ヤコブは従姉妹二人と同時に結婚することになりました。目の悪い姉のレアと、羊飼い仲間である妹のラケルです。ヤコブの心境は複雑です。元々はラケルとのみ結婚したかったからです。先週申し上げたとおり、ヤコブは今までよりはレアを尊重するようになりました。能力主義者のヤコブも、視覚障害を理由にレアを見下すことをやめる努力を始めました。
しかし、もちろん両者を比べればレアよりもラケルを、ヤコブは愛していました。奇妙な新婚生活が始まります。それは、ヤコブに収入がない期間でもあります。結婚してからさらに7年間、報酬なしにラバンの家の羊飼いとしてヤコブは働くことになりました。経済的な自立を果たしていないことはヤコブにとって辛いことです。それでも労働で手を抜くことはできません。伯父であり舅でもあるラバンと共に働いているからです。
ここに神が介入します。ヤコブ物語において、神は今まで一切介入しませんでした。神が登場しない人間のみの物語は、登場人物たちを重層的に描いていました。誰も一面的に良い人または悪い人と決めつけられないような描き方です。ずる賢いリベカ、ヤコブ、ラバンも、それぞれなりに理由があって行動しています。愚かしくみえるイサクやエサウも一所懸命に生きているのです。神による判断が一切なされないので、読者は一人の人に良いも悪いも含め色々な面があることを認めながら読み進めてきました。神の介入は、ものごとの判断基準をわたしたちに示します。混沌の中に差し込む一条の光です。
「ヤハウェは、レアが嫌われているのを見た(ラアー)。そして彼は彼女の子宮を開いた」(31節)。神はその場で最も貶められている者の神です。レアが嫌われ続けているのは(原文は受身の進行形)、夫ヤコブからではないでしょう。むしろ視覚障害者を生きづらくさせている社会全体から、レアは嫌われています。その課題は今も現在進行形で続いています。いわゆるヘイトクライム(憎悪による犯罪)と呼ばれるものです。当然の社会保障を受けるだけで、「優遇/特権」と曲解され、「○○のくせに生意気だ」と叩かれるのです。
ドラえもんの中でいじめっ子ジャイアンがいじめられっ子のび太に向かって「のび太のくせに生意気だ」と言う場面があります。差別というものの本質をつくセリフだと思います。
神はその場で最も小さくされている者を依怙贔屓します。「そしてラケルは不妊。そしてレアは妊娠した。そして彼女は息子(ベン)を生んだ」(31-32節)。当時、出産することは祝福の結果と考えられ、出産しないことは呪いの結果と考えられていました。ここでラケルは呪われ、レアは祝されます。それは、差別され個人として尊重されていないレアの地位を逆転させる神の業です。この神の行為はラケルにとって不当です。ラケルに対しては、神は後に彼女が最もその場で小さくされた時点で、名誉を回復し、救い出します。それは続きの物語でなされる神の業です。
「そして彼女(レア)は彼の名前をルベンと名付けた。なぜなら、彼女が次のように言ったからだ。『ヤハウェは私の苦しみを見た(ラアー)。実際今私の夫は私を愛しているかもしれない』」(32節)。ルベン(レウー・ベン)という名前は、「あなたたちは息子を見よ」か、「彼らは息子を見た」という意味を持っています。夫は今自分を愛しているかもしれないと言っていることや、この名前の意味から、レアはヤコブに訴えているのではなく、周りの人々に自分が息子を生んだことを訴えていることが分かります。レアが長男を妊娠していた時や出産後においてさえも、周りは「レアのくせに生意気だ」と陰口を言っていたのかもしれません。
ヤコブはレアを愛しています。おそらく平等にラケルの天幕とレアの天幕を訪れています。いのちの主の任意でレアだけが妊娠します。「そして彼女はさらに妊娠した。そして息子を生んだ。そして彼女は以下のように言った。『ヤハウェは私が嫌われているのを聞いた(シャマア)。そして彼は私のためにこの男性をも与えた』。そして彼女は彼の名をシメオンと名付けた」(33節)。シメオンの意味は「彼は聞いた」です。神はレアに対するヘイトスピーチを聞いて、行動を起こしたのです。レアが苦しめられている時に、ヤコブはレアを庇っていなかったように思えます。善人の沈黙こそが罪深い場合があります。神だけがレアの苦難を見、ハランの町のヘイトスピーチを聞いたのです。
「そして彼女はさらに妊娠した。そして息子を生んだ。『そして彼女は言った。今、この時私の夫は私に向き合う伴侶となる(ラバー)。実際私は彼のために三人の息子たちを生んだ』。それゆえに彼(ヤコブ)は、彼の名前をレビと名付けた」(34節)。
「私に向き合う伴侶となる」と訳しました。ラバーという動詞が相互行為を表す談話態だからです。アダムとエバが相互に向き合う関係として描かれていることが、その根拠となります(2章18節)。夫婦とは向き合う存在です。レアはエバのようになりたいのでしょう。ヤコブにはアダムのようになってほしいのでしょう。エバも三人の息子を生みました。そしてエバも息子たちの名付けを行っています。家父長制社会では珍しく、レアは自分で上の二人の息子の名前を付けています。彼女はエバを見習っています。
