「その時次のようなことが起こった。すなわちユダが彼の兄弟たちと共なるところから下り、アドラム人の男性(のところ)まで張り出した。そして彼の名前はヒラ。そしてそこでユダはカナン人の男性の――そして彼の名前はシュア――娘を見、彼女を娶り、彼女のもとに来た。そして彼女は妊娠し、息子を生み、彼は彼の名をエル(と)呼んだ。そして彼女はさらに妊娠し、息子を生み、彼の名をオナン(と)呼び、さらに加え、息子を生み、彼の名をシェラと呼んだ。そして彼は彼女が彼を生んだ時ケジブにいた」(1-5節)。
ヤコブの四男ユダは、ヨセフが家族から居なくなった正にその時、家から出て行きます。ユダはその時独身だったようですから、現代風の「独立を果たし一人暮らしをするようになった」のです。ユダの心境の変化を推測します。
ユダにとって実家の人間関係があまり快適ではなくなったのだと思います。父親のお気に入りのヨセフが居なくなっても、父親の愛情は自分に配られるわけではありません。父の財産は多分、あまり尊敬できない長兄のルベンに多く配られるのでしょう。レビとシメオンという暴力的な兄たちにも距離をとりたいところです。結局彼らの横暴を許し、ヨセフの命は救ったけれども、弟を商人に売った罪の意識はユダに残ります。「助けてください」というヨセフの絶叫を無視して、ミディアン人に売り飛ばしてしまったのです。ユダも他の兄弟たちも大きな秘密を抱えてしまいました。顔を合わせるたびに、気まずくなります。誰にも言えない罪責感を抱えること、ここに罪に対する罰の一面があります。罪を自覚するユダは、アベルを殺したカインのように、家族・一族という共同体から出て行きます。
アドラムという町は、ヤコブ一族の住むヘブロンから北西16kmにあります。「下り」とあるので、ヘブロンよりも小さな町です。アドラム人は、広い意味のカナン人の一種です。徒歩で半日ぐらいの距離のところに、羊の群れをヤコブから分けてもらって、ユダは独立します。他の兄弟たちはヘブロンにずっと住んでいたのでしょう。こうして、ヤコブの子どもたちの中で、ヨセフとユダだけが別行動を取ることになりました。二人は特別です。
さらに言えば、ヤコブの子どもたちのうちでヨセフとユダだけが結婚と子どもの出産が報告されています。例外は娘ディナが強姦された後、計略により結婚させられたことだけです(34章)。特別な存在であるヨセフとユダという主人公を意識しながら、37章-50章は読むべきです。
ユダはアドラムでシュア(「助け」の意)という人の娘と結婚します。ユダはエサウと同じようにカナン人と結婚します(36章2節)。しかしエサウとは異なり、「国際結婚」を批判する者はいません(28章8節等参照)。結婚相手を見つけるためにラバンのところに行ったり(父ヤコブ)、イシュマエルのところに行ったりは(伯父エサウ)、もはやしません。歴史は前に向かっています。親戚だけで結婚することをヤコブ一族は止めています。おそらく他の兄弟・姉妹たちも、カナン人たちと結婚をしています。こうしてカナン地方への土着化が進みます。このヤコブ一族70人がエジプトに渡り(アバル)、ヘブライ人(イブリーム:渡り者)と呼ばれるようになります。そしてエジプトでヨセフの子孫(妻はエジプト人)と合流します(41章51節以下)。出エジプトを果たすヘブライ人とは、カナン人化したアラム人の子孫と、エジプト人化したアラム人の子孫によって成る、種々雑多の民です。この「神の民」のあり方が教会のあり方に示唆を与えます。教会は国籍を気にしない群れ、礼拝共同体です。
