ロバが叫ぶ 民数記22章22-35節 2025年2月2日礼拝説教

はじめに

ビルアムはバラクの求めに応じて金銀の代わりにイスラエルを呪うことをしようかと心が傾いていました。権威や名誉を身にまとう生き方はわたしたちの誘惑です。

 

22 そして神の鼻が燃えた。なぜなら彼が歩み続けているからだ。そしてヤハウェの使いがその道において彼のためのサタン(となるため)に屹立した。そして彼は彼の雌ロバの上に乗り続けている。そして彼の二人の若者は彼と共に。 23 そしてその雌ロバはその道において屹立し続けているヤハウェの使いを見た。そして彼の剣は彼の手の中に抜かれ続けている。そしてその雌ロバはその道から逸れた。そして彼女はその野において歩んだ。そしてビルアムはその道(に)彼女が逸れるために、その雌ロバを打った。

 

一度目

 神は鼻を燃やして激怒し使い(「サタン」)を送ります。ヨブ記にも登場する信徒に対する敵対者です。神はビルアムを殺そうとします。聖書の神はこの類の極端かつ過激な行動をとることがあります(創32章、出4章)。これらの奇妙な出来事を経て、信徒が変容することが物語られています。だからビルアムの変容が期待されます。

抜き身の剣を持つヤハウェの使いは「その道」を阻みます。その道を歩み続けることは人間の生き方として拙い行為です。自分の言葉がこの世界に実現するという支配欲・権威欲・名誉欲が「その道」です。雌ロバだけがその姿を見ることができ、三人の男性は気づきません。彼女は自分たちが殺されることを恐れてその道を逸れますが、身の危険に気づかないビルアムは彼女を打ちます。その道に逸れる行為に腹を立てているからです。

 

24 そしてヤハウェの使いがその諸々の葡萄畑の(間の)小径において立った。ここからの石垣とここからの石垣(との間に)。 25 そしてその雌ロバはヤハウェの使いを見た。そして彼女はその壁に向かって自分を圧しつけた。そして彼女はビルアムの足をその壁に向かって圧しつけた。そして彼は彼女を打つことを再び行った。 

二度目

雌ロバは葡萄畑と葡萄畑の間にある狭い畝を歩きます。石垣に挟まれた小径です。その真ん中にヤハウェの使いが立ちはだかるので、彼女は自分自身を片側に寄せ、石垣にビルアムの片足を圧しつけてしまいます。ビルアムは再び彼女を打ちます。

 

26 そしてヤハウェの使いは通り過ぎることを再び行った。そして彼は場所において立った。右と左(に)逸れるための道が無い狭さ。 27 そしてその雌ロバはヤハウェの使いを見た。そしてビルアムの下に彼女は伏した。そしてビルアムの鼻は燃えた。そしてその雌ロバはその杖で打った。 28 そしてヤハウェはその雌ロバの口を開けた。そして彼女はビルアムのために言った。わたしは貴男に何をしたか。なぜなら貴男がわたしを打ったからだ。これが三回。 29 そしてビルアムはその雌ロバに言った。なぜなら貴女がわたしを虐げたからだ。ああわたしの手の中に剣があったなら、実に今、わたしは貴女を虐殺できただろうに。 30 そしてその雌ロバはビルアムに向かって言った。わたしは貴男の雌ロバではないか。貴男のもの(となって)以来今日まで貴男がわたしの上に乗っているのだが。これが…、このようにあなたにすることをわたしは常に習わしとしていたか。そして彼は言った。否。 

 

三度目

次にヤハウェの使いは右にも左にも行けない場所に立ちます。とうとう彼女はビルアムの下に伏し動くことを止めます。彼は神のように鼻を燃やして激怒します。そして杖で彼女を打ちます。動物虐待です。

この時神が雌ロバの口を開きます。創世記3章の蛇以来の出来事です。「わたしはあなたに何をしたか。三回も打つ理由があるか」と雌ロバ。「あなたがわたしを虐待したからだ」とビルアムの反論。雌ロバの行為は三度指示に従わなかったことと、一度ビルアムの足を故意にではなく傷つけたことです。それに対してビルアムは故意に三度雌ロバを杖で殴っています。どちらの力が優位にあり、どちらがどちらを虐待しているのでしょうか。

「杖ではなく剣を持っていたら雌ロバを斬り殺して虐殺したいぐらいだ」というビルアムの言葉を聞いて、雌ロバはビルアムにはヤハウェの使いが見えていないということを確信します。実に吞気なご主人です。今まさに自分自身が剣を持っているサタンに斬り殺され虐殺されかけているのに。雌ロバは愚かな主人に道理をさとすために言葉を選んで語り始めます。

あなたの言葉通りに歩かないなどということを、今まで一度たりともわたしがしたことがありましたか。ないですね。ご主人様、これは神さまがあなたに何かを教えようとされているのだと思います。神さまの語る言葉だけを語る預言者の生き方を、ご主人はその道を踏み外そうとしているのではないでしょうか。毎晩顔と顔とを合わせて語り合うヤハウェの使いを見えないなどということがあなたに起こっているのですから。

