預言者ゼファニヤは、最も長い系図で紹介されている預言者です。それによりいくつかの興味深い事実が分かります。1章1節の私訳はこうです。「ゼファニヤに向かって成ったヤハウェの言葉/出来事。(彼は)クシ/クシュ人の息子、ゲダルヤの息子、アマルヤの息子、ヒゼキヤの息子。アモンの息子・ユダの王ヨシヤの日々に。」ゼファニヤはヒゼキヤ王の曾孫です。そしてゼファニヤの父親は「クシュ人」、すなわちエチオピア人です。20世紀に米国黒人神学が興った時に預言者ゼファニヤは再評価されました。アフリカ系イスラエル人預言者が「発掘」されたからです。ヒゼキヤ王の子孫かつアフリカ系イスラエル人という視点から、本日の箇所を読み解いていきましょう。
ゼファニヤ書は前630年ごろに書き始められたと言われます。およそ70年間預言は止んでいました。ヒゼキヤ王がアッシリアに敗れ、アッシリアによる支配によってイザヤやミカ以降誰もアッシリア批判や自国の王批判を語れず書けなかったのです。ヒゼキヤの師匠イザヤは鋸で首を挽かれて処刑されたと伝えられます。思想信条の自由、言論表現の自由が抑圧されていました。ゼファニヤの預言は、70年間の沈黙を破る勇気ある行動でした。1章2節の「全地一掃(自国他国含む)」という激しい主張は弾圧抑圧の大きさを表しています。「ゼファニヤ」という名前の意味は「ヤハウェは隠す/保護する」。地下に潜って政治思想活動を行っていたことを示唆しています。おそらくゼファニヤはイザヤ書等「前8世紀の預言書類」を保存していた人々の一人です。
ゼファニヤの志は、イザヤの薫陶を受けた曾祖父ヒゼキヤ王の「改革」の継続です(王下18章1-4節)。さまざまな偶像を排斥して、ヤハウェだけを礼拝するという夢です。ゼファニヤは、申命記をもってユダ王国を改革しようとする「国の民」に参与します(王下21章24節以下)。そしてアモン王を討ち、その息子8歳のヨシヤ王を擁立し、ヨシヤにヒゼキヤ王の夢を託します。ヤハウェのみを礼拝する国を作ろうというのです。
しかし期待のヨシヤ王は軍拡路線の結果、前609年に殺され、改革は頓挫します。ゼファニヤ書3章9節以下は、その挫折と悔い改めの中から生まれた希望の言葉です。そしてそれは、使徒言行録8章と共鳴し合っています。
9 というのもその時わたしは民〔複数〕に向かって清められ続けている舌(を)向ける、彼らの全てがヤハウェの名前を呼ぶために、一つの肩(で)彼に仕えるために。 10 クシュの川〔複数〕に属する向う側からわたしの礼拝者たちが、わたしに散らされ続けている娘がわたし(へ)の捧げ物を携える。11 その日貴女は、貴女がわたしに背いた貴女の行為の全てよって恥じることはない。というのもその時わたしは貴女の内部から貴女の膨張の狂気〔複数〕(を)取り除くからだ。そして貴女はわたしの聖の山において高ぶることをもはや重ねさせることはない。
ゼファニヤは自分もそこに熱狂していた民族主義・国家主義を反省しています。常勝将軍ヨシヤ王が凱旋するたびに、「唯一の神ヤハウェが、唯一の神の民イスラエルに勝利をもたらせた」と、「聖の山」シオンにある唯一の神殿エルサレムで熱狂的に迎え入れたものでした。この態度は、エルサレム内部からあふれ出る「膨張の狂気」でした。ところが、驕るヨシヤ王は大国エジプトに殺されました。剣を取る者は剣で滅ぼされるのです。民族主義に基づく隣国への侵略こそが神に背いた行為かもしれないと、ゼファニヤは大いに恥じ入ります。そこでゼファニヤは視点を自らのルーツに向けます。エジプトよりもさらに南にあるエチオピア(クシュの川)です。いや、エチオピアだけではなく、諸々の民、全ての民です。
