二度目の依頼 民数記22章12-21 節 2025年1月19日礼拝説教

はじめに

バラクとビルアムの物語の第二回目です。モアブの王バラクは、ヤハウェの預言者ビルアム(アラム人)に、「イスラエルを呪うためにモアブの地に来てほしい」と願いました。これが一度目の依頼です。そこでその夜ビルアムはヤハウェの意思を尋ねます。夢の中なのか、それとも幻の中なのか、あるいは静寂の中の精神集中した祈りの中なのか、ビルアムは毎日夜に神と話し合いをしていたようです(13・21節参照)。今回はヤハウェの意思がビルアムに告げられるところからの物語です。注目点は、神の意見変更です。

 

12 そして神はビルアムに向かって言った。貴男は彼らと共に歩くな。貴男はその民を呪うな。なぜなら彼は祝福され続けているからだ。 13 そしてビルアムはその朝に起きた。そして彼はバラクの高官たちに言った。貴男らは貴男らの地に向かって歩け。なぜならヤハウェが、貴男らと共に歩くことを与えることを拒んだからだ。 14 そしてモアブの高官たちは起きた。そして彼らはバラクに向かって来た。そして彼らは言った。ビルアムはわたしたちと共に歩くことを拒んだ。 

 

神の拒絶と警告

第一回目の依頼に対するヤハウェの神の意思は拒絶です(12節)。バラク/モアブの高官たちとビルアムが「共に歩く」(12・13・14節)ことを神は認めません。「歩くな」「呪うな」という表現は、十戒と同じものですから、絶対的な禁止と理解できます。「バラクの高官たちと共に決して歩いてはならない」「イスラエルの民を絶対に呪ってはならない」という、強い禁止がここで言われています。

ここで疑問が湧きます。ではなぜ二度目の依頼に対しては「一緒に歩く」(20節)ことを神は認めているのでしょうか。非常に小さな違いですが、12・13・14節および21節の「共に」(イム)と、20節の「一緒に」(エト)は単語が異なります。この違いが分かるように訳語を変えてみました。神は「共に歩く」ことを禁じ、「一緒に歩く」ことは渋々認めていると捉えます。二つの前置詞は旧約聖書の中でほとんど同じ意味で用いられています。ただし、エトの方が、より古く、より少数で、そのためにより意味範囲が狭いものです。語源的にはアッカド語由来であって、遠い親戚から来た言葉です。このような珍しい表現で「一緒に行く」ことを認めているというところに、神の警告を読み取ります。ただ一回のエトの使用は、「同行しても良いけれども気を付けるべきところは気を付けなさい」という合図です。

次に「歩く」(ハラク)という行為です。ここでは「行く」という意味でしょうけれども、「歩く」や「生きる」という意味もあります。日本語においても同じような意味の広がりがあります。「共に行く」であれば「同行する」という意味にしかならないでしょうけれども、「共に歩く」であるならば、人生の旅路を共にしていくという意味も抱え込んでいきます。「エノクはその神と一緒に自由に歩いた」(創世記5章22節私訳)という時の意味合いです。

ビルアムに対する神の警告は、同行することは構わないけれども、自分自身の生き方まで依頼者に影響されるなということなのではないでしょうか。曲げてはいけない生き方というものがあります。曲げてはいけない有り様とは神が祝福しているものを祝福するということです(12節)。神が良い/清いと言っているものを、悪い/清くないなどと言ってはいけないのです。神はご自分の創造したものをすべて祝福され続けています。わたしたちはそれに反対することが許されていません。すべての差別が認められない理由です。

ビルアムは高官たちに「ヤハウェが拒んだ」と言い(13節)、高官たちはバラクに「ビルアムが拒んだ」と言います(14節)。この主語の転換に、預言と占いの違いが垣間見えます。ビルアムは自分をヤハウェの神の伝言者と考えています。自分の意思ではなく神の意思を伝えたに過ぎません。これが預言者の職業倫理です。しかし、高官たちは、占い師ビルアムには神の意思(地上に起こる現象)を捻じ曲げる力があると考えていました。何か気に障ったことがあるから(たとえば使者たちの地位の高さや人数、報酬の多さ)、ビルアムはビルアムの意思で拒絶したと、高官たちは考えました。

