今日の箇所は西洋絵画で有名な「受胎告知」の場面です。クリスマスページェント(聖誕劇)でもお馴染みの箇所です。珍しくアドベント(待降節)でもないのに受胎告知の箇所に当たったので(先週からルカ福音書)、クリスマスとは若干異なる視点で、この物語を読み解いていきます。
「六か月目」(26節)とは、エリサベトの妊娠から数えて6ヶ月という意味です(24節)。ページェントでは省かれがちですが、マリアへの受胎告知(イエス)はザカリアへの受胎告知(ヨハネ)とひと組の出来事です。同じ天使ガブリエルであり(19・26節)、イエスとヨハネが親類同士であること(36節)、両者の誕生が奇跡的な出来事であったことも(18・34節)、二つの出来事の一体性を訴えています。
天使の発言もよく似ています。①「恐れるな」という呼びかけ(13・30節)、②息子の誕生予告と名付けの命令(13・31節)、③息子が将来どのような人となるかの予告(15-17節・32-33節)が共通しています。
このような場合、両物語で異なっている部分、すなわち本日の箇所にだけ現れる部分が、本日の指針となりえます。それは、天使がマリアに対してだけ語っている言葉や、ザカリアと異なるマリアの行動です。天使から見れば、諄々と説得してく一連の行為です。マリアから見れば、順々に覚悟を決めていく一連の行為です。
冒頭の天使の挨拶はザカリアに対してはありませんでした(28節)。天使はマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と挨拶をします。この言葉の直訳は「喜べ」ですが、普通の挨拶の表現なので「こんにちは」「ごきげんよう」「はじめまして」ぐらいの意味合いです。「主があなたと共に」もよくある挨拶です。問題は「恵まれた方」(28節)です。マリアが戸惑ったのはこの言葉です(29節)。自分が何の恵みを受けているか、皆目見当がつかないという戸惑いです。「恵みとは何か」が底にある主題です。
天使は察して、「あなたは神から恵みをいただいた」(30節)と重ねて恵みを話題にします。直訳は、「あなたは神のかたわらで恵みを発見している」(田川訳参照)です。神からの恵みというものは見ようと努力しなければ見えないものであり、自ら見出すべきものなのです。
天使はまず生まれ来る息子が、ダビデの再来であることを約束します(31-33節)。「父ダビデの王座」「ヤコブの家」という表現は、きわめて民族主義的な匂いのする言い方です。マリアは即座に否定します。結婚をしていないのだから生まれないと言います(34節)。もちろん科学的に不可能であるという意味ですが、この発言には、「ユダヤ民族の救い主が生まれるという約束への拒否」も含まれています。そのようなメシアなぞ産みたくないというわけです。
天使は言い直します。ザカリアに対してはなかった粘り腰です。「聖霊があなたに降る。生まれる子は神の子と呼ばれる」(35節)。この言葉は、使徒言行録1章8節と呼応しています。最初の教会が誕生するとき、聖霊がエルサレムに来ていたさまざまな国や地域に住んでいた人々に降り、民族主義を超えてすべての人が神の子とされたのでした。生まれてくるメシアは、ユダヤ人の王というだけではなく、全世界の救い主であると天使は説明しています。
さらに決め手として、エリサベトも妊娠しているという個人情報を天使はもらします(36-37節)。説得の切り札だったのでしょう。やりがいのある仕事であるし、決して不可能ではないということを、天使としては力説しています。「ためらい疑うのなら、エリサベトに会ってきなさい。恵みというものは自ら発見するものなのだから」。恵みとは何か。見込まれて、やりがいのある仕事を与えられているということです。
37節と38節の間でどれだけの時間が流れたのか、聖書には記されていません。かなりの長考だったと推測します。マリアはとりあえず天使に退去してもらうために返事をしたのかもしれません。「見よ、主の奴隷(女性形)。あなたの言葉どおりに、わたしにそれが起こるように」(38節直訳)。半信半疑だったと思います。次の瞬間、マリアはエリサベトに会おうとするからです(39節)。暫定的な決断ではあるけれども、マリアはためらいながら重要な決断をしています。その「ためらいながらの決断」について、さらに深めて考えましょう。
新共同訳では分かりませんが、著者ルカは「マリア」という名前を「マリアム」と綴ります(田川建三訳・岩波訳は「マリアム」)。マリアムはヘブライ語名「ミリヤム」の忠実なギリシャ語音写です。m音があるからです。他の福音書はギリシャ語の女性名らしくa音で終わらせるために、マリアとします。
ルカは特別な仕掛けをしています。旧約聖書のミリヤムという奴隷だった女性を見なさいという指示です(見よ、主の奴隷)。出エジプト記に登場するモーセの姉ミリヤムと、イエスの母マリアを比べなさいということです。ミリヤムは、赤ん坊のモーセの命を救った女性です。彼は奴隷だったイスラエルの民をエジプトから脱出させ、自由に解放した偉人です。モーセが生まれる時には大変な危機がありました。エジプト王ファラオは、「ヘブライ人の男の赤ん坊はナイル川に投げ込まなくてはいけない」という法律を成立させ、ヘブライ人(イスラエル人/ユダヤ人)虐殺を合法化していたのです。ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺を彷彿とさせる悪法です。
