13 そしてパンがすべての地で存在しない。なぜならかの飢饉が非常に重かったからだ。そしてエジプトの地とカナンの地はかの飢饉の面前により疲弊した。
14 そしてヨセフは、彼らが買っている穀物でもって、エジプトの地とカナンの地で見出される銀のすべてを集め、ヨセフはかの銀をファラオの家へと持ってきた。
ヨセフは飢饉を利用して、エジプト国家財政を潤しました。「ファラオの家」(14節)と呼ばれる王権は、大量に貯蔵した穀物と銀を交換します。当時は、銀が金よりも価値が高く、貨幣として用いられていました。「エジプトの地とカナンの地」(13・14・15節)が一組の表現で何回も登場します。エジプトの勢力がカナンの地におよび、両者は一つの経済圏だったのでしょう。ヨセフはエジプトとカナンの地にある銀をすべてファラオの家に吸い上げます。「穀物でもって」とあるように、穀物は収奪の手段です。例外は「ヤコブの家」です。この一族だけは銀との交換なしにパンを食べることができました。
15 そしてエジプトの地とカナンの地でかの銀が終わり、エジプトのすべてがヨセフのもとに来た。曰く「あなたは私たちのためにパンを与えよ。そしてなぜ私たちはあなたと向き合って死ぬべきだろうか。実に銀がなくなったとしても」。 16 そしてヨセフは言った。「あなたたちはあなたたちの群れを与えよ。そうすれば私はあなたたちのためにあなたたちの群れでもって与える。もし銀がなくなったのなら」。 17 そして彼らは彼らの群れをヨセフのもとに連れてき、ヨセフは彼らのためにパンを与えた、馬でもって、また羊の群れでもって、また牛の群れでもって、またロバでもって。そしてその年彼らの群れすべてでもって、彼は彼らをパンでもって誘導した。
穀物と交換する銀がなくなった後、エジプトの人々は(ここからはエジプト人だけが問題になっています)ヨセフと交渉に入ります。「ファラオの家」以外にもエジプトには豪族がいました。自警団的軍事力も持ち、商売もし、農業も漁業もする人々です。その代表者たちがみな集まって総理大臣に陳情に来ます。銀がないけれども、命をつなぐ方法を示せというのです。
ヨセフは有力者たちに「財産・道具としての動物」とパンを交換すると言い出します。「馬」は軍事力です。「羊の群れ」「牛の群れ」は酪農。牛は農耕にも、食肉としても用いられます。「ロバ」は荷物の運搬、あらゆる仕事に用いられます。群れでもってパンを得る。パンでもって群れを得る。パンは、豪族たちをある方向へと誘導する手段です。それは「ファラオの家」だけが、強い力を持つという方向です。中央集権です。豪族たちが得たパンはすぐになくなります。しかし、ファラオの家が得た動物たちは残ります。動物用の穀物もファラオの家には蓄えられているからです。太った雌牛のイメージです。
18 そしてその年が終わり、二番目の年に彼らは来、彼のために言った。「私の主人のゆえに、私たちは隠さない。実際のところ銀は終わった。また家畜の群れは私の主人のもとに(ある)。私の主人の前に私たちの体と私たちの土地以外は残っていない。 19 なぜあなたの目に接して死ぬべきか、私たちもまた私たちの土地も。あなたは私たちと私たちの土地をパンでもって買いなさい。そうすれば私たちと私たちの土地こそがファラオに属する奴隷たちとなる。そして種を与えよ。そうすれば私たちは生きる。そうすれば私たちは死なない。そうすればかの土地は荒廃しない」。 20 そしてヨセフはエジプトの地のすべてをファラオのために買った。なぜなら各エジプト人たちが彼の畑を売ったからだ。なぜならかの飢饉が彼らの上に強かったからだ。そしてかの地はファラオに属するものとなった。 21 そしてかの民を、彼はそれを町々のために渡らせた、エジプトの境の末端から、その末端まで。
次の年、銀も群れも失った人々は、「体と土地」(18節)でもってパンを得たいと申し出ます。もしもヨセフが無料で穀物を配っていれば、人々には銀・群れがまだあったはずです。一年前の政策が、体と土地以外にはないという状態へと誘導しています。「体」(ゲヴィヤ)という珍しい言葉の含みは「死体」です(英語のbodyに似る)。死にそうに困窮した状態がうかがえます。「土地」(アダマ)は、人間がそこから創り出された素材です(2章7節)。土を離れて人は生きていけないのですが、もはやその土地もパンでもってファラオの家に収奪されていきます。人(アダム)と土地(アダマ)が一体となってファラオの奴隷となるという表現は(19節)、痛ましいものです。ヨセフが行った過酷な政策を描いています。
自分の土地を持った農民たちが、土地を借りて耕作する小作農に転落していきます。ファラオの家の土地を借りて、種も支給されて、ファラオの家のために農業をすることとなります。牛も、ロバもファラオに借りるしかありません。ヨセフはパンでもってエジプトのすべての土地をファラオの家に属するものとしました。例外は「ヤコブの家」です。彼ら彼女たちはゴシェンの地の一角を所有し、羊・牛・ロバを所有したままです。
出エジプトはヘブライ人たち奴隷の解放の出来事でした。ここで行われていることはその裏返しです。21節を新共同訳等は「奴隷として使役した」としますが、ギリシャ語訳に基づく復元です。原文は「町々のために渡らせた」です。「渡る」(アバル)は「ヘブライ人」(イブリーム)の語源。ヘブライ人とは「渡り者」という意味です。つまりヨセフは、土地を持たなくなったエジプトの民をさまざまな町に強制的に移住させたのです。地縁を引き剥がせば支配しやすくなるからです。バビロン捕囚に似ています。ヘブライ人であるヤコブの家がゴシェンの私有地に定住し、定住していたエジプト人が渡り者とさせられる。この意趣返しがエジプト人のヘブライ人に対する憎悪に変わります。
