ラケルの嘆く声 マタイによる福音書2章16-18節 2020年12月27日礼拝説教

【マタイによる福音書21618節のギリシャ語本文からの私訳】

16 その時ヘロデは、彼が博士たちによって嘲られたということを見て、大いに怒った。そして(彼は)遣わして、ベツレヘムにおけるまたその全ての領域における、二歳以下の全ての男の子たちを殺させた、彼が博士たちから確証された時点に従って。 17 その時預言者のエレミヤを通して言われたことが満たされた。曰く、 18 「声がラマにおいて聞かれた。大いなる哀悼と悲嘆が(聞かれた)。ラケルが彼女の子どもたちを悼み続けている。そして彼女は慰められることを望まなかった。なぜなら彼らがいないから」。

 

【エレミヤ書3115節のヘブライ語本文からの私訳】

15 このようにヤハウェは言った。

声がラマにおいて聞かれた。哀悼、苦みの叫びが(聞かれた)。

ラケルが彼女の息子たちについて叫び続けている。

彼女の息子たちについて慰められることを拒みつつ。

なぜなら彼はいないから」。

 

最古のギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳)よりもマタイ福音書の引用の方がヘブライ語本文に近い。

 

 クリスマスは生と死について思いを馳せる季節です。ルカ福音書のクリスマス物語は馬小屋や飼い葉桶を十字架の予告としています。宿屋に象徴される人間社会から締め出された神の子の姿は、十字架という処刑台で人間社会から抹殺された神の子の姿と重なります。マタイ福音書のクリスマス物語は博士たちの贈り物に没薬があったと報告しています。死者につける薬である没薬は、十字架後の埋葬を予告しています。十字架で殺されるために生まれた神の子の誕生を、ルカもマタイも記しています。

 さらにマタイ福音書はヘロデ大王によるベツレヘムの幼児虐殺事件を記し、生と死をくっきりと色分けしています。イエス・キリストが生まれ、エジプトに逃れて生き延びる一方で、彼がそこで生まれたという理由だけで二歳以下の男の子だけが殺されたというのです。キリストの命は子どもたちの死と引き換えなのでしょうか。そのような説明で遺族たちは納得できるでしょうか。この出来事はクリスマスを祝う際の「小骨」となって、ずっと私たちの喉にひっかかっています。どのようにして私たちはこの記事を「福音」(良い知らせ)として読むことができるのでしょうか。

 マタイ教会はおそらくモーセ出生の出来事に、キリスト出生の出来事を重ね合わせています。権力者の横暴によって多くの男の子が殺される一方で、後にイスラエルを解放するモーセだけが奇跡的に救われたことが出エジプト記2章に記載されています。いつの世も権力者というものは身勝手です。これはこれで正しい指摘です。またキリストが第二のモーセであることや、モーセ以上の方であることに異論ありません。しかしそれだけでは「良い知らせ」にはなりえません。なぜなら私たちはここで、突然生命を奪われた子どもたちの叫びや、子どもたちを奪われた、ベツレヘムの住民の嘆きに共感しているからです。この人々への救いが語られないならば、それは福音ではありません。

 しばしば旧約と新約の関係は「預言と実現」や「律法と福音」と語られます。しかしわたしたちはここで発想を転換して、福音そのものを聞くために旧約聖書に接近していきたいと考えます。それは「マタイ教会が引用しなかった続きの物語」をとりあげることでもあります。

 族長ラケルはヤコブの最愛の妻でした。二人の息子を生みます。ヨセフとベニヤミンです。二人の息子はイスラエル十二部族の内の三つの部族の始祖となります。末っ子ベニヤミンを生む時にラケルは死にました(創世記35章16-18節)。ラケルが葬られた場所はベツレヘムへと向かうエフラタという所だったとされています(創世記35章19節)。二つの土地は極めて近かったのでしょう。ベツレヘムとエフラタは同一視されます(ミカ書5章1節)。マタイ福音書を編纂したマタイ教会の人々は、ベツレヘムという地名からラケルを連想し、さらにラケルからエレミヤ書31章を連想したのでしょう。

くどいようですが創世記35章において死んだのはラケルの息子たちではなくラケルです。だからエレミヤ書31章は創世記35章の物語を逆さまにしています。ベニヤミンが死んだことをラケルが嘆いたことはありません。ラケルが死んだことを息子ヨセフや夫ヤコブが嘆いたのです。

なぜ預言者エレミヤがあえて逆さまにして書いたのかには理由があります。ラマはベニヤミン部族の町です。そしてエレミヤの時代、南ユダ王国(ユダ部族とベニヤミン部族から成る)は、新バビロニア帝国の侵略戦争に敗れ完全に滅ぼされました(紀元前587年)。南ユダ王国の高官たちはバビロンに連れて行かれました。バビロン捕囚と言います。その時ラマという町に捕囚民が一旦集められたと言われています。ベニヤミン部族出身の預言者エレミヤは、よく知っているラマの町に行き、そこから多くの人々が出発させられる様子を見ながら、連れて行かれる人の家族が嘆き悲しんだ様子を、ベニヤミンの母ラケルに重ね合わせたのです。

