27 そしてイスラエルはエジプトの地に、ゴシェンの地に住み、その中に定住し、生み、非常に増えた。 28 そしてヤコブはエジプトの地に十七年生き、ヤコブの日々・彼の命の年は七年と四十と百年となり、29 死ぬためのイスラエルの日々が近づき、彼は彼の息子を、ヨセフを呼び、彼のために言った。
イスラエルには二つの意味があります。個人ヤコブの別名と、民族イスラエルの二つです。27節は民族イスラエルであり、29・31節は個人イスラエルです。七十人で移住した難民が、総理大臣からの依怙贔屓もあり、どんどん生んで増えていったというのです(1章28節、9章7節、35章11節)。子どもの死亡率が高かった古代において、生み増えることは神の祝福の結果と信じられていました。創世記に一貫する思想です。
しかしヤコブの家がいるのは約束の地・カナンの地ではありません。エジプトです。子孫にカナンの地を与えるという神の約束はどうなってしまうのか、読者はやきもきします。創世記の約束が果たされるのは、五書も超えてヨシュア記になってからです。サムエル記・列王記のダビデ王朝が樹立してからとも考えられます。創世記もそうですが、五書も未完の本です。そのことは私たちの人生とも重なります。すべての人生は未完のまま終わるものです。
未完の状況をつくりだしたヤコブは、自らの人生をも未完のまま閉じつつあります。百三十歳でエジプトに移住し、その十七年後、百四十七歳で息を引き取るのです。十七という数字は、愛息ヨセフがいなくなった時の年齢です(37章2節)。ヤコブはヨセフと共に生きたのは、十七年を二回、合計すると三十四年です。同じ年数は、象徴的な意味を持ちます。息子の生まれてからの十七年は父親にとって感慨深いものです。父親の死ぬまでの十七年は息子にとって感慨深いものです。
同じ十七年であることに絶妙な効果があります。人が生まれることの不思議と、人が死ぬことの不思議を、聖書は同列のこととして語っています。二十年以上生き別れだった親子が、しみじみと豊かな時間を過ごしています。未完である人生も、過ごし方によって豊かになりえます。ヤコブは唯一「彼の息子」(29節)と呼ばれるべきヨセフだけを死ぬ前に呼び出します。
「もしも私があなたの目に恵みを見出したのならば、どうかあなたはあなたの手を私の股の下に置いてくれ。また、あなたは私と共に慈愛と信実を行え。どうかあなたは私をエジプトに葬らないでくれ。 30 そして私は私の先祖たちと共に眠る。そしてあなたは私をエジプトから運ぶ。そしてあなたは私を彼らの墓に葬る」。 31 そして彼は言った。「私はあなたの言葉どおりに行う」。 32 そして彼は言った。「あなたは私のために誓え」。そして彼は彼のために誓い、イスラエルは寝台の頭の上で礼拝した。
ヤコブは息子に丁寧なお願いをしています。「あなたの目に恵みを見出したのならば」(29節)は、目上に対する敬語表現です。しかしその直後に、ヤコブは目下に向かってなされる「誓いの要請」をします。手を股の下に置かせるという、奇妙な習慣によってなされる誓いを、ヤコブはヨセフに要求しています(24章2節)。相手を一応尊重するけれども、自分のしたいことをすでに決めている人の態度です。「私と共に慈愛と信実を行え」は、約束が一人ではできないということを示しています。「慈愛と信実」を、自分と共に行えとヤコブは命じます。「慈愛」(ヘセド)は、揺るぎない愛です。ギリシャ語の「(普遍的な)愛」(アガペー)に最も近い言葉です。「愛し合おう」とヤコブは呼びかけます。「信実」(エメト)は信頼に値する誠実さを示します。アーメンと同じ根を持つ言葉です。「アーメンと言い合おう」とヤコブは呼びかけます。
