて彼らが静まった後にヤコブが応えた。曰く、「男性たち、兄弟たち、あなたたちはわたしの〔ことを〕聞け。 

 エルサレム会議のクライマックスはイエスの実弟である「ヤコブ」という議長役の判断です。ヤコブは、福音書においてイエスの活動を妨害し故郷ナザレに引き戻そうとする人物として描かれています(マルコ3章21節・31節、6章3節)。十二弟子の一人、ゼベダイの息子のヤコブとは別人です。弟ヤコブは母マリアの影響で、イエスの十字架・復活を信じました(ルカ24章10節「ヤコブの母マリア」。使徒1章14節「イエスの母マリア」。)パウロの証言によれば、ヤコブがエルサレム教会員となったのは復活の主イエスに出会ったことによるものです(コリント一15章7節)。それは復活後でありペンテコステ前の出来事です。彼は十二弟子≒十二使徒ではありません。

その後、エルサレム教会はステファノやフィリポたち国際派教会員を見棄てました(7-8章)。ペトロも一時期エルサレム教会を離れます(9-10章)。さらにゼベダイの息子ヤコブが殺害されます(12章)。ペトロとゼベダイの息子ヤコブ・ヨハネ兄弟という十二使徒の三本柱(イエス特愛の高弟三名)のうちの二人がエルサレム教会「専従」でなくなり、主の兄弟ヤコブがエルサレム教会の最高指導者に上り詰めます(12章17節。ガラテヤ2章9節)。

元々実兄イエスの急進的な聖書解釈についていけなかったヤコブは、ユダヤ民族主義者です。割礼などの戒律を守ることがキリスト者に求められていると考えています。紀元後2世紀の歴史書にヤコブがユダヤ教正統からも「義人」(律法を守る人)と呼ばれていたことが分かっています。彼は誓願を立てた「ナジル人」であり、神殿で跪いて祈るあまり膝が硬くなったと言われます。教会の伝説によれば、ヤコブは「ヤコブ書」の著者です。ヤコブ書は人間の平等を説き、隣人愛の実践を勧めています。「行いのない信仰を見せよ」と迫るほどです(ヤコブ2章)。

エルサレム会議は議長役ヤコブを大いに悩ませました。心情的には民族派と同じ意見を持つヤコブ。しかし兄イエスの示した隣人愛に基けば諸民族を差別すべきではありません。その一方で神殿貴族たちからすらも信頼を寄せられるヤコブ。ここで国際派キリスト者たちと共に生きる道を選ぶことは、ユダヤ自治政府からエルサレム教会全体への迫害を促すことになるかもしれません。バルナバやパウロやテトスの問いは、主の晩餐(愛餐も一体)の出席者の範囲です(ガラテヤ2章11-14節)。割礼があるかないかで共に食べる人に線を引くことがキリスト教会として良い道かどうか。ヤコブは板挟みの中で問われています。バルナバたちは語りつくし静かになりました。聖霊がヤコブに降り、ヤコブの意思を超えた上からの知恵が、ヤコブの口を通しヤコブの判断(19節)として語られます。

14 シメオンは語った、いかにして初めに神が彼の名前のために諸民族より民を取るために訪れたかを。 15 そしてこのことに預言者たちの諸言葉が共鳴した、それが書かれているように。 16 『これらの事々の後、わたしは向くだろう。そしてわたしは倒れたダビデの天幕を再建するだろう。そしてその諸廃墟をわたしは再建するだろう。そしてわたしはそれを樹立するだろう。 17 それは、人々のうちの残りの者たちが、私の名前がそれらの上で呼ばれる全ての諸民族が、主を求めるようになるためである、とこれらの事々をなし続けている主は言う。 18 〔これらの事々は〕永遠から知られている』。 

 「シメオン」(14節)はペトロの本名シモンをヘブライ語/アラム語風に読んだものです。このことはヤコブが、ギリシャ語をあまり話せない人であることや、エルサレム会議はアラム語でなされたということを示しています。当たり前のこの事実は、16-18節の引用(アモス書9章11-12節)を考えると決して当たり前ではありません。というのも、ヤコブがアモス書をギリシャ語訳で引用しており、そのためにヘブライ語原典とまったく反対の意味になっているからです。新共同訳聖書でも、この逆さまぶりは明らかです(旧約1441ページ)。ギリシャ語訳はアモス書9章12節「エドム」を「アダム(人間)」と読み替え(母音記号を変える操作)、「所有する」をよく似た綴りの「求める」と読み替えています(子音文字を変える操作)。

ヘブライ語聖書は先祖ダビデがかつてしたように、ダビデの子孫によるエドム等隣国に対する軍事占領を約束しています。非常に民族主義的な主張です。しかしギリシャ語訳によれば、「割礼を施されたユダヤ人(人々のうちの残りの者たち)」も、「無割礼の非ユダヤ人(私の名前がそれらの上で呼ばれる全ての諸民族)」も、等しく主を求めることができます。ヤコブは国際派キリスト者を尊重してギリシャ語訳聖書を用いています。

また、「預言者たちの諸言葉が共鳴」(15節)とあるように、ヤコブはアモス書だけを引用していません。「これらの事々の後」(16節)や、「永遠から知られている」(18節)は、アモス書9章11-12節にはありません。エレミヤ書やイザヤ書などに登場する、似たような表現の継ぎはぎです。複数の預言者たちの言葉を原文の分脈と関係なく自由に引用して、自分の主張に役立てることはナザレ派を含め当時のユダヤ人たちのお家芸です。もっとも著しい人はパウロです。「もしパウロが現代の旧約聖書学の講義を受講したら落第するだろう」と言われるゆえんです。そしてパウロの旧約聖書引用の大方がギリシャ語訳からであることは広く知られています。

