前回までの話
航海中に難破しマルタ島に漂着したパウロ、ルカ、アリスタルコたちは、ポエニ語を使うマルタ人たちからの温かい救助・被災支援を受けました。そして彼らは医療行為をもって、その恩に報いました。マルタ島にはまったくキリスト者がいなかったこととは対照的に、イタリア半島にはすでに多くのキリスト者がいたということが、本日の箇所に記されています。紀元後1世紀のキリスト教の布教伝播の驚くべき速さです。十字架・復活・聖霊降臨は後30/31年。その約30年後にあたるパウロのローマ到着時点で、キリスト教会がローマ帝国の中心イタリア半島にいくつも存在していました。
11 さて、三か月後に、その島で越冬していたアレクサンドリアに属しディオスクロイ〔双子の航海の神〕によって印づけられた船で私たちは上った。 12 そしてシラクサの中へと下った後、私たちは三日間滞在した。 13 そこからまわりを取って後、レギオンの中へと到着した。そして一日後、南風が生じた後、二日目の私たちはプテオリの中へと来た。 14 そこで兄弟たちを見出した後、私たちは七日間彼らの傍らに滞在することを勧められた。そしてそのようにして私たちはローマの中へと来た。 15 そしてそこからその兄弟たちは私たちに関する事々を聞いた後、彼らは私たちのための迎えのためにアピイ・フォルム〔アッピウスの市場の意〕とトレス・タベルナ〔三宿の意〕まで来た。その彼らをパウロは見た後、神に感謝した後、彼は勇気を受けた。 16 さてローマの中へと私たちが入って来た時に、パウロには自分自身で留まることが許された。彼を監視する兵士と共に。
ローマへの道
巻末の聖書地図「9 パウロのローマへの旅」をご覧ください。マルタ島からローマへと至る道のりが手早くわかります。マルタ島、「シラクサ」(12節)、「レギオン」、「プテオリ」(13節)までが海路です。そしてプテオリからは陸路でアッピア街道という有名な舗装道を用い、「アピイ・フォルム」、「トレス・タベルナ」(15節)を経てローマへと入ったというのです。パウロたちは後60年ごろにローマへ護送されました。ローマ市民であるパウロが、ローマ皇帝による裁判で裁かれるための旅の最終局面です。
プテオリの教会
「アレクサンドリアに属しディオスクロイによって印づけられた船」(11節)がマルタ島に停泊していたそうです。この船は冬の荒天を避けて安全な港で越冬していました。3月ごろにエジプト産の穀物をイタリア半島の港町プテオリに運ぶために出航するという情報を、百人隊長ユリウスはプブリウス(7節)から聞きつけたのでしょう。マルタ島に漂着した76人の人々のうちイタリア半島やローマに元々の用事がある者たちや、アレクサンドリアに戻りたい者たちは、この船に乗りました。海の旅について詳しく書きたがるルカは、この船の船首またはマストに「ディオスクロイ」という双子一対の航海の神が掲げられていたと報告しています。旗なのか像なのかは不明です。
シチリア島の「シラクサ」(12節)に着いて三日間滞在します。しかしキリスト者との交わりは報告されていません。シラクサから「レギオン」(13節)に行き、おそらく一日滞在します。そこでもキリスト者との交わりはありません。レギオンはイタリア半島のブーツの先にあたる港町です。レギオンから二日あるいは三日かけて「プテオリ」(13節)に着いた時に状況が変わります。「そこで兄弟たちを見出した後、私たちは七日間彼らの傍らに滞在することを勧められた」(14節)というのです。
このさりげない一文は、いくつもの重要な情報を知らせています。まずプテオリという港町にパウロ系列ではない教会が既に存在していたということです。後49年にはローマに教会はありました(18章2節)。そしてパウロは後55年ごろにローマの教会へ手紙を出しています。南の島々に教会がなかったことも考え合わせると、まずユダヤ人人口の多い大都市ローマに教会が生まれ、ローマから教会が南北に伝播していったと推測します。そして後60年ごろにはプテオリにキリスト者がかなりの数住んでいたのです。そうでなくてどうしてルカたちは「兄弟たちを見出」すことができるのでしょうか。
もっともキリスト者たちの外見はすぐにそれとわかるものではありません。プテオリのキリスト者たちもパウロ・アリスタルコ・ルカ一行を見出す努力をしていたとも思えます。ローマ兵が居るのでわかりやすい集団です。船が難破している間に、「パウロがローマへ裁判のために護送される」という情報が教会間のネットワーク(噂)で伝わっていたことも推測できます。プテオリの教会の礼拝で、パウロが書いた「ローマの信徒への手紙」が用いられていたことも推測できます。そうであればプテオリの町にパウロたちが来るかもしれない、来てほしいと、彼ら彼女たち待っていた可能性があります。
ルカたちから見て「私たちがクリスチャン仲間を見出した」と思っている出来事をプテオリ教会員の視点から見ると、実はルカたちが待望され見出されたとも考えられます。待望していたからこそ「七日間」の滞在という破格の歓迎がすぐにも実現できるのでしょう。七日間は、一回の日曜日の礼拝を含みます。プテオリ教会のその時の礼拝は、パウロ・ルカ・アリスタルコの三人が加わった特別な礼拝、世界で一度きりしかない交わりとなったことでしょう。三人のギリシャ語話者にとっても初めてのラテン語での礼拝です。異なることに驚きです。同時に「マラナタ」「アッバ」などのアラム語礼拝用語は同じです。共通のことにも驚いたはずです。今も世界中の教会の礼拝で、わたしたちが感じる驚きです。
