ヨハネの投獄 ルカによる福音書3章15-20節 2016年6月19日礼拝説教

「漠然とした救世主待望」ほど恐ろしいものはないと思います。「決断力があって行動力がある人がリーダーになることは良い」という要因と、「テレビで顔と名前が売れている人(やその親)」という要因が、政治家を選ぶ尺度になると、政党政治や代表制民主政治というものは廃れていきます。結局テレビはスポンサー企業の言いなりです。だから広告業界の大手スポンサー企業が、視聴者を煽って知事も総理大臣も決めることができる(石原慎太郎・橋下徹・小泉純一郎・安倍晋三の例)、この点に日本社会の病理があります。

「決められない政治」は悪なのでしょうか。「暴走する政治」よりもましであると思います。さまざまな人々が納得するようにゆっくり決める政治こそが大切です。個人に大きな期待を寄せて権力を委ねることは、ヒトラーを民主的に選んでしまった愚行の教訓を生かしていません。

バプテスマのヨハネが生きていた時代も同じです。人々は「漠然とした救世主待望」を持っており、もしかしたらヨハネがメシアではないかと、皆心の中で考えていました(15節)。メシア(ギリシャ語クリストス=片仮名表記キリスト)は救い主という意味です。もともとヘブライ語マシアハ(油注がれた者)に由来し、神から任命された王に用いられました。ユダヤ人たちは王を任命する際に、その王の頭に油を注いだからです。

ヨハネの説教を聞き、その雄弁さにうっとりし、その内容に深く共感した人々は、ヨハネが王として君臨してくれたらと願ったのでしょう。「決められる政治」を実現してくれる有名人のようなものです。

さて15節前半の原文には、「メシアを」という単語すらありません。もうひとつの可能性として、もっと漠然と「こんな世の中終わってほしい」と世の終わりを待ち望んでいた人もいたかもしれません。少し前に、「戦争を希望する若者たち」が紹介されたことがありました。就職氷河期で仕事も無い・年金制度も破綻して老後も苦労する、それぐらいなら戦争が起こって世の中がめちゃくちゃになってくれた方がましだという考え方です。絶望の深さを逆説的に言い表しています。

このような破滅的世の終わりを待ち望む世相も、独裁者を待ち望むことの温床となりやすいものです。高等教育を受けられない貧しい若者たちの不満が、しばしばヘイトスピーチになったり、排外的な独裁者への熱烈な支持になったりすることは、日本だけではなく多くの国で見られます(トランプ現象)。

古代ユダヤは重税社会です。多くの支配者たちへ税金を人々は納なくてはいけませんでした。ガリラヤに住む人々はガリラヤの「領主ヘロデ」(19節)にも住民税を、またローマ帝国にも人頭税や通行税を支払わなくてはなりません。さらにエルサレムの神殿貴族にも「献金」という名前の税金を支払っていました。

植民地ユダヤ人議会の4分の3議席を持つサドカイ派は(富裕層)、支配者であるローマ帝国寄りの政治立場でした。ちょうど自民党が親米保守であるのと似ています。4分の1議席を持つファリサイ派は(中産階級)教理的には非ユダヤ人差別(=反ローマ人)ですが、政治的な意味での反ローマ政策は訴えません。この二派が政権を運営する体制派です。

反体制派も二派、エッセネ派・ゼロテ派とあります。どちらも植民地ユダヤ人議会のとる親ローマ帝国政策に反対です。しかしエッセネ派は非政治的な修道宗団ですから、人々の期待には応えられません。唯一ゼロテ派だけは(貧困層)政治的に反ローマ帝国を標榜し、武力革命も肯定していました。

マタイ福音書によれば、ヨハネのバプテスマによる生き直しを願った人々がサドカイ派とファリサイ派のみとなっています(マタイ3章7節)。彼らはその当時の社会階級別「政党政治」に嫌気をさしたのでしょう。彼らはヨハネがサドカイ派のエリートだった生き方を止め、いったんエッセネ派にはいったけれどもそこも飛び出し、独自の宗団を作っていることを知っています。彼らの待望は、ゼロテ派の主張と近いかもしれません。ヨハネに油を注ぎ王とし、ユダヤ植民地政府を倒し、ヘロデら領主たちをも併合し、話し合いによってローマ帝国からの独立をかちとる。そして、ヨハネが語る「再分配の経済政策」を実現して欲しかったのでしょう。徴税人も抱え込み、ローマ兵にも道を説くヨハネならば、それができると、彼らは期待しました。

ところがヨハネは、人々に「自分はメシア/キリスト/救世主ではない」と語りました(16-17節)。むしろメシアと呼ばれるべきは自分よりも後に来る人であると言います。それは半年遅く生まれた親戚のイエスです。ただし「メシアがイエスだ」とも明言していません。イエスは人々が期待するような油注がれた者・王・政治指導者ではないということも言いたかったからでしょう。

ヨハネより後から来るイエスは、どの点でヨハネよりも優れているのでしょうか。鍵となるのは、神をどのような農民と考えるか、人間をどのような収穫物と考えるかです。神と人の姿の違いが、水のバプテスマと、聖霊のバプテスマの違いとして現れます。

