世の誤り ヨハネによる福音書16章1-15節 2014年7月13日礼拝説教

「人生万事塞翁が馬」という中国の故事成語があります。長い人生において、何が幸いになり何が不幸になるか分からないものだから、一喜一憂しない方が良いということわざです。たとえば、馬を与えられて喜んだら、その馬が息子に大怪我をさせ悲しむ、ところがその後徴兵があった時に大怪我のおかげで息子の徴兵逃れができ喜ぶ、このような連鎖が人生にはありうるということです。

弟子たちにとって生身のからだを持つイエスと共に過ごすことは恵みです(4節)。すばらしい体験だからです。たとえば、それは神の子と面と向かって会い、言葉を交わし合うという体験です。これを真の礼拝とも呼びます(4:23)。そのことは、イエスと共に食事を取ることでもあり(6:1-15)、また共に同じ宿を取ることでもあります(1:39)。あるいはまた、神の子の業、つまりイエスの言行を間近で見ることでもあります(14:11)。困っている人を助ける奇跡行為や(9章・11章)、さまざまな隣人愛の教えや(15:12)、論敵である権力者たちとの論争を(9:40-41)、生で見聞きできるのです。イエスと一緒に居ることに勝る喜びはありません。

逆に言えば、イエスと別れることは大きな悲しみとなります。共に居ることが喜びなので、別れることは悲しみです。ある者にとっては、自分を初めて人間扱いしてくれたイエスです。ある者にとっては、ガリラヤ出身者差別・サマリア人差別からの解放を共に闘ってくれたイエスです。ある者にとっては、病気を治してくれたイエスです。ある者にとっては、死から蘇らせてくれたイエスです。イエスと共に旅をし、旅をするイエスに宿を貸す「信頼のネットワーク」に、中心人物であるイエスがいなくなることは大きな痛手です。すべての者は、生身のからだを持つイエスを見て信じているからです。面と向かう人間関係こそ、信頼のネットワークの強みです。しかし同時に、そこに課題もあります。自分の見たこと・聞いたこと・触れたことだけしか信じることができなくなるからです。

似たようなことを経験しました。2011年9月23日に板橋で脱原発のデモを行おうとして有志の実行委員会に集ったときのことです。実行委員会の席上、「福島の避難者にスピーチをしてもらおう」という意見に対する反論がありました。「被害当事者だけが語りうるのか、被害当事者だけに語らせることで良いのか、わたしたちもまた低線量被ばく者ではないのか」。わたしたちは福島で起こっていることを東京に住む者として語る責任があります。

2013年6月23日に沖縄出身の平良愛香牧師の話を恵泉教会で聞きました。「沖縄のことを沖縄の人に語らせることはもうやめてほしい。これまでに沖縄の人は何度も語ってきた。自分で学んで自分で沖縄に足を運んで自分の言葉で責任をもって語ってほしい」。わたしたちは沖縄の人たちの叫びを長い間無視し続けている鈍感さに気づき、東京でつくられる法律の内容についてもっと積極的にかかわらなくてはいけません。

生の体験や体験談に依存するとき、わたしたちは想像力を失うことがあります。責任感が希薄になることがあります。自分の当事者性に鈍感になることがあります。それは人間としての成長の妨げになりうる心理状態です。「自分の見たものだけを信じる」という単純さには、危険が潜んでいます。

そういうわけで、「見ないのに、信じる人は幸い」です(20:29)。また、イエスの言葉である「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」というのは本当です(6節)。いつまでも子どもの手を引き続け過保護にするのは悪い親です。いつか子どもが一人で歩けるように、徐々に自分がいなくなるのが良い親です。生身のからだのイエスの周りというのはきわめて限られた集団しかつくれません。イエスの霊である聖霊によってつくられる教会には、範囲の制限がなくなるのです。弟子たちは、イエス無しで・神の前で・聖霊と共に、自分の頭で考え信仰を告白する集団になります。それがペンテコステの出来事です。このことを「あなたがたのためになる」と言いたくて、イエスは自分が十字架で殺され、よみがえらされ、神の懐へと再び戻ることを予告したのでした(5節)。イエスの生身のからだがいつまでもあると、聖霊という弁護者は来ないので、その意味でこの悲しい別れは、新たな喜びの始まりともなるのです(7節)。人生万事塞翁が馬なのです。

今日の聖句は、以前取り上げた「弁護者」/「助け主」(パラクレートス)について、新しい説明を加えています。パラクレートスは、「真理の霊」つまり聖霊です(13節)。15:26にあるように、真理の霊は信者が裁判で冤罪を被る時に証言をできるように働く弁護者です。今日はさらに踏み込んでいます。弁護者は、罪・義・裁きについて「世の誤りを明らかにする」とされているからです(8節)。原義はもう少し強めで、「世を糾す(田川訳)/世を暴く(岩波訳)/断罪する(RSV)」です。このような裁判用語の羅列は、信者に対する迫害(1-4節)とも関係しますが、しかしそれ以上に、「世の終わりについての教え(終末論)」と深く関係します。聖霊の神は終末の神だということです。

