本日の箇所はイスラエルという部族連合の中のレビ部族の特殊性を記しています。レビ部族について少し遡って確認しましょう。
部族の始祖レビは、ヤコブ(別名イスラエル)とレアの間に生まれた三番目の男子です(創世記29章34節)。レビは次兄シメオンと共に、シケムという男性とその父親を斬殺しています。シケムが妹ディナに性暴力を行ったことに対する報復でした(同34章)。暴力に対して暴力で報復することを是とはできません。父親であるヤコブでさえもレビとシメオンの行動を批判しています(同49章5-7節)。ただしかし、この報復的正義の実現から、レビという人が強い正義感を持っていることは伺えます。
このレビの子孫であるレビ部族が特別な地位を得たきっかけは、「金の子牛事件」です(出エジプト記32章)。時代は下がって、出エジプトの時。イスラエルの民を置き去りにしてシナイ山に登ったきり中々帰ってこないモーセに代えて、民はアロンを指導者として担ぎ上げます。そして、金製の牛の像を鋳造して、その像を神として拝みながら、出エジプトの旅を再開しようとしました。モーセがシナイ山から戻ってきたときに、この反乱者たちへの大粛清が始まります。その際に活躍したのがレビ部族でした。レビ部族はヤハウェにのみ忠誠を誓い金の子牛を拝まなかったのです。そして金の子牛を拝む他の部族の者たちを3000人斬殺します。その報復的正義の実現によってモーセはレビ部族を祭司職に任命します(同32章29節)。
正義の実現というものが、祭司の適性と関わるということを心に留めたいと思います。儀式の技術とか、祈りの内容とか、対立する者同士を和解させる力とか、和ませる人格とか、そのような宗教者一般への期待と、レビ人の任職とは関係がないのです。神に一点集中した忠誠、急進的な敬虔、その姿勢で正義を実現する行動力こそが宗教者に必要な資質、ガッツです。こうしてレビ部族だけが聖所を持ち運び、聖所に出入りして宗教儀式を執り行うことが許されました。それを職業・生業とする祭司の部族となりました。そこに専従するので、土地を耕作することができません。だから所有の土地が不要です。レビ人をどのようにして民全体で雇うかが課題となります。
20 そしてヤハウェはアロンに向かって言った。「彼らの地において貴男は受け継がない。そして持分は貴男のために彼らの真ん中で生じない。私は貴男の持分かつ貴男の受け継ぎ。イスラエルの息子たちの真ん中で。 21 そしてレビの息子たちのために、何と、受け継ぎのためにイスラエルにおける全ての十分の一(を)私は与えた。会見の天幕の労働を、彼らが労働し続けている彼らの労働の対価(として)。 22 そしてイスラエルの息子たちは二度と会見の天幕に向かって近づかない。罪を担うために、死ぬために。 23 そしてそのレビこそが会見の天幕の労働を労働する。そして彼らこそが彼らの罰を担う。貴男らの世代のための永遠の掟。そしてイスラエルの息子たちの真ん中で彼らは受け継ぎを受け継がない。 24 なぜなら、ヤハウェのために彼らが献上する、イスラエルの息子たちの十分の一を、献上物(を)私はレビたちに受け継ぎのために与えた。それだから私は彼らに言った。イスラエルの息子たちの真ん中で彼らは受け継ぎ(を)受け継がない。」
ヤハウェはレビ部族の代表者としての大祭司アロンに、レビ部族にだけ約束されていることを告げます。一つは、土地を所有しないということです。このことは不動産を持たないこと、言い方を変えれば不動産から自由であるということを意味します。神から与えられた代々の相続地(「受け継ぎ」20・21・23・24節)もなく、部分的な「持分」(20節)も何もないのです。ここにシオニズムを超える考えの芽があります。レビ人は「約束の地(神がユダヤ人にのみ与えたパレスチナ)」という概念から自由になれるのです。全ての人がレビ人になれば、土地に対して宗教的な意味を付け加え、他人の土地を奪い取らなくなるでしょう。ただし例外が35章にあります。
土地を持たないことは、レビ人が「イスラエルの息子たち」(20・22・23・24節)と呼ばれる世俗の十二部族の外にいる存在であることを示しています。十二部族は土地を所有するという点で世俗的なのです。「真ん中」(20・23・24節)に居住しながら、外の人であるというところにレビ人の特別な地位があります。実際、十二部族からレビだけは除かれています。減った一部族は、ヨセフが二部族取ることで補充されます(マナセ部族・エフライム部族)。
もう一つはレビ人の職業が「会見の天幕の労働」(21・23節)だということです。会見の天幕は、ヤハウェの神が居る場所、そこで神と人とが出会うことができる場所、それだからイスラエルにとって最も聖なる場所です。具体的には、組み立て可動式の会見の天幕を持ち運び、組み立てるという仕事です。その仕事に「対価」(21節)が約束されているので、この仕事は「労働」(21・23節)つまりレビ人の職業・生業です。労働(アバド)という言葉は、礼拝・奴隷をも意味します。エジプトのファラオの奴隷であったヘブライ人が、自由にヤハウェを礼拝する民となったことの意義がここにこめられています。イスラエルはファラオのアバド(奴隷)から、ヤハウェのアバド(礼拝者)となった民です。この意味を考えると、ヤハウェ礼拝を生業とするレビ人は「イスラエルの中のイスラエル」とも言えます。外の人々という面だけではなく、その逆に中心・中核の人々という面をレビ人は併せ持っています。それだからレビ人だけは神に近づいても死なないのです。
