主の祈り マタイによる福音書6章9-10節 2025年10月26日礼拝説教

【はじめに】

本日の箇所はわたしたちが毎週の主日礼拝の中で祈っている「主の祈り」の前半部分を含みます。ルカによる福音書11章2-4節にもほぼ同じ内容が記されています。ルカ福音書との比較の中で、マタイ教会が重視していることを浮かび上がらせながら、わたしたちの信仰生活にとって有意義なことをお話ししたいと思います。本日は神への呼びかけのみを取り上げます。

 

9 だからこのようにあなたたち、あなたたちは祈れ。わたしたちの父よ。その彼は天の中に(いる)のだが。あなたの名前が聖められよ。 10 あなたの支配が来い。あなたの意思が生ぜよ。天の中におけるように、地の上にも。

 

【だからこのように祈れ】

ルカ福音書においては、弟子たちがイエスに祈り方を教えてほしいと求めています。浸礼者ヨハネは彼の弟子たちに祈り方を教えていたようです。それを羨ましいとイエスの弟子たちは思い、「わたしたちにも祈りを教えてほしい」というのです。とても円滑な導入です。求めがあって応えがあるという順番も説得的です。ただし、弟子たちとイエスの対話という閉ざされた空間の出来事です。

マタイ福音書にはこの説得的な導入物語がありません。主の祈りはマタイ5-7章という長大な「山上の説教」の一部に過ぎません。しかし、以前申し上げた重要な前置きがあります。すなわちそれは、「神は願う前からわたしたちの必要を知っている」というものです(8節)。「だからこのようにあなたたち、あなたたちは祈れ」(9節)と、マタイ版イエスは畳みかけます。「あなたたち」の繰り返しは強調構文です。力を込めてイエスは、目の前の大勢いる聴衆に向かって語っています。その聴衆はさまざまな出身地・背景を持つ人々でした。また、さまざまな病気や苦悩から癒された人々と、その人々と同伴してきた人々が集まった群衆でした(4章24節-5章1節)。

人生に欠乏を覚えるこれらの人々にとって「神はあなたの必要を祈る前から知っている」という言葉は福音です。人々はイエスの治癒行為に感謝していました。だから山の上まで同伴して説教を聞いているのです。イエスの福音は、救いを後付けするものでした。救いの出来事とは何だったのかと振り返ると、あの癒しは神が前もってわたしの必要を知っていたということを証明する出来事だったのだと、聴衆は確信したのです。

毎週の礼拝で読まれる聖書の言葉には、前の週の出来事を後付けするという役割があると思います。あの不思議な出来事は、わたしの必要を知っている神の計らいだったのだと、後で納得していく作業です。出来事が先、言葉が後です。

さて、「だからこのように…祈れ」とありますが、前もって必要を知っている神に願い求めを祈る必要があるのでしょうか。必要を知らない神に対しては祈って必要を教えることが自然に思えます。イエスの語る、「知られているのだから、知っている方に祈れ」は一種の形容矛盾です。しかしここに、大いなる真理が示されています。その真理とは、わたしたちの信じている神の本質に触れることでもあります。つまり神はご自身信実な方であり、わたしたちに信頼に値する誠実な対話を求めているということです。

神は素直な声を求めています。素直な言葉は信頼の証拠です。神は素直な求めに対して、「そんなことは知っている」と求めを斥けません。初めて聞いたかのように喜んで「そのような必要があったか」と聞いてくれます。神はこの意味で常に対話的であり教育的です。幼い子どもの他愛のない求めに対して、幼稚園の教師たちも「そうなんだ」とひとまず受けることと似ています。実際にその要求に応えるかは別問題です。信頼に値する対話そのものに価値があるからです。

 

【わたしたちの父よ】

ルカ福音書においては、「わたしたちの」(ヘモーン)という言葉がありません。「父よ(パーテル)」だけです。この比較から、イエスの元々の祈りの言葉は、「父よ」だけであったと推測されています。そして、マルコ14章36節等から、イエスは日常的に「父」とだけ神を呼んでいたと推定されています。マルコ福音書は、アラム語の「アッバ」(お父ちゃん)という言葉を正確に保存しています。「わたしたちの」はマタイ教会の付け加えです。

「アッバ」という呼びかけは、先ほど申し上げた素直な声を上げるという趣旨に重なります。卵を欲しがるわが子に蠍を与えるような父親はいないでしょう。神と信徒の関係を、イエスは父子関係に譬えています。もちろん、なぜ母子ではないのかという批判もありえます。性差別の課題です。また、もちろん親子であっても家庭内暴力、幼児虐待という課題もあるではないかという批判もありえます。親を神の譬えに用いることの限界があります。信頼できない親も確かにいます。戦後の日本においても尊属殺(父母等への殺人)が一般の殺害よりも重罪であったところ(家父長制を前提にした明治憲法に即す内容が存置されていた例)、人間の平等を謳う現行憲法に違反することが認められ刑法が改正されました。親もただの人です。躾と称する虐待は人権侵害です。

