主は私の羊飼い 詩編23編1-6節 2022年2月27日  礼拝説教

 詩編には座標軸があります。個人のうたか、集団のうたか。またほめたたえのうたか、嘆きのうたか。二つの座標で、四種類に区分されます。①個人・ほめたたえ、②個人・嘆き、③集団・ほめたたえ、④集団・嘆きという四通りの組み合わせです。本日の箇所は、「私」という主語が示す通り「個人のうた」です。そして、内容はほめたたえに近いので、①個人・ほめたたえ類型にあたります。非常に有名な信仰告白的なうたです。神がどのような方であるかを素朴に歌い上げています。

1 ダビデのためのうた。ヤハウェは私の羊飼い。私は乏しくない。2 若草の牧場の中、彼は私を伏させる。休らぎの水に面し彼は私を憩わせる(ナハル)。 3 私の全存在(を)彼は戻す。彼は私を導く(ナハン)、義の道々の中、彼の名前のゆえに。 4 もしも私が暗黒の谷の中歩くとしても、私は悪を恐れない。なぜならばあなたが私と共に(いる)からだ。あなたの鞭とあなたの杖、それらが私を勇気づける(ナハム)。 

 この詩を誰が書いたのかは不明です。「ダビデのためのうた」(1節)のようにも翻訳できるからです。ダビデ王が元々羊飼いだったことや、古代西アジアにおいて王が羊飼いに譬えられていたことなどから、匿名の詩人がダビデに献じるという設定で自らの神理解を歌にして告白したのでしょう。ヘブライ詩の技巧(語呂合わせや、特定の構文の整合、特定の動詞の繰り返し)に注目して、詩人の信仰告白をかみしめたいと思います。詩人は自らの神が自分に対して何をする救い主なのか。そしてそれに対応して、信仰者である自分はどのような状態になり何をするのか。神と私、私とあなた。この両者の関係性に注目していきたいと思います。

 初めに語呂合わせです。「私を憩わせる(ナハル)」(2節)、「私を導く(ナハン)」(3節)、「私を勇気づける(ナハム)」(4節)は、非常によく似た発音で統一され、しかもみな「私を」という目的語を含んだ形でも統一されています。2節の「私を伏させ」も、同じく目的語を含んだ形です。詩人にとって神は「私に働きかける神」です。誰か第三者にとか、どこかの国の人々にとか、そのようなよそよそしい神ではありません。また、何も動かないで、天国に座している神でもありません。神は、私に作用し生きて働く神です。そして実際に私を伏させ・憩わせ・導き・勇気づける神です。信徒のために動く神・信徒を動かす神。ここに聖書の神の本質があります。

 その救いは、羊飼いが羊を生かすいくつかの場所や物に結びついています。「若草の牧場」「休らぎの水」(2節)、「義の道々」(3節)、「鞭」「杖」(4節)です。草と水は栄養です。豊かさの譬えです。ただこの詩には牧歌的なのどかな情景が描かれているようには思えません。詩人は、「鞭」「杖」に防護されながら義の道々の中を導かれているとも言っています。鞭と杖は、羊飼いが外敵から羊を守るための道具です。外敵と「私の加害者」(5節)は同じ意味でしょう。だから義の道は、「暗黒の谷」(4節)という「広い道」(悪)にある「狭い道々」(義)を指すように思えます。少数者として義なる狭い道々を選ぶ時に、真の羊飼いが真の豊かさを与えるということ。そこに満足と安息が逆説的に与えられるのです。「貧しい人々、あなたたちは幸いだ」という羊飼いイエスの呼びかけに、「私は乏しくない」(2節)と応えたいものです。

 生きて働く神・救い主を、詩人はあえて名詞文という構文を使って強調します。名詞文とは動詞がない一文のことです。「ヤハウェは私の羊飼い」(1節)と、「あなたが私と共に」(4節)が名詞文です。動詞を使わないことで引き締まった表現となり、断定的になります。動詞がないからこそ、逆に、神がどのような行為をされるのか想像が膨らみます。羊飼いの羊に対する所作の全般が想像されるからです。名詞文に関しては日本語の強みもあります。be動詞がなくても意味が通じる「体言止め」が日本語文法にあるからです。

この二つの名詞文は呼応して、神が羊飼いに似ているということ、羊飼いであるからこそ羊である私と常に共に居ることを、力強く印象付けています。神は信徒がどこに居ようとも共に居られる神です。インマヌエルとよく言われます。「神我らと共に」という意味であることはクリスマス物語でしばしば聞くところです。ただしインマヌエルという「集団の信仰告白(ほめたたえ)」は、「我らとは誰か」という問題を常にはらみます。我らの線引きを考えることは有益ではありますが、残念なことにそこに注力することで肝心の「神が共に居られるという救い」がぼやけてしまうことがあるのです。

詩編23編は集団ではなく、「神我と共に」と個人の信仰告白を述べています。それだからこそ、個人の心により深く突き刺さります。創世記に登場する各族長たちに対する神の振る舞いが、個々人の信徒の心に深く刻まれ、共感が押し寄せてくることと似ています。

族長個人と共なる神は、アブラハムを導き出しました(創世記12章1節)。ハガルを見守り(同16章13節)、ロトと二人の娘の手を取り(同19章16節)、サラに笑いを与えました(同21章6節)。イシュマエルと共に居り(同21章20節)、迫害する者たちに追い立てられるイサクにも、一人旅をするヤコブにも「私があなたと共に」と語りかけました(同26章3節、同28章15節)。さらに、外国で冤罪をかぶせられ獄中に閉じ込められたヨセフとも共におられる方でした(同39章23節)。