22 祭司たちの土地だけ彼は買わなかった。なぜなら祭司たちのためにファラオから給与(があり)、彼らはファラオが彼らに与えた彼らの給与と共に食っていた。それゆえに彼らは彼らの土地を売らなかった。 23 そしてヨセフはかの民に向かって言った。「見よ、私はあなたたちを買った、今日、あなたたちの土地とをファラオのために(買った)。さあ、あなたたちに属する種(だ)。そしてあなたたちはかの土地に種を蒔け。 24 そして収穫の時となったら、あなたたちは五分の一をファラオのために与えよ。そうすれば、かの手の四つはあなたたちに属するものとなる。畑の種のために、またあなたたちの食物のために、またあなたたちの家の中に(いる)者のために、またあなたたちの小さい者たちが食べるために」。 25 そして彼らは言った。「あなたは私たちを生かした。私たちは私の主人の目に恵みを見出す。そして私たちはファラオに属する奴隷たちになる」。 26 そしてヨセフはそれを規定に置いた――今日まで(あるのだが)――、エジプトの土地について五分の一をファラオのために。祭司たちの土地だけ、それらだけファラオに属するものとならなかった。
もう一つの例外が記されます。これもまたヨセフの家族と関わります。祭司たち・神官貴族たちです。ファラオは、祭司たちには給与を支払っていました。その銀で祭司たちはパンを買うことができました。
古代社会は政教一致した社会です。政は祭り事。宗教者は公務員です。神託は国家政策に影響を及ぼします。国家儀礼によって神の意思通りの政策を実施しなくてはいけません。政治家の失政は、神の意思に沿っていない政策なのですから、神の裁きの対象となります。たとえば「飢饉」「戦災」「疫病」によって、神は王の失政を評価すると考えられています(サムエル記下24章)。
王家と神官貴族の癒着はおなじみの構図です。両者はもたれ合ってそれぞれの権力を補強していました。しばしば両家は政略結婚をします。総理大臣に取り立てられたヨセフが、「オンの祭司ポティフェラの娘アセナト」と結婚したことは偶然ではありません(41章50節)。おそらくヨセフを、王家とも関係のある神官貴族の一族にするための政略結婚です。
こうしてヤコブの家とヨセフの家(や他の神官貴族)だけが土地や財産を確保できた一方、それ以外の人々はことごとくファラオの家に所属する者たちとなりました。ヨセフの統治の特徴は依怙贔屓と国家の私物化です。
ところが不思議なことに、人々はヨセフに感謝をします。「あなたは私たちを生かした。私たちは私の主人の目に恵みを見出す。そして私たちはファラオに属する奴隷たちになる」(25節)。「感情の錬金術」とでも言うべき現象です。ヨセフが神官・祭司でもあったから宗教的ありがたみも発していたのでしょう。人々はある意味「自発的に」ファラオの奴隷になっていきます。政教分離原則を厳しく守らなければいけない理由です。本当は国家によって仕組まれているのにもかかわらず、「無償の奉仕」を善と意味付けする宗教の力で、人々は自分からファラオを拝み、ファラオの奴隷となっていきます。支配は、支配されたがる人によって完成されるものです。
本当は、ファラオとヨセフが10年ぐらい前から練っていた誘導政策だったのですが(41章34節)、日々の生活で切羽詰まった人々は、そこまで考える余裕がありません。「税率20%ならば悪くない」と考え、喜んで受け入れます。現代的にもそこまで重税と言えないでしょう。真に重要な点は小作料/税率の高低ではなく、それ以前の問題です。すなわち人々が自分の持っていた力・権利・財産を、パンと交換させられ奪われたということが問題です。ファラオが全てを握る。そしてすべての人が奪われたのではなく、奪われない人々もいたということ、しかもそれは総理大臣の関係者ばかりだったということが問題です。
この後、王朝が変わりヨセフのことを知らない新しい「ファラオの家」が登場した時に、エジプトはイスラエルへの迫害を始めます(出エジプト記1章)。それを可能にしたのは、エジプトの民の世論です。「イスラエルの民は国家によって依怙贔屓されている」という不平等感です。皮肉なことにヨセフの圧政、人々の弱みに付け込んでパンでもってすべてを奪った政策が、後のヘブライ人迫害の火種となったのでした。
今日の小さな生き方の提案は、ヨセフを反面教師とすることです。自分に委ねられた力を濫用してはいけません。ヨセフはパンを配るべきだったのです。自分の一族に対してだけではなく、エジプトの人々にただでパンを分かちあえば、キリストの救いを行えたのに、その機会を棒に振ったのでした。どうしてもどこかの国の総理大臣を思い出してしまいます。「公正」「贈与」ということの意義がいつの世にあっても損なわれています。
市場経済(その時々の「等価値」同士の交換)に私たちは毒されすぎているのでしょう。「贈与経済」という考え方があります。ただであげることを価値とする社会です。プレゼントをすると気持ち良いです。お返しがない方がより気持ち良いものです。複数の不規則な贈与のやりとりで集団が生きていけるなら、それ以上に爽やかな社会はないでしょう。教会は贈与経済によって人を救う交わりです。神が神の子をただでくださったからです。その方に倣う交わりを作りましょう。それが新らしい「公正」を創り出します。