 

31 そしてヤハウェはビルアムの両眼を啓いた。そして彼はその道において屹立しているヤハウェの使いを見た。そして彼の剣が彼の手の中に抜かれ続けている。そして彼は伏した。そして彼らは彼の両鼻のために拝した。 32 そして彼に向かってヤハウェの使いは言った。何について貴男は貴男の雌ロバを打ったのか。これが三回。何と。わたし、わたしはサタン(となるため)に出てきた。なぜならその道はわたしに向き合うために(はあなたを)突き落とすからだ。 33 そしてその雌ロバはわたしを見た。そして彼女はわたしの面前で逸れた。これが三回。もし彼女がわたしの面前から逸れたならば、実に今、貴男をもわたしは虐殺するはずだった。そして彼女をわたしは生かす。 

 

開眼

ビルアムの目にうろこのようなものがかぶさっていたのでしょうか。使徒パウロの回心のように、ビルアムの両眼が神の啓示によってあけられます。ロバの口を開くときとは別の動詞です。目が啓かれ彼はヤハウェの使いを見ることができるようになります。31節「」は鍵語です。ビルアムは自分が鼻を燃やして怒るという体験から、神がどのような場面で鼻を燃やして怒るのかを疑似体験して学んだので、その教えに即して神を礼拝します。神は、権威欲・名誉欲・支配欲という誘惑に負ける信徒に対して憤る神です。自分の言葉が世界を動かすと思いあがることや、自分の言葉が褒められることを喜ぶこと、自分の言葉を切り売りして金儲けをすること、裏返して言えば、神の言葉・神の意思を語らないことが問題です。

その道はわたしに向き合うために(はあなたを)突き落とす」は曖昧な言葉です。神と向き合い、神の前で生きる者にとって、権威欲・名誉欲・支配欲は、自分自身を真っ暗な闇に突き落とすことである、すなわち堕落であるという教えと解します。指示に従わない家畜に対する怒り以上の怒りを、神は堕落しつつあったビルアムに向けています。

33節のヘブル語原文は「雌ロバが逸れたならばあなたも殺す」と書いてあります。文脈にかなわないので、ギリシャ語訳・ラテン語訳に従って、多くの翻訳は「雌ロバが逸れなかったならばあなたを殺す」と修正します。雌ロバは十字架と復活のイエス・キリストの譬えととるならば、原文のままでも理解可能です。ただ一人、神の公正な裁きを知る方は、罪ということの深刻さを知らない罪人を庇いながら担い、罪人のせいで罪人と共に虐殺され、罪人のために唯一よみがえらされ、今も生き続けるイエス・キリストです。

 

34 そしてビルアムはヤハウェの使いに向かって言った。わたしは罪を犯した。なぜなら、貴男がわたしに会うためにその道において屹立し続けているということを、わたしは知らなかったからだ。そして今、貴男の目の中に悪であるのならば、わたしはわたしに立ち帰りたい。 35 そしてヤハウェの使いはビルアムに向かって言った。あなたはその男性たちと共に歩め。そしてただ、わたしが貴男に向かって語る言葉だけを、それを貴男は語るべきだ。そしてビルアムはバラクの高官たちと共に歩いた。

 

罪の告白

ビルアムは神に懺悔をし、悔い改めます。その罪とは、神が許さない道・生き方・あり方・立ち居振る舞いがあるということを知らなかった罪です。神は「その道」の中を歩むことや、「その道」を手段にして歩むことを禁じます。権威欲・名誉欲・支配欲という誘惑に負けてはならないのです。その道を生きることは、神と人とを愛することを阻みます。だめなものはだめ。この一つの禁止を知らないことが「」というものです。

「わたしはわたし自身に立ち帰りたい」と、自分の罪を告白するヤハウェの預言者ビルアムは率直に願っています。その彼に神は、「ただ、わたしが貴男に向かって語る言葉だけを、それを貴男は語るべき」と命じて、モアブの地に行くことを許しています。どんな人とも共存することは可能です。しかし気をつけなくてはいけないことがあります。神の言葉だけを語ること、神の意思を実現すること、私欲を優先しないことです。

 

今日の小さな生き方の提案

「誘惑に遭わせないで悪から救い出してください」と心から祈りたいものです。イエスが遭った誘惑(サタンによる)の最後は権威欲・名誉欲・支配欲でした。ビルアムすらもそれに屈しました。自己肥大は破裂を招く生き方です。毎日神と向き合い悔い改めへりくだって生きましょう。そのために聖書が与えられています。神の言葉・神の意思・神の啓示の本です。この小さなわたしに対して諦めずに神は常に語りかけてくださっています。ただこの語りかけに従って、それを語り、その語った通りを生きるということに尽きます。神を愛すること・自ら隣人となること・互いに仕え合うこと、悔い改めること・福音を信じることです。そうすれば忌むべき悪の道を逸れ、善を行いへりくだって神と共に歩むことができます。つまるところ「聖書のみ」です。