ユダには三人の息子が与えられました。エル、オナン、シェラです。長男エルの意味は「守り」または「目覚める」です。罪を自覚しながら、自立した生活を選んでカナン人と結婚したユダは、神の守りを祈っていたのでしょう。新しい生活が始まったことが、最初の子どもへの名付けに表れています。ヨセフは二人の息子を自分の境遇に引き寄せて、自分自身で名付けをしています。同じように、ユダも自分の心境を子どもの名付けを通して表していると考えます。そしてエルの名付けだけは、父親であるユダが行っています。
次男オナンの意味は「富」、三男シェラの意味は「願い」。この二人についてはユダの妻が名前を付けています。しかもシェラが生まれたとき、ユダとその妻は別居しています(5節)。ケジブという町の位置は分かりませんが、夫婦間に距離があったことは分かります。出産時に共にいない父親、下の二人の子どもたちの名付けに関与しない父親という姿から、ユダが長男エルのみを溺愛していたことと推測します。祖父イサク、父ヤコブと同じ過ちを犯しています。
「そしてユダは彼の長男エルのために娶った。そして彼女の名前はタマル。そしてユダの長男エルは主の目に悪となり、主は彼を死なせた」(6-7節)。ユダはエルのためには自分で結婚相手を見つけます。原文はまるでユダ本人がタマルと結婚したかのように、「ユダが・・・娶った」と書いています。溺愛ぶりの証拠でもありますし、この後の成り行きを示唆するためでもあるのでしょう(タマルはユダの子どもを生む)。
長男エルは死にます。「主の目に悪」という言葉は、士師記や列王記に頻発される定型句です。そこでは申命記の律法を守らないことが「主の目に悪」と評価されるのです。この箇所でエルが何をしたのかは分かりませんが、何らかの理由で主はエルを死なせます。「殺す」(新共同訳)よりももっと婉曲な言い方で、エルは死に至ります。原因不明の死を、神に帰したという語感です。
ユダは悲しみ慌て、次男オナンを呼びつけて命じます。「あなたはあなたの兄弟の妻のもとに来い。そしてあなたは彼女に法的義務を果たせ。そしてあなたの兄弟に属する子孫を興せ」(8節)。この奇妙な命令の根拠は、申命記やルツ記にも残る風習です。「レビラート婚」と呼ばれます。兄弟が子どもを残さずに死んだ場合に、兄弟の妻と義務的に結婚し、死んだ兄弟の子どもを代わりに生ませるという習慣です(申命記25章5節以下、ルツ記3章10節以下)。
「そしてオナンは、その子孫(ゼラア)が彼に属さないということを知った。そして彼が彼の兄弟の妻のもとに来た場合には、次のことが起こった。すなわち、彼は彼の兄弟に属する子孫を与えないように〔精子(ゼラア)を〕地へ注いだ」(9節)。次男オナンは抵抗します。「今まではエルだけを依怙贔屓しておいて、こういう時だけ自分に依頼するのか、しかもエルのための命令か」と。ここにも兄弟喧嘩が垣間見えます。エサウとヤコブ、ヤコブの子どもたちの兄弟喧嘩と同じ主題です。オナンは長男中心の家制度に挑戦します。
「そして彼がしたことは主の目に悪かった。そして主は彼も死なせた」(10節)。次男オナンの行為は申命記の条文に反するので「主の目に悪」とみなされ彼は死にます。エルと異なり理由は明確です。ここからユダは意見を変えます。愛する子エルの息子にこだわる家の存続ではなく、最後に残された三男シェラによる家の存続です。ユダは、「タマルという女性と結婚すると息子は死ぬ」という、ひどい法則を思いつきました。そしてこういう場合には申命記の条文に反しても良いと考えたのです。現実主義者であるユダは、風習や法律も状況次第で重視したり軽視したりします。そしてタマルを騙して命令します。