「エジプトに葬らないでくれ」。ヤコブは自分の代で、土地に対する神の約束の完成が遠くなったことを心配しています。「アブラハム・サラ夫妻、イサク・リベカ夫妻、レアが埋葬された墓、そしてラケルの墓は、約束の地を得るための手付金だ。私も約束の地に葬ってくれ」。
30節の三つの文は、珍しい表現です。よくある物語の継続的な表現ではなく、一文一文が預言として独立しています。そこで私訳は一々「そして」を訳出しました。三つの文はそれぞれ、預言の完了(過去時制に訳すことが通例)という強い表現で、未来を断言しているからです。つまりヤコブは、一文一文をはっきりとゆっくり強い口調で、ヨセフに預言として語ったのです。「私は先祖と共に眠る」「あなたは私を運ぶ」「あなたは私を先祖伝来の墓に葬る」。あなたは私を愛するか。アーメンと言えるか。
ヤコブの迫力に押されてヨセフは「アーメン」と応えます。それを受けて、ヤコブは誓いをヨセフに要求します。ラバンによって何回も騙されたヤコブは、愛息に対しても甘くありません。エジプトの総理大臣としては承諾しにくい願いでもあります。国葬をしてエジプトに埋葬したいところです。しかし、父親の大切な遺言です。ヨセフはヤコブの言葉通りに行うことを約束しました。とはいえヤコブに内緒でエジプト風のミイラにするのですが、この点はヤコブが禁じていないことでもあります(50章2節)。総理大臣の沽券でしょう。
32節「イスラエルは寝台の頭の上で礼拝した」は、意味がよくわかりません。ヤコブはどこで何をしたのでしょうか。ギリシャ語訳は「杖の先に寄りかかって礼拝した」としています。「寝台」と「杖」は母音記号の違いしかない、極めて紛らわしい単語です。母音記号を付けた時代に(紀元後5世紀以降)、次の場面に引きずられて「寝台」になってしまったのでしょう。座りながら誓った二人ですが、最後はヤコブが杖を使って立ち上がり(足が悪いので)、そしてヨセフに深々とお辞儀をして礼拝したということだと推測します。ここでまた、37章9節のヨセフの夢が実現します。ヤコブが依頼した内容に、レアとラケルも関わるので(妻たちと同じように約束の地で埋葬されること)、広く解釈すれば太陽と月がヨセフを礼拝したと言えなくもありません。
1 そしてこれらの事々の後に以下のことがあった。すなわち彼はヨセフのために言った。「見よ、あなたの父が病気である」。そして彼は彼の息子二人を彼と共に取った、マナセとエフライムとを(取った)。 2 そして彼はヤコブのために告げ、言った。「見よ、あなたの息子ヨセフがあなたのもとに来た」。そしてイスラエルは強くなり、寝台の上に座り、 3 ヤコブはヨセフに向かって言った。「エル・シャダイが私に向かってルズでカナンの地で現れ、彼は私を祝福し、 4 私に向かって言った。『見よ私はあなたに生ませ、あなたを増やし、民々の会衆のためにあなたを与え、この地をあなたの後のあなたの子孫のために与えつつある、永遠の所有地(として)』」。
1・2節に突然登場する「彼」が誰であるのか、よく分かりません。古代からその悩みはあったようで、古代語諸訳は「言われた」「告げられた」と受身にすることで主語の問題を解決しようとしています。だから、1節はヨセフが家の誰かから知らされ、2節はヤコブが家の誰かから知らされたと理解するのです。新共同訳もその立場です。
しかしここはもう少しロマンを持って良い場面です。明確な形でヨセフに出会い語りかける神は今まで登場しませんでした。ここは例外です。しばしば神と出会い神の声を聞くヤコブにつられて、ヨセフもまた神の声を聞いたと考えます。つまり、1・2節の「彼」は同じ神です。神は、ヨセフのためにあなたの父が病気であると言い、ヤコブのためにあなたの息子が来たと告げます。神がヤコブとヨセフに、豊かな時間を用意して与えます。