これらの正当な批判を真摯に受け止め、本日は、「自分が最も信頼している人物と自分自身との関係が、神と信徒の関係に類比できる」ということを確認したいです。それがアッバとイエスの関係です。その信頼できる人物にわがままを言うように、神に素直に語ることが祈りです。

わたしたちの」という、マタイ教会がなした付け加えにも独特の意義があります。それは「このように…祈れ」と関係があります。信仰共同体である「わたしたち」は、個人の素直な願いというだけではなく、教会全体の祈願として、また世界全体の祈願として、わたしたちの祈りである「主の祈り」の内容を祈るべきなのです。主の祈りの、特に前半の三つの祈願はかなり抽象的なものです。大きな主題を含んでいます。個人で祈るだけではなく、教会が祈りを合わせることがふさわしいでしょう。世界の呻きと、心を合わせて、共に祈るべき内容です。

次回以降一つずつ丁寧に読み進めてまいります。

 

その彼は天の中に(いる)のだが

語順からも明らかなように、この部分もマタイ教会の付け加えです。日本語には無い文法ルールですが、関係代名詞というものを用いると、後ろにいくらでも付け加えることができるのです。だからマタイ教会は、「アッバ」という言葉に、「わたしたちの」と「天の中に(いる)」を付け加えたということになります。わたしたちが毎週祈っている言葉で言えば「天にまします我らの」という部分です。この付け加えも重要な意義を持っています。

この文脈で「」は神のおられるところという意味で用いられています。幼稚園の子どもたちに、「神さまはどこにいると思うか」と聞いたところ、「上」と答える人がまあまあ多くおります。時々「心の中」という答えもあります。さらに、直截に「神がさまって本当にいるのか」と、こちらに反問する子どももいます。これらの対話は本当に楽しいものであり、こちらの信仰が鍛えられる場面でもあります。

天は上にある、天空の中に神がいるという答えは優れています。天は世界中繫がっているからです。わたしたちは一つの天を全世界で共有しています。そのような意味の天に神がいるということは、地上のどこからでも神を仰ぐことができるということです。また、どのような人々とも同じ神を仰ぐことができるということです。そして、地上のすべての人は、同じ神の子であるということです。

神が心の中にいるという答えは優れています。もしもそうであれば、神は常にわたしたちと共にいることになるからです。インマヌエル(わたしたちと共なる神)ということがらを、正確に捉えているのです。また、神が霊であるということをも正確に言い抜いているからです。信徒は「聖霊の宮」です。

神は本当にいるのかという問いは優れています。信頼して質問してくれているのだと思い感謝をしました。みなさんはどのように応えるでしょうか。わたしの応答は、(実は一瞬ひるんだのですが)「いるよ」という即答でした。「本当に」とさらにその子の問い。「本当だよ。でもなんでそんな風に聞くの」とわたしが問い返したところ、「親に聞いたら、『いない』と言われたから、どっちなんだろうと思って」とのことでした。「そうか。親御さんはご自分の考えを正直に言ったのだね。それは間違えではない。わたしは『神がいる』と信じているけれども、あなたはどう思いますか。自分が信じていることが正しいことだと思うよ」と、申し上げました。するとその子は「神さまはいると思う」と真っ直ぐなまなざしで言い放ちました。その信仰はわたしよりも優れているなと思った次第です。

これら一切の優れた思考を含んで、神は天の中におられます。わたしたちが信じている限りにおいて、神はどこにでもいるし、常にわたしたちと共におられるのです。そして神は、人間に「神がいるのか」を問う自由を与えています。「イエスさまいるってほんとかな」という讃美歌の歌詞がある通りです。個人の信仰は、共同体の中で育まれます。共にパンを分け合う輪の中で、そこが天であると信じる群れの中で、真摯な問いと答えが交錯する中で、信頼のネットワークの中で、「我信ず」という信仰が与えられるのです。「天にまします我らの父よ」という神への呼びかけが、交わりの中から湧き上がり、「天にまします我らの父よ」と共に呼びかける度に、全く逆説的なことですが、個人の信仰が深みと厚みを増していきます。

 

【今日の小さな生き方の提案】

わたしたちの必要を全てご存じの神に向かって、教会で、あるいは世界の只中で、「主の祈り」を祈りましょう。イエスがアッバと呼びかけられた神は、わたしたち全員を創られた神であり、わたしたち全員を上から見守る神であり、わたしたち全員のうちに同時に住まわれている霊の神です。この神を感じましょう。隣人たちの祈りに「アーメン」を和する時に、共に聖書を聞く時に、共に賛美を捧げる時に、神がおられることを感じることができます。共にパンと葡萄酒を分ち合う時に復活のイエスがおられます。その感覚をもって、素直に祈ることが大切です。神は素朴な信をないがしろにせず、むしろ尊びます。主の祈りはわたしたちの信を強める、わたしたちの祈りです。