あらゆる個人(エノシュ)が「ヤハウェの名前を呼ぶ(=「礼拝する」創世記4章26節)ために」、肩を並べて「彼に仕える(=「礼拝する」)ために」、神は「清められ続けている舌」を「彼ら/彼女たち全てに」配るというのです。目的がはっきりと明記されています。礼拝するためです。そして礼拝のためには、「清められ続けている舌」が必要です(イザヤ書6章5-7節)。同じ口が、呪いと賛美を同時に発することはできません。隣人を差別しながら神を崇めることは不可能です。ペンテコステの時のように聖霊の神が、わたしたち一人ひとりに向けて「清められ続けている舌」を配るので、どのような個人も主を礼拝することができます。隣人として対等に肩を並べながら。
礼拝という行為には、いくつかの要素があります。「捧げ物」も要素の一つです。ゼファニヤの時代にすでに「賛美」「祈り」は重要な要素だったと推測できます。イスラエルの民は、賛美や祈りの中で、個人や民の罪を告白し、個人や民の弱さを嘆き、しかし同時にそれらを潜り抜けて、肩と肩を組んでヤハウェをほめたたえ、ヤハウェにのみ栄光を帰したのでした。この良き伝統と、政教一致した「国教」は相反します。国教においては神の名を騙って、個人や民を「膨張」させてしまうことがあり、結果として神に栄光を帰さず、民族や国家に栄光を帰す「狂気〔複数〕」が蔓延してしまうからです。
目的と同時に、主体・行為の主語も明らかです。ヤハウェの名を呼ぶための舌を配るのは、ヤハウェご自身です。イザヤの罪の自覚、「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者」という嘆きはとても重要です。誰も聖なる神の前では謙虚にならざるをえません。しかし、神がそのような者の口、唇、舌に触れます。神がわたしたちの罪を赦します。神がわたしたちに相応しい歌詞を与えて讃美歌を歌わせてくださいます、神がわたしたちにふさわしい祈りの言葉を与えてくださいます。それによって、実にそれのみによって、わたしたちは神を礼拝することが可能となるのです。ゼファニヤも、偉大な先人イザヤと同じ心境に至りました。ヒゼキヤ王に失望したイザヤと同様に、ゼファニヤもまたヨシヤに失望し、自分自身にも失望して自己批判をし、政教一致した国家を批判していきます。神がエルサレムに住む自分(たち)の「高き所」を取り除いてくださるようにと祈るのです。
そのような思考の過程を経てゼファニヤは、自らのルーツであるエチオピア人も、その他全ての民も、南ユダ王国人(後に「ユダヤ人」と呼ばれる)とはならなくても、同じ礼拝ができると告げました。ここには割礼の厳守は条件となっていません。ただ清められた舌だけが必要なのです。「クシュの川〔複数〕に属する向う側からわたしの礼拝者たちが、わたしに散らされ続けている娘がわたし(へ)の捧げ物を携える。」(10節)。バベルの塔の出来事以来、神が散らし続けている諸々の言葉/舌を持つ諸々の民が、再び集められる時が来ます。この人々もアブラハム・サラの「娘」だからです。この預言は、エチオピアの宦官がエルサレムへギリシャ語訳聖書を携えて礼拝をしに向かい、その帰り道にイエス・キリストを信じてバプテスマを受けた出来事によって成就しました(使徒言行録8章26節以下)。誰も宦官がキリスト者になることを妨げることはできません。
12 そして貴女の内部においてわたしは貧しくかつ弱い民(を)残した。そして彼らはヤハウェの名前を頼った。 13 イスラエルの残りの者は彼女の不正義を行わない。そして彼らは嘘〔複数〕を語らない。そして欺瞞の舌は彼らの口の中に見出されない。というのも彼らこそが牧羊するからだ。そして彼らは伏す。そして脅かすものは存在しない。