ただしレアだけが名付けるということは、子どもの名付けをしないヤコブの責任逃れでもあります。エサウは両親によって名付けられました。ヤコブについてはイサクが名付けました。適当な名付けではあっても、イサクはそれなりに親の責任を果たしているのです。それに対してヤコブはどうだったのかが問われています。レアが夫に言いたいことは、自分と向き合ってほしいということです。そして夫婦として対等に責任を負ってほしいのです。レアが名付けを続ける限りレアに対する憎悪は増し加わるだけです。「レアのくせに生意気だ」と。夫は見て見ぬふりをして、レアを見殺しにしています。それで夫婦と言えるのかということです。「今、この時、私の夫は私に向き合う真の意味での伴侶になるべきだ」と、レアはヤコブに言っています。「あなたも私たちの息子に名前を付けるべきなのだ」。
それだから、三人目の名付けだけはヤコブが行っています。このことはヤコブを父親として成長させました。レアがヤコブを教育しています。無収入の夫のどん底にあって、レアは「それでもあなたには夫として・父親として責任を負って生きなくてはいけない」と励まし、慰めています。ヤコブはレアを尊敬します。
「そして彼女はさらに妊娠した。そして彼女は息子を生んだ。そして彼女は言った。『この時、私はヤハウェ(YHWH)を賛美する/告白する(YDH)』。それゆえに彼女は彼の名前をユダ(YHWDHイェフーダー)と名付けた。そして彼女は生むことから立ち止まった」(35節)。
もはやレアは、ヤコブの動向も気にしていません。レビの名付けをしただけでヤコブの反省と成長を認めたからです。むしろレアは個人として立ち止まって神に集中します。ヤハウェの神は苦しい時に介入し、自分の恥を拭い去り、名誉を回復し、夫婦の関係も直してくれた。レアは、歴史を導く神に感謝をし、神に賛美を捧げ、神を信じる告白をするのです。
ユダという名前には様々な意味が込められています。神の名前そのものが編みこまれ、神への信仰告白が込められています。ユダという人物が生まれたこと、それが物語の目標です。そして物語はレアの成長を記して終わります。レアは生むという呪縛から一時自由になります。それを聖書は「彼女が立ち止まった、生むことに起因して/生むことから離れて」と表現しています。
こうして物語はレアの出産を機会にして、ヤコブとレアが真に向き合う夫婦となっていく過程を報告しています。それはレアにとっては名誉の回復。顔を上げ・胸を張るという救いの経験です。ヤコブにとっては頭を垂れ・悔い改めて謙虚に学ぶという救いの経験です。またレアの周囲で、憎悪や憎悪の黙認が減っていく経験でもあります。加害者たちの救いがここに示されています。ハランという町で新しい倫理が示されました。元々羊飼い組合はレアに共感をしていたと思いますが、その共感の輪がさらに町に広がったのです。視覚しょうがい者にとって生きやすい町とは何か、今もわたしたちは考え続けるべきです。
レアの息子たちは、この後のイスラエルの歴史で重要な役割を果たすことになります。長男ルベンと次男シメオンも、個人の逸話が残っているのでそれなりに重要ですが(35章22節、34章25節)、特に重要なのは三男のレビと四男のユダです。レビは、ミリアム・アロン・モーセの三姉弟の先祖です(出エジプト記2章)。出エジプトの立役者たちはレビの子孫・レビ部族出身なのです。そして、レビ部族だけは特別な祭司の家系とされます。レビ部族には土地が割り当てられません。祭司として町々に点在し、他の部族の人々からの捧げ物によって暮らす宗教者の一族です。本日の箇所でも、レビの名付けだけが特別に父親ヤコブからなされていました。レビだけは特別であるという歴史を、名付けのときから予告しているのです。
ユダは、ダビデ王の先祖です。ダビデ王朝はユダ部族の領土を中心にしていたので南ユダ王国と呼ばれました。さらにバビロンの地に連れて行かれたイスラエルの人々は、「ユダヤ人(ユダの人々)」と呼ばれました。その呼称は現代にまで及びます。すべてユダに由来します。ユダヤ人の王として生まれたイエスはユダ部族の出身でした。
このような意味でレビとユダの誕生は、本日の箇所の目標というだけではなく、全聖書の目標です。祭司はメシアの原型です。王もメシアの原型です。祭司と王は、一つにまとめられます。またその両者の持っている欠点(男系世襲、権力との癒着、政教一致)も乗り越えられ、イエス・キリストという救い主として実現します。十字架で殺され三日目によみがえらされた神の子、僕としての王、木にかけられ呪われた者としての大祭司です。その場で最も貶められている人を弁護し救い出す方。自分自身を救わないで、徹底的に他者に仕える人の子。ナザレのイエスが私たちの罪を贖うメシアです。
レアなしにイスラエルの歴史は語れません。レアなしにイエス・キリストの出来事や、教会の歴史は語れません。わたしたちは「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」という呼び方だけにとどまってはいけないと思います。「サラの神・ハガルの神・リベカの神・レアの神」が、わたしたちの賛美と感謝と信仰告白の対象です。
今日の小さな生き方の提案は、聖書の倫理観を身に付けることです。それはその場で最も苦しい状況の人の立場に立つということです。このことは勇気を必要とします。自分も苦しめられるかもしれないし、場当たり的で整合性のない行動になるかもしれません。しかし、そのような形でヤハウェの神がレアを救い出したのです。そのような形で、わたしたちもイエス・キリストによって救い出されたのです。同じことを隣人にしましょう。命の主を礼拝しながら。