モーセは防水を施したかごの中に入れられ、ナイル川に投げ込まれたのでした。そのかごを姉ミリヤムは見守っていました。そしてエジプトの王女がモーセを救うまで、その段取りをつけたのでした。出エジプト記1-2章にはらはらする物語が絶妙な筆使いで描かれています。エジプト王女との交渉を引き受けたのは、ヘブライ人奴隷の少女ミリヤムでした。即座に殺されるかもしれなかったにもかかわらずです。彼女は差別と偏見を被り、重労働を負わされながらも、死を覚悟しながら弟の命を助けだしました。
ミリヤムに命を救われたモーセと、マリアから生まれたイエスが似ています。モーセによってイスラエルの民はエジプトの奴隷から自由とされます。イエスによってすべての民は罪の奴隷から自由とされます。ミリヤムとマリアは同じことをしています。同じ名前を持つ女性の意思と行動が歴史を変えたということです。一言で言えば、「やりがいのある仕事のために予想される困難を引き受ける覚悟」です。「一肌脱ぐこと」とも言えましょう。
マリアには天使の予告と命令を断ることもできました。突然「結婚前に子どもを産みなさい」と言われても嫌でしょう。マリアの身になれば、断るという決断を一概に悪いと決めつけられません。なぜならユダヤ人社会は、「結婚前の女性に強く処女性を要求する」法律を持っていたからです(申命記22章13節以下)。男性には同じことが要求されないので、これは性差別の一つです。ヨセフと婚約中だったマリアは(27節)、ナザレの町の人に殺されてしまう可能性があります。死の危険が予想されるけれどもマリアはためらいながらそれを引き受けました。
死にたくなければ婚約中のヨセフに協力してもらい嘘を言ってもらうしかありません。「赤ん坊は婚約者同士の間の子どもです」とヨセフに言ってもらうのです。おそらくヨセフはそのようにしたと推測します。ただしそのことはルカ福音書には記されません(マタイ福音書1章参照)。このことは、結婚前からマリア・ヨセフ夫妻に大きな溝をつくる原因となります。ヨセフは、自らの経歴に傷をつける、身に覚えのない不本意な嘘をつかなくてはならないのです。また夫から疑われる中での結婚生活の船出は、マリアにとっても不利益です。波乱含みの結婚生活が予想されるけれどもマリアはそれを引き受けました。
生んでからも苦難が続くことも予想されます。それは非嫡出子差別です。日本の民法も最近になってやっと改正され、非嫡出子の相続についての差別がなくなりました。ましてや古代世界の話です。父親がわからない子どもと、その母親は軽蔑され差別されていました。
マルコ福音書6章3節には、大人になった後のイエスに対する、ナザレの町の人々の偏見に満ちた発言が記されています。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で・・・」。父親ヨセフの息子と呼ばれていないことが要点です。金子啓一という神学者は、ここにイエスが受けていた非嫡出子差別を読み込みます。そして「イエスは自ら差別を被っていたので、娼婦など罪人とみなされた人々に共感する力が、彼には備わっていた」と解釈します。
当初ユダヤ教内の「ナザレ派」と呼ばれていたキリスト教は、ユダヤ教正統派から異端と宣告され破門されて、分派しました。その正統ユダヤ教の文書の中には(タルムード)、キリスト教に対する批判の言葉として、「イエスの父親が知られていないこと」=「けがれた女性から生まれたこと」がしばしば挙げられています。性産業労働者差別を前提にして、非嫡出子差別・ひとり親差別を表明している言葉。ここに時代の雰囲気が読み取れます。
1946年から沖縄では、米軍兵士が父親であろうと思われる赤ん坊が多く生まれます。産んだ女性たちと生まれた子どもたちへの偏見と差別に似たものを、イエスは生まれた時から浴びていました。ちなみにガリラヤ地方(26節)にもローマ帝国軍は駐留していましたから、似たような状況です。本田哲郎訳の小見出しは、<イエス誕生の予告――「ふしだら」の汚名を負わされるマリア>です。厳しい子育て環境が予想されますがマリアはそれを引き受けました。
37節と38節の間には、長い時間があったのではないかと推測するのは、以上のような困難をマリアが予想していたからです。事態はマリアの予想通りに進み、しかも予想以上の結末まで待っていました。ローマ帝国による息子イエスの処刑です(2章34-35節参照)。苦労続きのマリアの人生は、息子の処刑と埋葬の立会いで頂点に達します(23章55節)。
しかし、イエスの復活によって、今までの苦労が別の色で見えるようになります。マリアは復活の証人となり(24章10節)、その後、キリスト者となって初代教会の創設に関わります。マリアはもう一度聖霊を内にいただき、復活のイエスの霊と共に過ごすことになります。そしてイエスをメシアとして毎週礼拝する「主の奴隷=礼拝者」となるのです。いただいた時には苦い杯が、後で振り返ると「あれは上等の葡萄酒だったのだ」と、マリアは再発見しました。あの苦渋の決断も間違いではなかったと、後から思い直すこと。それが恵みというものの真相です。「喜べ、恵まれている者。主があなたと共に」。マリアが戸惑いを乗り越えて、この挨拶を素直に受け取るまでに、30年以上の月日が流れていました。
人生は「ためらいながらの決断」の連続です。その苦労の道のりの中に恵みを発見するためには長い年月が必要となります。へこたれないために聖書や信仰があります。「マリアに起こったことがわたしにも起こるかもしれない」と思うことが信仰です。聖書の物語が自分の人生に起こると思うことです。このような希望なしに生き抜くには、人生は余りにも過酷です。すべての人がこの信仰へと招かれています。