「あなたはやもめ(として)あなたの父の家(に)住め。私の息子シェラが大きくなるまで」(11節)。ユダの言葉は、いつかシェラと結婚できるという期待をタマルに抱かせるものでした。就業ができない古代の女性たちにとって夫の保護は社会的安全網です(ルツ記)。大きくなったら三男と結婚させ、あなたを保護すると示唆しています。しかし舅ユダの本音は、「彼(シェラ)も彼の兄弟たちのように死ぬといけない」(11節)というところにあります。タマルが実家に行った後にユダは本音を公然と周囲に言ったのでしょう。原文ではどちらの意見も、「彼は言った」とあります。
ユダの妻も死に、三男シェラも大きくなったにもかかわらず、ユダはタマルを呼びません。もしかするとシェラは結婚したかもしれません。彼女を同情した人から、「見よ、あなたの舅がティムナへと彼の羊の毛を刈るために上っている」と、タマルは告げられました。実家の父の庇護のもと、さらに父を継ぐ兄弟の庇護のもと一生を終えるのか、それとも自分の生む子どもと共に生きるのか、タマルは決断をします。娼婦に変装して、舅と性交渉をし、舅の子どもを生もうというのです。その方が自分の意思に沿う行動です。タマルの行動は、モアブ人女性ルツの行動と似ています(ルツ記3章)。二人はダビデ王やイエス・キリストの先祖という点も共通しています。
ヨセフは晴れ着を奪い取られましたが、タマルは自分の意思で服を着替えます。夫を失った女性には表現の自由が奪われていました。しかし彼女はやもめ用の衣服を脱ぎ、神殿聖娼の着る服を着、顔を隠して、アドラムから少し大きな町ティムナに「上る」道に面して座って、ユダを待ちます。そして目論見通り、ユダとの性交渉・妊娠に成功するのです(14-19節)。
この箇所は、ヨセフが主人の妻から性的誘惑に遭うことやその時に服を残したことと対をなしています(39章)。悪事を犯さないヨセフと悪事を犯すユダ。こうしてユダの罪があぶり出されています。ユダは弟を売るし、息子の妻に嘘をつくし、自分の妻の死後女性を買うし、神殿聖娼との間で「宗教的姦淫」も犯すし、息子の妻と性交渉をする、どうしようもない主人公です。ユダの一連の行動は、申命記5章にも収められている十戒の大部分に抵触しています。
率直に言って「主の目に悪」なのは息子たちよりもユダ本人ですが、神はなぜかユダを死に至らせません。神のみぞ知る不思議な計画のゆえです。それはカナン人タマルの名誉を回復し、ヤコブ一族を救い、ダビデ王を生まれさせ、イエス・キリストを生まれさせるという救いです。
タマルは思慮深くユダの逃げ道をふさぎます。ユダに父親としての認知をさせるために(何しろユダには一度騙されているのですから)、ユダの所持品を預かろうとします。体を売った代金は子山羊一頭。その子山羊が送られるまでの間の「担保」として、彼女はユダだけが持っている「実印」を希望します。紐でネックレスのように首にかける印章です。また、羊飼いユダの杖です。子山羊が届いたら、それらを交換に引き渡そうというのです。
ユダは交渉に応じ、彼女と性交渉をし、その結果タマルはユダの子どもを妊娠することになりました。次の朝、タマルは起き、再び着替えます。タマルは自由に服装を選びますが、ヨセフは他人の意思により服が変わります。そしてユダは相手の服装により、タマルにもまた後にヨセフにも騙されます。物語の地下水脈は、登場人物の服の変化です。
今日の小さな生き方の提案は、神に目を向けることです。罪深いユダを神は死なせませんでした。ユダがタマルに対して行った名誉毀損を訂正するためです。「夫を死なせる妻」タマルは、世界に命を配る神の子の先祖となります。彼女の名誉は福音が告げられるところで必ず回復されます。タマルの大胆な知恵と行動は神に用いられます。元来罪意識に敏感なユダを、さらに悔い改めさせるからです。ユダの自立と悔い改めが、兄弟姉妹の救いと和解を導きます。