ローマで 使徒行録28章17-22節 2024年10月6日礼拝説教

前回までの話

 マルタ島からシシリア島を経て、パウロとアリスタルコとルカはイタリア半島の諸教会の信徒たちから歓迎されながら、ローマへと護送されました。「すべての道はローマに通ず」と言われます。土木や建築に優れていたローマ人たちは多くの舗装した街道を敷設しました。そのうちの一つアッピア街道を通ってパウロたちはローマ帝国の首都ローマに到着します。裁判のためです。後60年ごろすでにローマにキリスト教会は存在しました。パウロ自身が「ローマの信徒への手紙」を書いているとおりです。この手紙が書かれた4-5年後に、パウロ自身がローマに来ます。監視された軟禁状態の未決囚ですから(16節)、毎週日曜日に教会に通うことはできません。しかし、他人を自宅に呼ぶことは自由でした(30-31節)。この比較的自由という状況を利用してパウロはローマ市在住のユダヤ人たちの有力者たちを招いたのでした。

 

17 さて三日の後、彼が存在し続けているユダヤ人有力者たちを招集するということが起こった。さて彼らが共に来た後に、彼は彼らに向かって言い募った。私は――男性たちよ、兄弟たちよ――、その民にあるいは父祖たちの習慣に反対することをしなかったのに、エルサレムからの囚人(として)私はローマ人たちの諸々の手の中へと引き渡された。 18 その彼らは私を尋問した後、私の中に何一つ死の理由が存在しないことのゆえに、釈放することを望み続けたのだが。 19 さてユダヤ人たちが反論し続けるので、私は皇帝に上訴することを強いられた。私の民に何かを告発することを持たないままに。 20 それだからこの理由のゆえに私はあなたたちに見ることをまた話すことを勧めた。というのもイスラエルの希望のゆえにこの鎖を私はつけられているからだ。 

 

パウロの発言

 当時少なくとも11のユダヤ人会堂がローマにあったことが確認されています。「ユダヤ人有力者たち」(17節)は、会堂長たちということでしょう。会堂長というのは、たとえば、コリント教会員となったクリスポのような地位の男性です(18章18節)。

未決囚のパウロがどのようにしてユダヤ人街の有力者たちを招くことができたのでしょうか。当然、一つ一つの会堂に赴いて、「パウロの話を聞いてほしい」と願う人が必要です。パウロと共に初めてローマに来たルカやアリスタルコにはできません。この招集実務を担ったのはローマに住むローマ教会の教会員たちです。どのような人たちが居たのかは、ローマの信徒への手紙16章1-16節から推測できます。週報四面に取り上げたフェベという指導者や、使徒言行録にも登場しているアキラ・プリスキラ夫妻、アンドロニコとユニアス(女性名)という使徒、またルフォスという人物も挙げられています。このルフォスは、イエスの十字架を担いだキレネ人シモンの息子かもしれません(マルコによる福音書15章21節)。

これらのローマの使徒・執事・信徒たちの熱心な要請に基づいて11人以上の会堂長たちがパウロの家に連れだって集まりました。パウロはその人々に向かって「言い募った」とあります。未完了過去時制は過去の継続的動作を示します。パウロが熱弁をふるって語り続けたことを汲んだ訳です。そして、ちょっと勇み足的に言い過ぎた発言、内容的には一部不正確な発言であることも含めています。

 たとえば、パウロはローマ帝国に引き渡されたことはありません(17節と相違)。エルサレム神殿でユダヤ人たちに殺されかけた時に、ローマ兵がパウロを救い出したのです(21章)。確かにローマ総督はパウロに死刑に価する違法行為をみとめませんでしたが(25章25節)、パウロを釈放しようとまでは思っていません(18節と相違。24章26節参照)。また、ユダヤ人たちが反論し続けることが皇帝への上訴の理由ではありません(19節と相違)。むしろパウロ自身が願ってローマ皇帝に上訴したのです(23章11節、25章11節)。パウロ自身が皇帝に上訴さえしていなければ釈放されたのに、パウロが釈放を選ばなかったということが事実でしょう(26章32節)。

 発言を誇張する時に、人は饒舌になるものです。パウロは張り切っています。ローマ教会の仲間たちが与えてくれたこの大きな機会を最大限に用いたいと願っています。論争好きのパウロはそれぞれの会堂に自分の足で訪問したかったと思います。軟禁されて会堂訪問がかなわないので彼の代わりに教会員たちが手分けしてユダヤ人有力者たちを集めてくれました。クリスポのようにキリスト者になる会堂長が起こされるようにと、論争が継続され回心のための対話となるようにとパウロは熱く語ります。

 パウロが言いたいことの中心は、<エルサレムのユダヤ人の誤解によって自分は裁判を強いられているけれども、自分はユダヤ人仲間と対立したいわけではない。むしろエルサレムのユダヤ人ともローマのユダヤ人とも共通の「イスラエルの希望」(20節)を持っている>ということにあります。イスラエルの希望とは、メシア・キリスト・救い主の到来を待つ信仰です。ナザレのイエスが、ユダヤ人にとっても、全世界の生命にとっても、救い主であるという信仰に導かれる話し合いをしたいとパウロは願って、ある程度誇張はあっても委細構わず、熱弁をふるい続けたのでした。