ヨセフは反射的に二人の息子を連れて行きます。おじいちゃんのお見舞いです。ヤコブは、神によって強められます。「ヤコブが力をふりしぼった」というわけではなく、神が力を与え強めたのでヤコブは寝台の上に座ることができました。ヨセフと孫二人に会ったこともヤコブを強めました。そしてヤコブは、思い出話を、ヨセフとマナセとエフライムに聞かせていきます。ヤコブが聞いた神の言葉についての思い出です。ただし単なる思い出話ではなく、預言者ヤコブによる渾身の説教、神の言葉の解き明かしです。
ルズ(改めベテル)で神はヤコブに二回現れています。アラムへの往路である28章と、復路である35章です。今回ヤコブがヨセフに紹介しているのは、35章11-13節の神の言葉です。本日は35章11節と、48章4節の違いに焦点を合わせます。ヤコブによる神の言葉に対する解釈が、その違いをもたらしています。最強国家エジプトでの生活や自分が死につつあること、これらの状況が、かつて聞いた神の言葉に対する解釈として現れ出ます。人生の結晶です。
「私はあなたに生ませ、あなたを増やし、民々の会衆のためにあなたを与え」(4節)というヤコブの言葉は、「あなたは生め、あなたは増えよ。国と国々の会衆があなたから成る」(35章11節)という神の言葉の解釈です。
神は「国」(ゴイ)という言葉を使いました。エジプト国家も国の一つです。ゴイには外国という意味合いもあります。エジプトはファラオを頂点とする宗教国家です。エジプト人はファラオを拝む国家儀礼の会衆なのです。そして周辺諸国を併合しながら、エジプトは国々もファラオを崇拝する会衆にしていきます。国と国々の会衆がエジプトから成っています。エジプトでファラオ礼拝の強制に苦しむイスラエルが同じことをしてはいけません。ちなみに後にヨシヤ王は政教一致の軍事国家をつくりエジプト軍に殺されます。ヤコブは、国家と会衆(信仰共同体)の関係を意識して、神の言葉に解釈を施します。
大胆にも「国」を「民」(アム)に変えるのです。そうして会衆と国家を切り離します。「エジプトを頼って来たさまざまな民が神を礼拝する共同体をつくるために、神はイスラエルをエジプトに与える。国家ではなく、主を礼拝する民に仕えるためにイスラエルをエジプトに与える」。神の言葉が新しい状況に即して解き明かされます。霊による解釈によって、神の言葉は今・ここに・生きる言葉となります。ヤコブが預言した「諸々の民」こそ、出エジプトに同行した人々です(出エジプト記12章38節)。ヤコブの子孫たちは、ヤハウェ礼拝にさまざまなルーツの人々を招いて伝道し、共にエジプトを脱出する旅にも招きました。国家からの自由、信教の自由を求める旅です。
今日の小さな生き方の提案は、未完の人生を豊かに生きるということです。共に神を礼拝する「会衆」となるとき、わたしたちは神の言葉に触れることができます。固定化された過去の神の言葉を自宅で読むだけではなく、今・ここで・聖霊によって解釈された神の言葉を共有するとき、わたしたちは神と隣人によって強められます。ヤコブが孫と会うことで強められたのと同じです。世代を超え、さらには性別や民族を超えた多様性があるともっと良いでしょう。
信仰共同体/礼拝共同体という集まりは世の終わりまでいつも未完という限界を持ちます。欠けだらけの器であり、暫定的な「神の国」です。しかしこの集まりは神がわたしたちのために用意してくださったものです。わたしのために、また同時にわたしの隣人のために、神は呼びかけて会衆になるようにと招いてくださいます。教会は国によって支配される交わりではありません。ヤコブ、ヨセフ、マナセ、エフライムに教会の原型をみて、それに倣いましょう。