パウロを護送するローマの百人隊長ユリウスは、三人のクリスチャンの信教の自由を最大限保障しています。ユリウスは27章3節でシドンにおいても同じように教会での交わりをパウロたちに許可しています。彼の親切なしに、プテオリ教会の特別な礼拝は実現していません。つまり教会は周囲の好意にも守られているのです。ローマにおいてもパウロは比較的自由な未決囚でした(16節)。ユリウスからの引継ぎの結果でしょう。教会に好意的な人々のことをルカは「神を畏れている人々」と言い表しています。その人々も広い意味で教会を形成しています。これは現代においても当てはまる現象だと思います。
ローマの教会
プテオリからローマまで140㎞あります。その内訳は次の通りです。
プテオリ←76㎞→アピイ・フォルム←14㎞→トレス・タベルナ←50㎞→ローマ
プテオリ教会員のうち足の速い者が何人か選抜されてローマ教会に走り出します。ローマに向かうパウロたちの旅程をローマ教会に伝えるためです。「非ユダヤ人の使徒パウロは前情報どおりローマに裁判を受けるために来た。今ごろプテオリを出発しアッピア街道を北上して、街道沿いの町トレス・タベルナもアピイ・フォルムも通る」と、伝言をします。ローマの信徒への手紙16章に記されている男女の教会指導者たちは、この伝言を受けて大興奮したと思います。やっと手紙の差出人であるパウロに会えるからです。彼ら彼女たちは、パウロ、ルカ、アリスタルコたちに道中で会うことを決め、派遣する教会員代表たちを選び、その人たちはプテオリ教会員たちと共にローマからプテオリ方面にアッピア街道を歩き出します。その中にローマ16章で名前を上げられている人は当然加わっていたと思います。
140㎞という距離は古代人の健脚でも5-6日かかります。プテオリ教会員たちがローマに着いた時は、7日滞在予定のパウロたちがプテオリを出発するのとほぼ同時でしょう。選びと旅支度に1日かかったとすると、パウロたち一行がプテオリを出た翌日ぐらいにローマ教会代表者たちが出発したのではないでしょうか。
ローマ教会代表者たちには足の速い人たち/早く出発した人たちと、足の遅い人たち/遅く出発した人たちがいたようです。代表者たちが二か所でパウロたちに会っているからです。(アキラとプリスキラ夫妻はどちらにいたのでしょうか。)たとえば3日ほどでパウロたちが76㎞先のアピイ・フォルムに着いた時に、2日ほどで足の速いローマ教会員たちが64㎞先のアピイ・フォルムに着く。足の遅いローマ教会員たちは50㎞先のトレス・タベルナまで3日かけて着く。パウロたち一行はアピイ・フォルムで足の速いチームと会い合流し(プテオリ教会員たちとここで別れ)、14㎞先のトレス・タベルナまで一緒に歩き足の遅いチームにも会ったというかたちです。各々の町に教会が存在していれば、各々の町のキリスト者たちとも挨拶できたかもしれません。二手に分かれたことは二つの教会への通知を丁寧にする気配りだったのでしょうか。
「その彼らをパウロは見た後、神に感謝した後、彼は勇気を受けた」(15節)。パウロは感激します。プテオリ教会員の温かい歓迎と計らい、またローマ教会員の丁寧な気配りで、ローマに入る前に二つの町で二段階に分けて同信の友と会うことができ、そして道中を共にしながらさまざまな話ができることを感謝します。パウロは神に感謝の祈りを捧げました。そして裁判を続ける「勇気を受け」力づけられました。
教会の交わりの力をここから学びます。手紙でしか知らない友にさえも示す親切。キリスト信仰のために裁判を受ける友への励まし。自分がしてもらったら嬉しい行為を、自ら進んで行う隣人愛。出会いの喜びを、手間暇かけて他の同信の友にも広げる努力。旅を共にし、互いの心を熱くしながら歩くこと。巻き込み巻き込まれながら、一緒に同じ主イエスを礼拝する交わり。これら一連の事柄を神に感謝する時に、わたしたちは明日を生きる勇気を受け取ります。この伝統の中にわたしたちの教会もつながっています。
今日の小さな生き方の提案
イタリア半島にある諸教会の実践に学びたいと思います。エルサレム入城とローマ到着は似ています。沿道でホサナと叫んで喜び迎えた民衆と、アッピア街道沿いのプテオリ教会、ローマ教会のクリスチャンたちの歓迎ぶりが似ています。十字架へと向かうイエスにも、皇帝の前での裁判に向かうパウロにも、この交わりが力を与え勇気を与えたのです。教会の交わりが、隣人に勇気を与えるようにと願います。それはある種大げさな反応であり、小さなことに大きく喜ぶことです。ドタバタと慌てていて格好よく無いかもしれません。しかし温かい気持ちが伝わる交わりです。「とにかく一度一緒に礼拝を」「あの人にも知らせなきゃ」「一言だけでも挨拶を」「一日でも早くお会いして」などなど、言葉を超えた気持ちの通じ合い。それらに感謝する時勇気を得るのです。