ここでエレミヤは先祖であるラケルと自分自身も重ね合わせています。涙の預言者と呼ばれるエレミヤの真骨頂です。ラマで聞こえる嘆きの声は預言者自身の泣き声です。連れて行かれた南ユダ王国の高官たちの中には、エレミヤの政敵も支援者もいました。しかし民全体に遣わされた預言者は度量の狭いことは考えません。民全体の代表者たちがごっそりいなくなる悲劇を、民族の母ラケルになり代わって自分自身が嘆くのです。

バビロン捕囚という破局と、エレミヤがベニヤミン部族出身者であることを理解すると、なぜラケルがラマで(エフラタでもなくベツレヘムでもなく)嘆くのかが理解しやすくなります。

ところでマタイは31章15節しか引用しませんでしたが、エレミヤ書には続きがあります。招きの聖句で取り上げた部分です。31章16-17節を読みます(新共同訳聖書 旧約1235ページ)。

 

16 主はこう言われる。

泣きやむがよい。

目から涙をぬぐいなさい。

あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。

17 あなたの未来には希望がある、と主は言われる。

息子たちは自分の国に帰って来る。

 

エレミヤ書31章の「息子たち」は南ユダ王国の高官たちのことです。この人々は殺されたのではなく、生きたままバビロンに連れて行かれました。その息子たちがいつかラマに帰って来るという希望の言葉が、実は15-17節の一塊なのです。ラケルの嘆きの声は、いつか喜びの声に変わるという預言が、エレミヤの言いたかったことです。15-17節には四回も「主は言われる(主の託宣)」と繰り返されています。神は嘆き悲しみ、慰めを拒むラケルを、慰め続け励まし続けています。

これはラマでエレミヤが体験した実際の出来事なのでしょう。捕囚民を涙ながらに見送り、いろいろな人からの慰めを拒否した彼に、主なる神ご自身が声をかけ、慰め励ましたのでしょう。「バビロン捕囚はいつか終わる。息子たちは必ず帰って来る。あなたの未来には希望がある」。この言葉によってエレミヤは再び立ち上がることができたのだと思います。

マタイがエレミヤ書31章の引用を15節で止めたのも、16-17節が希望を語っていることに気づいたからかもしれません。ベツレヘムの息子たちは殺され再び戻ってくることはないのだから、16節以降を引用することはふさわしくないという判断があったのでしょう。しかしそれは正しい判断なのでしょうか。特に現在わたしたちが置かれている苦しい状況においては、むしろ16-17節までも引用し希望を確かめた方が良いと考えます。

エレミヤの目の前でいなくなった人はみなバビロンで死にました。約束の地に帰って来たのは50年後の彼らの子孫たちです。主の希望の約束は、ある意味当たり、ある意味外れました。エレミヤもその出来事を見ることなく死にました。しかし、大事なことはラマでエレミヤが立ち上がる力を得たということです。神の救いは人間の望む形の救いではないかもしれません。しかし救いの希望が与えられることで、今立ち上がるという救いが与えられます。

新型コロナウイルスによって愛する家族を失った人々の嘆き悲しみと、ベツレヘム住民の嘆き悲しみは重なり合うと思います。理由が分からない不条理の苦しみだからです。国の崩壊や、政府の崩壊を前に力を失うエレミヤの嘆き悲しみは、何も頼るものを失っている私たちの不安と、終わりの見えない私たちの絶望と、重なり合うと思います。歴史の中で収まらなかったパンデミックはありません。しかし、いつ・いかに収まるかについてわたしたちは知らないままです。だからわたしたちはラケルの嘆きを今も続けています。

嘆く私たちに主はこう語りかけられています。「泣くことを止めなさい。涙を拭きなさい。あなたの苦しみはよくわかる。あなたの未来には希望がある。あなたが失ったものは必ず帰ってくる。」

わたしたちは「新しい日常」と呼ばれる毎日の中で、多くのものを失い続けています。家族、仕事、仲間、行動の自由、時間等々。それらの大切なものは、そのままの形ではないかもしれませんが、必ず戻ってきます。根拠は、神の言葉だけです。息子たちを失ったベツレヘムの住民(ラケルたち)が望んでいたことは、繰り返しなされる希望の言葉かけだったと思います。「あなたたちの未来に希望がある」と言われ続けたかったと推測します。

本日の小さな生き方の提案は、将来を約束する神の言葉に希望をおくことです。その希望がわたしたちを今立ち上がらせてくれるからです。「新しい」か「古い」かは知りませんが、わたしたちはこの暗い日常を生きなくてはいけないのです。そのために必要な糧はただ一つ。あなたの未来に希望があるという神の言葉です。