ヨナのしるし ルカによる福音書11章24-32節 2017年7月16日礼拝説教

今日の箇所には三つの話題が並んでいます。①「汚れた霊の性質」(24-26節)、②「幸いの呼びかけ」(27-28節)、③「悔い改めの勧め」(29-32節)と、小見出しを付けて説明を進めていきます。

このうち②は、ルカ福音書にのみある物語です。①と③は、ほとんど同じ文言・内容でマタイ福音書にも掲載されています(マタイ12章38-45節)。ただし、マタイの場合は順番が逆です。③「悔い改め・・・」が、①「汚れた霊・・・」よりも先にあります。

文言レベルまで一致しているということは、ルカやマタイが福音書を編纂する前に、両者共に参考にしていた「ギリシャ語の文書」があったということです。共通文書がなければ単語レベルまで一致しません。共通文書の段階では、マタイが保存している通り、③①の順番だったと推測されます。その順番を、ルカ福音書を編纂した人々(ルカ教会の教会員たち)が入れ替えたのです。その理由は、ベルゼブル論争が悪霊を話題にするものだからです。似た主題をまとめるために①を先に移動し、そしてさらに、①と③の間に彼ら彼女たちしか知らない特別の言い伝えを挿入したのでしょう。それが②「幸い・・・」です。

この編集によって、読者は②の「幸い」を中心にして、①と③を読み直すように仕向けられます。ルカ福音書は冒頭の1章3節で「順序正しく」と書いていますが、これはルカ教会員が考える「正しさ」なのであって、時間的・客観的歴史の順序ではありません。四つの福音書を並べて読めば、かなり時間順序がそれぞれ異なっていることが分かります。そのように多元的な正しさが共存していることは良いことです。画一化よりも多様性が重要だからです。

ルカ福音書全体で「幸い」はどのように用いられているのでしょうか。エリサベトという女性がいました。息子ヨハネを妊娠している時に、親戚のマリアという女性の訪問を受けます。マリアの挨拶を聞いた時、「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言」います(1章41-42節)。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(同45節)。エリサベトからマリアへという場合の呼びかけです。

次にイエスから人々へという場合です。「貧しい人びと/今飢えている人びと/今泣いている人びとは幸いだ」(6章20-21節)。この言葉は皮肉に満ちた逆説の真理です。貧しいことそのものは幸せでもなんでもないからです。

今日の箇所は人々からマリアへという幸いの呼びかけです。イエスを宿した胎、イエスが吸った乳房が幸いだと言っているからです(11章27節)。注目すべきは、イエスがそのようなマリア賛美、または「出産によって女性の価値が上がる」ことそのものを即座に打ち消していることです。「むしろ幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(11章28節)。この打ち消しは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と呼応しています。これも実母・血のつながりを批判する文脈です(8章21節)。

さらに十字架を背負って歩く場面にも幸いの呼びかけがあります。民衆と女性たちが嘆き悲しんでいる時に、十字架を背負ったイエスが女性たちの方向に振り向いて言います。「わたしのために泣くな。むしろ自分と自分の子どもたちのために泣け。人々が『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』という日が来る」(23章27-29節)。これは大きな皮肉をイエスが言っている場面です。十字架を背負って苦しんでいるわたしよりも、あなたたちの方が不幸だと言っているからです。ここでも「出産によって女性の価値が上がる」ことをイエスは批判しています。

エリサベトも「出産によって女性の価値が上がる」という不当な考え方に苦しめられていました。だからエリサベトが幸いだと言ったのは、「出産できる女性マリア」に対してではなく、「不条理な出産を強いられているけれども、そこにも神の言葉/意思が実現すると信じる人マリア」に対してです。

聖書の語る「幸い」は、この世の固定観念と反します。「女の幸せはやっぱり出産」という女らしさや、男らしさではありません。そのようなものはいつか打破されます。今笑っている人はいずれ泣きます。この世の固定観念、固定的仕組みで苦しんでいる人、それでもなお神と神の言葉を信じて、逆転を信じて葛藤し続ける人にこそ、幸いがあります。そちらの方が人間としてまっとうな生き方だからです。十字架を負う方が幸いなのです。

非常に皮肉と逆説に満ちた言い方でイエスおよびルカ福音書は、「幸い」を語っています。そこに「汚れた霊・・・」「悔い改め・・・」の言葉を読み解く鍵があります。それぞれをこの視点で読み直してみましょう。

①「汚れた霊の性質」(24-26節)を説明する教えも皮肉に満ちた物言いです。この教えに従うと、悪霊祓いをすることの意義が失われます。人から出て行った悪霊は、任意に戻ることができるというのです。しかも、自分よりも悪い七つの霊を仲間として連れてきて、その人の状態を悪化させることすらあるというのです。もしそうだとしたら、一つの悪霊に居続けてもらった方がましではないでしょうか。

悪霊祓いの度ごとに病状が悪化するという患者がいたのかもしれません。マグダラのマリアが「七つの悪霊を追い出していただいた」(8章2節)と紹介されていることも、医者の治療行為によって財産を失う人の状況を示唆しています(8章43節)。そのような負の連鎖や不条理に満ちた現実生活への批判を、イエスは言ったのでしょう。ここで「汚れた霊の性質」と言われている問題は、「困っている人をさらに困らせる社会の性質」の問題です。