ヤコブが常に親しんでいるヘブライ語原典からは到底思いつかない聖書解釈がヤコブの口から発せられています。アモス書9章11-12節は、世界中の諸民族が「イエスは主である」と告白することを約束した預言となりました。バルナバ、パウロ、テトスたちが、自分たちの大切にしている「聖書の読み」を会議の中でヤコブに教えたからです。もっと多くの聖句が議論の中では飛び交ったことでしょう。それらを「どう読むか」をアンティオキア教会員もエルサレム教会員も侃々諤々話し合ったはずです。しかしその中で最も議長ヤコブの心を動かしたのは、アモス書9章11-12節の劇的な読み替えです。

もはやユダヤ人もギリシャ人もない。共に主イエス・キリストを信じ、共に主の晩餐を囲むことができる。ヤコブがギリシャ語訳聖書に従って、ヘブライ語聖書を読み替えたことを、ギリシャ人テトスはマルコの通訳を介して知ります。ペンテコステの時と同じような感動がテトスに起こります。アンティオキア教会でバプテスマを受けてキリスト者になったテトスたち若干名は、自分の母語で福音を聞いたような気持になりました(2章8節)。

エルサレム教会最高指導者・義人ヤコブは、自分の意見を変えることもできる対話的な人、それだから信頼に値する誠実さを持っている人。アンティオキア教会代表団は安心します。ヤコブは自分たちアンティオキア教会のあり方を否定しなかった。むしろヤコブは「交わりの右手を差し出している」(ガラテヤ2章9節)と感じました。

19 それだから私、私こそが判断する。神に面して向きを変えた諸民族からの者たちをさいなむべきではないと。 20 むしろ彼らに、偶像たちによる諸汚染と近親相姦等と絞め殺したものと血〔を飲むこと〕から離れることを書くべきだと。 21 なぜならモーセは始めの諸世代より、町ごとに彼を宣べ伝える者を持っているからだ、全ての安息日ごと諸会堂において読まれつつ」。

 アンティオキア教会の使用聖書と大切にしている聖書解釈を認めた上で、ヤコブは最終的な判断を示します。それはユダヤ民族主義者たちに対する配慮をも示した結論でした。

まずはユダヤ人以外のキリスト者たちを、ユダヤ人キリスト者たちが「さいなむto harass」ことの禁止(19節)。諸民族への割礼の強制はハラスメントにあたるという認定です。人を分け隔てする差別であり、共に礼拝できなくする行為だからです。これはユダヤ民族主義者の反発を覚悟する判定ですが、ヤコブはあえて踏み込みました。その上で、20-21節でヤコブはバランスを取ります。ここに書かれている忌避項目はすべて、モーセ五書の真ん中に位置するレビ記の17-18章にある戒律と重なっています。それによってヤコブは、この判断はアンティオキア教会にもある種の要請をし、妥協を促すものであることを印象付けています。「割礼ではないけれどもモーセ五書にある戒律の一部を守れ」という要請だからです。

筆頭に上げられている「偶像たちによる諸汚染」(20節)が最も重要な事柄です。参考になるのはコリント一8章です。パウロはここで一度偶像に供えられた肉を食べることの是非を論じています。パウロの本心は、何を経由した肉でも関係ないから食べられるという意見です。偶像は神ではないから、奉げられたところで清くなったり汚れたりはしません。肉は肉です。しかし、そのような自由な態度が、自由になりきれない人の心を傷つけないようにと手紙で勧めています。この主張は、本日のヤコブの判断と響き合っています。

ヤコブは主の晩餐に、「偶像に対する元供え物」を提供しないようにと言っているのでしょう。ユダヤ人にとって食物規程は大切な戒律です。キリスト者となっても、中々自由になれません。日本住民にとってもそうです。キリスト者となって「あなたは自由にふるまえるのですよ」と言われても、世間に恥ずかしいことは中々できないものです。「ユダヤ人の前ではユダヤ人のようになってほしい。ユダヤ人が礼拝に参加していたら、食べ物の中身を配慮してほしい」。それがヤコブの判断です。「神が清めたものを人が清くないと決めることはできないとは重々知っているけれども、ぜひご配慮を」と。

会議の結論であるヤコブの判断を会議出席者は呑み込みました。妥協的・折衷的ですが、調和的・協調的です。両者が何かを我慢している形なので、納得が調達されます。ヤコブは調整力のある政治家なのです。おそらく、この結論をヤコブ個人は生涯遵守しました。エルサレム教会からは、割礼強制を主張する者を非ユダヤ人教会に派遣することをしなくなったと思います。しかしアンティオキア教会はどうでしょうか。ガラテヤ書2章はパウロの主張のみが記されていますが、多分アンティオキア教会は様々な食物を無配慮で礼拝に用いていたように思えます。面目をつぶされたヤコブに配慮するペトロやバルナバの態度は、エルサレム会議出席者としては当然の良識でしょう。パウロ一辺倒ではなくヤコブの立場からも聖書を読み直す必要があります。

今日の小さな生き方の提案は、ヤコブの対話的な態度に倣うことです。それがペンテコステで誕生した教会の歩むべき道です。対立する意見を調整し、対立する個人を調停することです。そのためには相手の言葉で、自分の主張を語り直す努力が必要となります。ヤコブは論敵パウロの言葉を使います。パウロも論敵ヤコブの言葉を使います。それが隣人愛というものであり、自分の舌を制御することです(ヤコブ書3章)。ペンテコステは舌のような火が一人ひとりに降り、自分の母語でない言葉を語る出来事でした。聞き手が聞きたい言葉を語ることを、愛の神の霊が促します。そのような交わりを目指しましょう。