これらの族長たちは羊飼いという職業を持ちながら「私と共に居る神」を信じ、真の羊飼いである神に個々ばらばらの羊としての人生を持ち運んでいただいたのです。ヤコブは最晩年にこう語りました。「私の生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」(同48章15節)。「ヤハウェは私の羊飼い」という信仰は、族長たちの信仰を継承しています。

 現代の日本社会において、「個人」ということを強調する信仰のあり方は示唆深いと思います。日本社会には個人の尊重という考え方がまだまだ育っていません。「私はこう思う」と言うと、仮に内容が正しくても世間や職場や学校や家族から、囲まれ追い込まれ虐げられます。詩人が「暗黒の谷」(4節)として批判している状況が、今・ここに存在します。この「暗黒」(ツァルムート)には「死の陰」という意味はありません。「死の陰」(ツァル・マウェト)は一つの単語を二つに分けて解したギリシャ語訳に引きずられた本文の読み方です。本日は「暗黒」を採ります。死という災いではなく、わたしたちを取り巻く暗黒/闇という悪が問題だということです。

キリスト信仰は、個人を呑み込む茫漠と広がる砂漠や、個性を形なくむなしいものに溶かす混沌から、わたしたちを救い出します。神が義の狭い道々を切り開き、混沌の中に一条の光を差し込み、苦しめられている個人を救い出す方であるからです。だから、神を信じる私たちは、個人として立ち、暗黒の谷の中を歩く場合にも悪を恐れません。むしろ神のみを畏れ、神のみを崇め、神のみをほめたたえるのです。

5 あなたは私の面前に食卓を整える、私の加害者に相対して。あなたは油で私の頭(を)潤す。充溢の私の杯。 6 善良と信実のみが私を追う、私の生の日々の全て。そして私は戻った、ヤハウェの家の中、日々の期間に(わたって)。

 4節までは屋外の場面でした。5節からは屋内に場面が変わります。羊飼いと羊ではなく、家の主人と客に登場人物も交代します。主人が、遠方からの客を迎え入れ歓待するパーティーの場面です。油注ぎの「任命」ではなく、頭を油で潤す歓待がなされています。ここで信徒は羊から客人になります。迷い出た羊を必死に探した羊飼いの譬え話と、放蕩息子が父親に歓待された譬え話が、同じルカによる福音書15章に収められています。詩編23編と呼応しています。ルカ15章を思い浮かべながら詩編23編を読むことは有益です。羊飼いと父親は同じ神の譬えです。同様に5節以降の家の主人も同じ神の譬えです。

 この食卓もまた「私の加害者」(5節)と対峙している場面です。だからこれは平穏なパーティーではありません。外は大嵐、大揺れの箱舟の中にいる動物たちの食卓です。教会の主の晩餐に似ています。「私の杯」(5節)という表現も晩餐を連想させます。礼拝/主の晩餐は束の間の安息です。平日の厳しい旅の最中、立ち寄った家で歓待を受けて、主日に少しの間だけほっとしたという食卓です。旧約聖書において加害者たちは被害者たちをしばしば「追う(ラダフ)」ものです(6節)。それは「追い回して迫害する」という慣用句です。背後からの敵は恐怖の的です。詩人はこの慣用句を裏返します。敵ではなく、「善良」と「信実」のみが後ろから追いかけてくるというのです。擬人化された「善良」「信実」は、神の性質をどちらも表しています。 

義の狭い道々の中、敵は後ろから追って来ません。後ろを静かに神ご自身が歩きます。それにより神が無防備な背後を守ります。こうして神は前にあって加害者と対峙しつつ、後ろにあって信徒を守り、信徒を歓待します。

この歓待は、信徒の全存在が戻る(シューブ)ことです(3節・6節)。干しシイタケが水で戻されるのと似ています。干からびくたびれた生命が、潤いを取り戻すのです。この詩の中で6節だけが完了形を使っています。「戻った」という動作の完了、断言の口調です。「戻るのだ」という強い決意でも構いません。神の救いは、「生の日々の全て」「日々の期間にわたって」なされる個人の決意に基づきます。毎日の感謝や賛美、毎週の「ヤハウェの家(通例「神殿」と訳される)」でなされる礼拝/主の晩餐。信徒は毎日生活に干からび、毎日「善良」と「信実」を経験し潤いを取り戻します。毎週からからに渇き、ぺこぺこに飢え、主の日に渇くことのない水を飲み、満腹します。

「戻る」という動詞が、前半の譬えと後半の譬えを串刺しにしてまとめています。救いとは「元来の私」「私らしい生き方やあり方」に戻ることです。個人としての私らしい生き方を阻むものは多くあって人生を取り囲んでいます。そのような厳しい環境の只中にあって、救い主は安息の食卓を用意し、人生を生き抜く力を与えてくれます。教会の礼拝は、荒野の中の牧場・汀、敵に囲まれた中の祝宴です。

 今日の小さな生き方の提案は、詩編23編に示される神を信じることです。それは継続する日々の営みです。毎日祈り感謝しほめたたえる信徒は、生活のふとした場面に、小さな「善良」や小さな「信実」を見出すはずです。そこに喜ぶはずです。なぜならそれは神の背後からの働きかけだからです。そのようにして小さな幸せ(小さくても溢れる私の杯)を探す者が、狂気の支配する世界にあっても自分自身を取り戻すのです。救われた者は良心的に、自分らしく堂々と日々を生きることができます。毎週わたしたちは主の晩餐で、パンと杯によって神が「善良」かつ「信実」な方であることを確認しています。私たちは「悪」と「不誠実」に取り囲まれ、自分たちの存在が脅かされています。救いは継続的な意思を必要とします。神により自分を取り戻す意思です。個人と共にいる神の前で、私らしく生きましょう。