こうしてエルサレムの内部には「イスラエルの残りの者」(13節)が存在することになります(イザヤ書10章20節以下参照)。この人たちは、国家ではなく、民族の英雄でもなく、ただ「ヤハウェの名前を頼った」「ヤハウェの名前を呼ぶ」礼拝者たちです。この人たちは国家の内部にある「貧しくかつ弱い民」でもあります(12節)。この貧しくかつ弱いという状況に追い込まれている人を「柔和な人」とも呼びます。この場合「柔弱」といった個人の気質のことを指すのではなく、「腰を屈まされた者」といった意味合いです。仮に貧弱であっても同調圧力に屈しない、強靭な精神を持った少数者のことです。
残りの者たちの特徴は、かつてのエルサレム住民が行っていた「彼女の不正義を行わない」ところにあります。不正義の具体例は「嘘〔複数〕」を語ることです。「欺瞞の舌」を操ることです。裁判の時の偽証だけではなく、もっと些細な日常的な嘘や欺きでしょう。今でもありうる悪い噂の類、扇動の類もここに含まれます。ヤハウェの生を呼ぶ礼拝のために舌が清められ続けている者たちは、日常生活においても欺瞞の舌ではなくなるというのです。明確な差別発言だけではなく、マイクロアグレッション(小さな攻撃性)や、少数者を孤立させていく多数者の同調の波なども、そこに含まれるでしょう。
残りの者たちとは、国家の中にありながら、国家から自由な少数の礼拝者たちです。その人たちは燃える炎である舌を制御することができます。その人たちは他者を尊重する言語を身に帯びています。その人たちは神を賛美する言葉に慣れています。その人たちは隣人と適切な距離を保つ術を知っています。なぜならば礼拝の中で神に栄光を帰す賛美をし、目の前の隣人を尊重し、目の前にいない隣人のために祈っているからです。
それと同時に残りの者たちは、社会の多数派が安易な道・広い道に流されそうな時に、白眼視されながらも正直かつ誠実に自らの良心に基づいた発言をする人です。しかもその発言は、偏狭な民族主義や国家主義に基づく不公正な内容ではなく、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、国際社会において名誉を得ようとする公正な内容です。「幸い、柔和な者たち。その人たちは地を継ぐ」(マタイ福音書5章5節)。
実は世界はこのような良心的な少数者たちによって養われ導かれています。「というのも彼らこそが牧羊するからだ」(13節)。原文は残りの者たちが羊飼いとなって世界を牧会しているように読めます。自らが羊飼いとなり、自らが羊ともなり、安住しているように解せなくもないのです。ゼファニヤが言論弾圧からの解放を経験し、かなり攻撃的な言論を行使して国策を後押しした後にたどり着いた境地は、適切な言葉を使って世界を牧会することです。このような神の支配は、誰でも小さな輪から始めることができます。教会は、その小さな輪の一つです。残りの者たちが牧会する世界には、「脅かすものは存在しない」(13節)。わたしたちの存在を脅かす恐怖は、何も存在しません。
今日の小さな生き方の提案は、主を賛美し続けることです。内心・信教・思想・表現の自由が与えられていることに感謝をしましょう。「イエスが主である」「私は小さいが主は大きい」という礼拝賛美のために舌を用いることです。用いない自由・権利はいつの間にか制約されていきます。
そしてこの自由をもっと積極的に用いていくことです。まずは小さな攻撃性の刺を舌から抜きましょう。その刺こそ死に至る罪です。そして今貧しく・泣き・飢えている隣人たちのために、今困っており・狭いところに押し込められている人たちのために、つまり自らの存在が脅かされている者たちのために、自分の舌が清められ続け用いられるようにと祈りましょう。勇気ある少数発言が貶められている隣人の魂を救います。