 事実とは何でしょう。ファクトチェックなどと言われます。確かに事実を語っているかは政治家や報道の誠実さを示す指標です。しかしそれを米国の討論番組のようにAIによって論じていると同時に流すことはどうでしょうか。そのAIの中立性はどこで保証されるのでしょうか。結局事実は誰かの解釈によって伝えられます。そこに真実味があれば人の心を動かすものです。対立を煽る極度な歴史修正は論外ですが、基本的事実を信実に解釈する時に真実な言葉が生まれます。ここにわたしたちの模範があります。

 パウロの信実な真実の語り(真理)に、ユダヤ人たちがどのように反応するのか、ローマ教会の男女の指導者たちはじっと見守ります。

 

21 さて彼に対する男性たちは言った。私たち、私たちはユダヤからあなたに関する書面も受け取っていなかったし、到着した兄弟たちの誰もあなたに関する悪いことを報告したこともあるいは話したことも何もなかった。 22 さてあなたからあなたが考えている事々を聞くことが私たちにはふさわしい。というのもこの分派に関して、あらゆるところでそれが反論されているということが、実際わたしたちに知られているからだ。

 

ユダヤ人有力者たちの反応

 ローマ在住のユダヤ人有力者たち男性は流石に代表者たちらしく品位のある対応をしています。パウロについての報告は文書でも口頭でもエルサレム最高法院から何も来ていないというのです(21節)。事実かどうかは分かりません。パウロに対する罵詈雑言が綴られた書面や、悪い報告はエルサレムから届いていたかもしれません。しかしそのような悪口を直接当事者に面と向かって言うことは失礼です。そして、パウロと最高法院との間をますます悪くさせることにもなります。彼らは品位を保って、誰の悪口も言わず公平な態度を保持し続けます。「あなたのことは何も知らない。だから直接会えて良かった。話を聞かせてほしい」。この態度には見倣うべき点があります。

 ただしかし、彼らは最後に気になることを付け加えています。「というのもこの分派に関して、あらゆるところでそれが反論されているということが、実際わたしたちに知られているからだ。」(22節後段)。やはりローマのユダヤ人有力者たちは、ユダヤ教ナザレ派(キリスト教)内部のパウロ系列の教会が、従来のユダヤ教の枠からはみ出ていることを知っています。場合によっては、ローマの諸会堂がエルサレムの最高法院に質問をしているかもしれません。ローマ市内にあるナザレ派は「異端」なのか、それとも「正統」の枠内に入っているのかというような質問状です。

 彼らは「異端」についての疑いをもってパウロの自宅に入りました。ローマに長く住んでいるのですから、ある程度さばけています。監視のローマ兵がいても、またローマ教会指導者に女性が含まれていても、あるいは教会員たちの中に明らかに「ユダヤ人ではない人物」が含まれているということを認めても、彼らは平然としています。「ローマの中ではローマ人のように」暮らす必要があるからです。いちいち「清めの儀式」をすることは、離散ユダヤ人たちには煩瑣なことです。

 彼らの最大の関心事は結局割礼の有無だと思います。パウロが生涯かけて「キリスト者になるために割礼は不要だ」と言い続けた論点です。「イスラエルのしるしは割礼という儀式にあり、割礼さえすれば誰もがユダヤ人になれる。それゆえにナザレ派が割礼を行っているのならユダヤ教正統の範囲内である。そうでなければナザレ派は異端だ。ユダヤ人街から追放しなければならない。」彼らはこの見極めのためにパウロの自宅を訪れたのです。

 人間を見る目としてどうなのでしょうか。割礼という儀式を施した男性が一段優れたユダヤ人となれるという考えのもと、「この人はどっちなんだろう」などと考えながら付き合うというのはいかがなものでしょう。ましてや女性たちは、そのスタートラインにも立てないのです。割礼が男性器の包皮を切り取る儀式だからです。ユダヤ人男性に属する存在であるときにだけより上等な女性になれるという仕組みそのものが酷く歪んでいます。

 会堂長たちはローマ教会の人々と面と向かっていながら、内側に自らの優越性と相手への差別性を抱えていたのです。この点に見倣ってはいけない点があります。むしろ誰に対しても、「あなたからあなたが考えている事々を聞くことが私たちにはふさわしい」という態度に、真に徹することが良いでしょう。ともかくパウロの願いの通りに、対話は継続されることとなりました。

 

今日の小さな生き方の提案

 熱意は確かに人の心を動かすものです。意見の異なる相手とも熱心に話し合うこと・聞き合うことは良いことです。その際には透明な平たい目で相手を予断なく見るべきです。その一方で、対話相手の本質的な部分、性質、性格、差別性、およそ「罪」と呼ばれる内容までは、変わらないのではないでしょうか。相手が変わることを期待すると失望します。良い意味で人間の言葉を過信せず諦めることが必要です。そして言葉ではなく霊で呻き祈ることが大切です。相手を論破しなくても地上に御心が起これば良いわけです。希望とは自分に対してある程度諦め世界と神に対して無限に諦めないという態度です。