ヨハネの描く神は、悪い実を結ぶ果樹を切り倒し焼き払う果樹園労働者です(9節)。それに対してイエスによって示された神の姿は、穀物を脱穀する農民・脱穀場をきれいに掃除する農民・もみ殻だけを焼き払う麦畑労働者です(17節)。確かに、神が農民であることと、人間が収穫物に喩えられていることは共通しています。しかし、人間に対して、神の行動が異なります。果物の味見をしてだめだったら切り倒すというのは、単純な見方です。それに対して、脱穀することは味見までに手間がかかっています。しかも最終的には粉に挽いてパンを作るまで味自体はよくわかりません。ここには人間観の違いがあります。誰もが一皮むけて良い人になれる、評価を急がずゆっくりと見守らなくてはいけないのです。または芯の部分にはすべての人に良心があるという、楽観的な人間観があります。農民はもみ殻だけを処分するということは、「罪を憎んで人を憎まず」というような意味でしょう。行為としての悪は処罰されても、その人の命は保全されるのです。

水のバプテスマ=水に沈めることは、完全な死を象徴します。すべての人はだめな果樹であるということです。一度古い自分を清めるために死ななくてはいけないし、神はそのために準備万端です。聖霊のバプテスマは脱穀にたとえられます。自分の罪は指摘され、ある意味で精錬されますが、いらない部分だけが外され、実の部分・良い部分は残されるのです。神は丁寧に仕事をします。麦の一粒も取りこぼしのないように倉に入れ、もみ殻だけを掃き集めて焼き払います。

バプテスマのヨハネの描く神は、人を「ごめんなさい」と言うことに導きます。だめな果物であるわたしたちは神の前で言い訳ができない息苦しさを感じるからです。このような方法で神は、新しく生まれ変わって愛を行うように導きます。

イエス・キリストによって現された神は、人を「ありがとう」と言うことに導きます。毒麦か良い麦かわからないままに脱穀してくれる神の前で、自分が期待されていることを感じるからです。このような方法で神は、新しく生まれ変わって愛を行うように導きます。

ヨハネは自分の方法に手応えも感じていましたが限界も知っていました。イエスの方法はより優れています。なぜかといえば、人々に対して高飛車ではないからです。また神の姿が、より大らかに考えられているからです。なお、麦畑労働者としての神の姿や神の国の姿は、イエスの他の多くの譬え話で展開されていきます。

ところでヨハネは、イエスを名指しして救世主がユダヤ人を救うとは約束しませんでした。ただ、「自分より優れた人が登場し、人々に聖霊のバプテスマを施す」と約束しただけでした。イエスもまた政治的王ではないからです。ヨハネにもイエスにも、自分が指導者となって、サドカイ派・ファリサイ派政権の交代を促すことや、ローマ帝国からの政治的独立を果たすことは、目標としてはなかったでしょう。

二人はもう少し違う観点でものごとを考えていました。支配者であれ、被支配者であれ、神の前では一人の人間に過ぎないという視点を大事にしていました。人は個人として尊重され、個人として裁かれるということです。有名人ではなく、名も無い一人ひとりが古い自分に死に、新しく生まれ変わるときに、世界は平らかになるものです。そのような個人の集まりが、住みやすい制度を試行錯誤しながら造り直し、神の国の模型を実践し、困っている人を救う経済を行えば良いわけです。メシア待望という熱狂は不要です。

徴税人も、ローマ兵も、そしてガリラヤ地方の領主ヘロデも、ヨハネの目には神の前に立つ個人として同じです。ヘロデは自分の弟フィリポの妻ヘロディアを、強引に自分の妻としていました(19節)。明確な律法違反です(レビ記18章16節)。その他にもさまざまな悪事を行っていたようです。ヨハネはヘロデにもバプテスマを勧め、生き直せと主張します。こうしてヨハネは正しいことを言ったにもかかわらず逮捕され投獄されます(20節)。この不条理・悪事・不正義の前に人々の熱狂はしぼみます。これは個人のスーパーヒーローが登場すれば世の中が良くなるという幻想を打ち砕くための教育です。

イエス・キリストの十字架もヨハネの投獄・獄死と同じ教育効果を持っています。熱狂的幻想ではなく、冷静着実に本当の希望を持つようにと、復活のイエスは福音を告げ知らせます。義人は必ず復活します。どんなに不正義が起って義人が殺されても、その人の言葉と行いは、聖霊を宿す一人ひとりに植えられ実を結びます。

人々を強力に支配する人によってわたしたちは救われるのではありません。むしろ人々の靴ひもを脱がせ人々の足を洗う人が一人ずつ生まれることによって、わたしたちは互いに仕え合い救われていくのです。教会という交わりは、脱穀され一皮むけた個人の集まりです。ここに神の国の模型があり、バプテスト教会の自治が社会制度の模型となります。サドカイ派・ファリサイ派・エッセネ派・ゼロテ派や、さらにはそこに含まれないすべての個人に、イエスは呼びかけました。未熟なメシア待望から脱皮して、一人ひとりが成熟し聖霊の実を結ぶ判断ができる個人となろう、そのために集まろうと、招いています。

今日の小さな生き方の提案は、重要な選挙を前にするわたしたちの心構えです。煽られる未熟な群衆ではなく、成熟した個人として自分の意思を示しましょう。雄弁さ・見かけ・知名度ではなく、愛を行うという正義や約束したことを行う誠実さがあるかどうかが判断基準です。メシアや王は要らないのです。そして当選した後も政治家に対して正義と誠実さを求め続けることです。選挙の時だけ思い出す幼稚さからわたしたちは脱皮しなくてはいけません。憲法と代表制民主政治、経済と税制、教育と福祉。それぞれに個人が理念と政策を持ち、教会の自治を参考に熟した判断をしていきましょう。