以前にわたしたちの時代は「中間の時代」だと述べました。一回目にイエスが来臨した時(降誕・生涯・十字架と復活・昇天)と直後の聖霊降臨から、二回目に来臨する時(世の終わり)までの中間の時代という意味です。この中間の時代に、聖霊という神が教会を導くということを言いました。この枠組み・時間感覚はとても重要な遺産・伝統です。このこと自体を翻すわけではありませんが、今日の聖句に従ってもう一つの考え方を重ね合わせます。それは、「聖霊降臨の際に世の終わりが始まった」という考え方です。言い換えると、中間の時代は、部分的に世の終わりが実現している時代だということです。聖霊が来られた時に、世の終わりは開始したということです。教会に連なる信者一人ひとりが、イエスの霊/息を吸い込んで、聖霊による知恵を得て、公正な判決や無条件の赦しを語って良いということです(20:21-23)。イエスの弟子は世の終わりまで、世を糾すことができます。聖霊によってできます。この意味で聖霊は世の終わりの神です。

たとえば、聖霊は信者に罪とは何かを教えます。罪とは、不特定多数の人々はイエスを信頼しないということです(9節)。「彼ら」には「不特定多数」の意味があります。「わたしはある(エゴー・エイミー)」というしっかりとした個人になれない、匿名の群集はイエスとの交わりに入ることができません。この群集心理こそ「罪(的外れ/道のふみはずし〔本田訳〕)」です。イエスが扇動された群集に殺されたように、また、今もわたしたちが情報操作されやすい性質を持っているように、罪とは自分の頭で考えないこと・名前を出して意見を言わないことです。世の終りにはすべての人が神の前に名前を呼ばれ面と向かいます。

たとえば、聖霊は信者に義とは何かを教えます。義とは、イエスがアッバと呼ばれる神のもとに行き、弟子たちはイエスを見ることができなくなること、にもかかわらずイエスを信じなくてはいけないということです(10節)。先ほど述べたように、見ないで信じる信仰を促し、人間を解放・成長させるので、このことは正義です。

たとえば、聖霊は信者に裁きとは何かを教えます。一見すると十字架はこの世の支配者が行った裁判のように思えます。ユダヤ自治政府とローマ総督が憎しみに満ちて、何らの罪もない神の子イエスを断罪し、死刑に処した出来事だからです。しかし、イエスの弟子たちにとってはそれだけではありません。十字架はこの世の支配者が断罪された出来事なのです(11節)。11節の「断罪される」だけは完了時制が使われています。ギリシャ語として奇妙な表現です。この時点で十字架にかかっていないからです。しかしアラム語話者ならばありえます。未来のことでも強く断定できるからです(預言の完了)。

一つ目の断罪は、イエスの死刑は冤罪だということです。この世で小さくされた人と共に生きた義人を殺すことは神の目に不正義です。殺した事実だけでこの世の支配者は倫理的に神によって断罪されました。二つ目の断罪は、十字架が逆転装置であるということです。十字架は神が神の子を全世界の代わりに断罪した出来事です。それによって、この世の支配者の罪でさえ、イエスに肩代わりされてしまったのです。復活によってすべての罪人に永遠のいのちが配られてしまいました。この世の支配者は勝ったと思ったけれども、完全に敗れました。「神に勝ることができる」という思い上がりが断罪されたからです。自分が軽蔑し貶め裁いて殺した相手に、自分が尊重され赦され生かされた時に、いのちの逆転が起こったのです。もしこのイエスを神の子と信じるなら、殺されたイエスの永遠のいのちを、代わりに自分が受け取り毎日復活の新しいいのちを生きることができるようになるからです。

弟子たちは聖霊をいただいた時、イエス・キリストの十字架と復活と昇天の意味を教えてもらいました。本当は世の終わりにすべての人が同時に知らされるべき真理です。それを恵みとして先に受け取ることが許されました。罪について、義について、裁きについて真理の霊が導いて悟らせてくれたのです(13節)。こうして、イエスの信頼のネットワークを真似しながら、イエス無しで・イエスの霊を吸い込んで、キリスト教会を世の終わりまで神の前でかたちづくる決意を固めたのでした。ペンテコステとはこの真理を悟った日です。この真理が弟子たちを自由にしたのです(8:32)。この真理に基づいて、弟子たちは世を糾すこと・福音宣教をし続けていったのです。

わたしたちの教会も、この弟子たちの子孫です。ここに同じイエスの霊が吹き続け、わたしたちは復活者に面と向かって出会う霊的な礼拝を今行なっています。教会の仕事は礼拝をしながら、罪・義・裁きについて世を糾し、イエス・キリストの福音を告げ知らせることにあります。今日の小さな生き方の提案は、罪・義・裁きについて世を糾すことです。それはキリストの十字架が何であるかを伝道することです。

十字架のイエス・キリストは罪人を裁きつつ赦す方です。それだからわたしたちは、この世界で無自覚な群衆として人を苦しめている人々や、力を濫用して自覚的に人を苦しめている人々を断罪することができます。それと同時に、根源的な意味では(キリストがすでに贖ったという意味では)、その加害者たちの存在が神に肯定され赦されていることをも告げることができます。すべての人は十字架と復活の逆転を信じるように招かれているのです。さらに二度と道をふみはずさないように教えなくてはなりません。わたしたちは新しい生き方を、裁き・赦しを受け容れた人に用意しなくてはいけません。礼拝に集うことは、加害者更生プログラム(悔改め)に参加し、新しい生き方である「個人として立ち名前を呼び合い尊重し合う愛の交わり」をかたちづくることなのです。

わたしたちは一人残らず罪人です。キリスト者もキリスト者でない人もキリスト殺しの加害者です。問題は罪赦された罪人と信じるかどうか、霊の導きを信じて新しい生き方へと歩もうとするかどうか、その違いだけです。その違いを伝えることが伝道です。