古代の人は神を見ると死ぬと考えていました。神を見ることそのものが宗教的な「罪(ハッター)」(22節)なのです。会見の天幕に近づくことは死ぬことです。しかしレビ人だけは、会見の天幕に触れることができます。そして、自分の罪のために死なず、「彼らの罰(アヴォーン)」(23節)を担い、生き続けます。アヴォーンはハッターよりも広い意味の罪や過失を意味し、さらに罰をも含みます。懲罰をも引き受けて生きるということです。自分に与えられた独自の「十字架」「重荷」「使命」を黙々と果たしていくことが、神を見てしまった/神に近づいてしまった者の責任です。
キリスト者であるということの意義をレビ人のあり方に学びます。復活のイエス・キリストを見てしまった、信じてしまった者は、死ぬのではなく生きるのでしょう。キリストの永遠の生命を受け継いだ私たちは、自分の人生の十字架を背負って生きる、より軽い「イエスの十字架(何らかの使命)」を背負って生きる、たとえば誰かの懲罰を担って生きるのです。
25 そしてヤハウェはモーセに向かって語った。曰く、 26 「そしてそのレビたちに向かって貴男は語る。そして貴男は彼らに向かって以下のことを言う。『貴男らはイスラエルの息子たちと共なるところから十分の一を取る――それは彼らと共なるところから貴男らに貴男らの受け継ぎの中で私が与えたものだが――。そして貴男らはそれからヤハウェの献上物(を)献上する。その十分の一から十分の一(を)。 27 そして貴男らの献上物が貴男らに属するものとみなされる。その打穀場からの穀物のように、その酒ぶねからの満たしのように。 28 貴男ら、貴男らもまた貴男らの十分の一の全てからヤハウェの献上物を献上する――それはイスラエルの息子たちの共なるところから貴男らが取るものだが――。そして貴男らはヤハウェの献上物をそれから与える、祭司アロンのために。 29 貴男らのすべての贈り物から貴男らはヤハウェの献上物の全てを献上する。その脂のすべてのうち、それらのうち最も聖なる所を。』 30 そして貴男は彼らに向かって言う。『貴男らがそれらのうちの最上の脂を献上する時に、それはそのレビたちに属するものとみなされる。打穀場からのように、かつ酒ぶねからのように。 31 そして貴男らはそれをすべての場所で食べる、貴男らと貴男らの家は。なぜならそれは貴男らのための報酬、会見の天幕における貴男らの労働の対価だから。 32 そしてそれについて罪(を)貴男らは担わない。それらのうちの最上の脂を貴男らが献上する時に、イスラエルの息子たちの聖なるものたちを貴男らは汚さない。そして貴男らは死なない。』
レビ人を雇うのは全体のイスラエルです。世俗の十二部族の収穫の十分の一が「会見の天幕の労働の対価」としてレビ人に与えられます(24・26節)。打穀場からのものは小麦粉製のパン、酒ぶねからのものは葡萄酒を意味しています(27・30節)。その地域の食べ物の代表です。十二部族がレビ人に与える「労働の対価」は、どんな食べ物でも飲み物でも良かったのでしょう。レビ人たちは、その食べ物・飲み物をどこででも飲食できました。労働の対価というものは、労働者自身が自由にできるものだからです(31節)。
レビ人たちの「給料日」を想像します。世俗の十二部族からさまざまな収穫物が寄せられ、製品が寄せられ、その食べ物や飲み物を家族みんなで、あるいは一族や近所の人たちも交えて食べる様子です。徴税人レビの家にイエスが招かれて囲んだ食卓も、そのような賑わいではなかったかと、さらに想像の翼を広げてしまいます(マルコ福音書2章13-17節)。
そしてレビ人は他部族から受け取った十分の一の十分の一(しかも最上のもの)を、祭司アロンに献上しなくてはなりません(28・29節)。レビ人もまた捧げ物をしなくてはいけないというところが面白い点です。バプテスト教会の牧師職に似ています。牧師が身分ではなく職業であるということや、全体の献金で牧師を雇っているということや(労務の提供と対価の提供の労使関係)、牧師も一教会員であって他の教会員と同じように月約献金を捧げているということが似ています。
新約聖書のヘブライ人への手紙7章は、レビ人という血統による祭司制度を批判し、キリストこそが大祭司であることを力説しています。良いサマリア人の譬え話においてもレビ人は悪役の一人です。その影響下にあって、わたしたちはレビ人に良い印象を持っていません。本日の聖句を読み解くことは一つのチャレンジです。レビ人に学ぶことは何なのでしょうか。
今日の小さな生き方の提案は、「万人祭司」という熟語をもじって言うならば、「万人レビ人」になることです。レビ人という言葉は祭司という言葉のイメージを広げる装置です。レビ人になるとは、狭い意味で牧師等教役者になるということではありません。まず、正義を希求する魂を持つことです。旧約聖書の預言者たちが持っていた熱情です。正義を追求する言動は世間的には疎まれるかもしれません。しかし、そのような者たちだけが、触れれば死ぬという行為、誰もしたがらない仕事を自らの使命として引き受けることができます。自分の人生の重荷、他人の人生の十字架、家庭や職場や学校や教会における地味な仕事、「奴隷」がする労働と呼ばれそうな仕事を、神への「礼拝」の一部として行うことは、レビ人だけができるのでしょう。その生き方に自由があります。現実を見て絶望するのではなく、復活の神に視線をずらせ、十字架を担い続けて生きる。これこそ地の塩として生きるということです。