良心的な医者であるルカは、イエスの優れた治療行為に賛成しています。イエスこそ最終的な悪霊祓いをし、マグダラのマリアや出血に悩む女性を負の連鎖から救い出す方です。彼女たちこそ、「出産によって女性の価値が上がる」という価値観と関係なく、幸いな人びとです。貧しくさせられ、嘆き悲しみ泣き、飢えていたけれども、神への信を失わずに、葛藤の中で神の国の住民となり富み・笑い・満腹したのです。

そして、ルカは「汚れた霊の性質」をこの位置に動かすことでイエスの主張を補強しています。「悪霊には仲間がおり仲間意識が強い。一緒に一人の人に取り憑き、レギオン(軍団)を成すことさえある(8章30節)だから悪霊の頭は悪霊を追い出さない(15-18節)」。これはベルゼブル論争への加勢です。

③「悔い改めの勧め」に移ります(29-32節)。原文では「ソロモンよりも多い事柄」(31節)、「ヨナよりも多い事柄」(32節)とあります。要点は、「者」ではなく「事柄」であることと、「大きい」ではなく「多い」であるということです。新共同訳聖書も「もの」と平仮名にしている通り、人物と人物の比較をここでしているわけではありません。

その一方でヨナという人物が、イエスに喩えられていることは明白です(30節)。「天からのしるし」(16節)ではなく、目の前に立っている宣教者が「時代のしるし」です。ヨナはニネベの人々に「悔い改めよ」と宣教しました。それと同じようにイエスは、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである・・・」(4章18節)と宣教しました。真の幸いは、神の言葉を聞いて、神の出来事の実現を信じて祈り、神の意思を行うという、一連の悔い改めにあります。

「今の時代はよこしまだ」とイエスは断言します(29節)。それは悪霊/汚れた霊が支配しているからです。困っている人をさらに困らせる仕組みが、現にあります。長時間労働で苦しむ人、働きたくても働けない人、米軍基地で苦しむ人、被曝で苦しむ人、格差の拡大と共に低賃金で苦しむ人、家がなくて苦しむ人、さまざまな差別で苦しむ人がいます。課題を理解しながらも、わたしたちはこの仕組み全体を変えることができずに歯ぎしりをしています。超常現象は何の解決にもなりません。

解決のための参考は、パレスチナから見て南東の国の女王とその随伴者たちや(王上10章)、同じく東北のアッシリア帝国の国王とその首都ニネベの住民・家畜たちです(ヨナ書3章)。彼ら彼女たちは悔い改めの模範例です。しかも膨大な数の悔い改めです。よこしまな今の時代の人びとが悔い改めないならば、この雲をなすような大勢の証人たちが、わたしたち今の時代の人々を罪に定めると言うのです(31・32節)。過去の歴史に学ばないならば、歴史がわたしたちを問い詰めるでしょう。

この悔い改めの模範には共通する特徴があります。一つは数が多いということです。「多い事柄」と記しているとおり、ソロモンの悔い改めや、ヨナの悔い改めよりも単純に悔い改め者数が多いのです。しかも旧約聖書に明らかなように、ソロモンもヨナも悔い改めていません。ソロモンは晩年悪行の限りを尽くして死にます。ヨナも物語の最終盤まで原理主義的民族主義者のままであり、悔い改めたかどうかは不明なまま物語は終わります。それに反して、文明国である南の国の女王・随伴者らは、ソロモンの王国を訪ねて自分たちの狭い了見を悔い改めました。敵国アッシリア帝国の首都ニネベの住民は家畜に至るまで悔い改めました。彼ら彼女たちはヨナやソロモンよりも「多い事柄」です。権力者を筆頭に多数の意見を変えさせれば世の中は変わるという事実を、イエスは教えています。

もう一つの特徴は、彼ら彼女たちは非イスラエル人、外国人であるということです。この点でもイスラエル人のヨナとソロモンと異なります。〔ただし、ソロモンの母親バト・シェバは、ヘト人である可能性もありますし、ひょっとすると南の国の女王シェバの娘である可能性すらあります。〕要するに国際比較です。社会の改善は、諸国間の良い意味の改善競争、模範の見せ合いによってなされます。

赤ん坊の時から大学院卒業まで保育費教育費が無料の国が実際にあります。軍隊が無い国は実際にあります。国民投票を年に4回行って政策を決めている国、女性が国会の半数を占める国、貧しい子どもたちに芸術鑑賞の切符を配っている国、国を超えて選挙を行っている国々が実際にあります。先に悔い改めた外国の人々から学ぶことがわたしたちに求められています。

今日の小さな生き方の提案は、よこしまな時代に安易な解決(しるし)を求めないことです。スーパーマンは要りません。風が吹くと大勝/大敗する選挙の文化は独裁者を歓迎する文化です。わたしたちに必要なのは地味な悔い改めの連鎖です。キリストの福音によって自らの狭い視野を広げつつ、価値観を押し付けて人を困らせる社会や、困っている人をさらに困らせる社会を悔い改めさせる一人になりましょう。「反対」と言っているだけの一人でも駄目です。権力者も随伴者も説得し悔い改めさせ、多数を形成しなくてはいけません。

わたしたちは教会という組織を維持するために仲間を増やすのではありません。それは汚れた霊でさえする行いです。そうではない。よこしまな時代を悔い改めさせるために、国際的にも開かれて多くの仲間を募るのです。