ビルアムに対するヤハウェ神の警告は、彼らのような生き方に染まらないようにというものなのかもしれません。ビルアムの拒否は、彼の良心・思想信条が理由です。彼の信じる神(18節「わたしの神」)が与えないことがあるということなのですから。人間の心の中には、良心・思想信条という深い領域があります。誰にも侵されない内心です。毎晩の神との対話によって態度を決める生き方が、高官たちに軽んじられていることが問題です。高官たちのような生き方に倣ってはいけません。自分の良心に従うこと、相手の良心を認め尊重することが求められています。バプテストが大切にしている事柄です。

 

15 そしてさらにバラクは、これらよりも多くかつ重んじられている高官たち(を)、送ることを再びした。 16 そして彼らはビルアムに向かって来た。そして彼らは彼のために言った。このようにツィポルの息子バラクは言った。ぜひ貴男はわたしに向かって歩くことを控えるな。 17 なぜならわたしは必ず貴男を非常に重んじるからだ。そして貴男がわたしに向かって言うことを全てわたしは行なう。そしてぜひ貴男は歩け。貴男は呪詛せよ、わたしのためにこの民を。 18 そしてビルアムは答えた。そして彼はバラクの僕たちに向かって言った。もしもわたしのためにバラクが彼の家の満量、銀と金を与えるとしても、わたしはヤハウェ・わたしの神の口を越えることができない。小さくあるいは大きく行なうことが(できない)。 19 そして今、ぜひ貴男らもまた、ここでその夜、留まれ。そうすればヤハウェがわたしと共に語ることを再びすることが何であるのかを、わたしは知る。 

 

二度目の依頼

高官たちの報告によって、モアブの王バラクは二度目の依頼をすることとしました(「再びする」15・19節)。バラクは、遣わした高官たちの数が少なかったことや、地位が低かったこと、それによって約束される報酬が少ないと推測されたことが、第一回目の依頼が拒絶された理由と考えました。おそらく高官たちも、これらの理由を挙げたのだと思います。そこで15節にあるように、二度目の依頼には、第一回目の高官たちよりも数を多くし、より「重んじられている高官たち」(=「バラクの僕たち」18節)を遣わします。この人々が、報酬額の多さを保証します。王の側近のように「非常に重んじる」(17節)ことを、バラクは付け加えているからです。「重んじる」(カベド)は、「栄光」「誉れ」(カボード)と同根の言葉です。そして十戒の第五戒「あなたの父とあなたの母とを重んじよ」で用いられています。報酬額だけではなく名誉が国家から与えられることをバラクは約束しています。国家による権威付与は大きな誘惑です。

しかしビルアムは自分自身の態度を変えません。報酬額の多さ(銀と金)は依頼の拒絶もしくは受諾とは関係がないのです。ビルアムはヤハウェの口を越えることができません(18節)。

ヤハウェの口とは、第一に①口頭でのヤハウェの許可です。「バラクに向かって行け」という言葉が与えられない限りは、ビルアムは大きくも小さくも動けません。第二に、ヤハウェの口とは、②ヤハウェの言葉の内容でしょう。ビルアムはヤハウェの言葉を、大きくも小さくも変更することができません。前回は、第一の意味の許可が出ませんでした。二度目の今回はどうなのでしょうか。「あなたたちもまた前回の高官たちと同じように一泊して、次の朝まで待ちなさい」とビルアムは言います。その夜にビルアムとヤハウェは「共に語る」のですから(19節)。

 

20 そして夜、神はビルアムに向かって来た。そして彼は彼のために言った。もしもその男性たちが貴男を呼ぶために来たのならば、貴男は彼らと一緒に歩け。しかしただわたしが貴男に向かって語る言葉を、貴男はそれを行なえ。 21 そしてビルアムはその朝に起きた。そして彼は彼の雌ロバに(鞍を)つないだ。そして彼はモアブの高官たちと共に歩いた。

 

神の意見変更

意外なことに、神はビルアムの同行を許可します。①はクリアです。なぜでしょうか。ヤハウェはビルアムの気持ちが少しバラクの方に傾き始めたことを察知したのだと思います。ビルアムはモアブの高官たちのような歩み方になっています(21節)。神は、そのビルアムの意思を尊重します。聖書の神は裏切る自由も保障する、ご自身自由である神です。アダムとエバにも、また、イスカリオテのユダやペトロやパウロにも、神に敵対したり裏切ったりする自由を与えています。さもなければ信頼というものは意味をなさないからです。ただし一点注意をするようにと、「一緒に」(エト)で合図します。

①と②という二つの意味を含んで、やや曖昧だった「ヤハウェ・わたしの神の口を」守る行為を、神が言い換えています。「しかしただわたしが貴男に向かって語る言葉を、貴男はそれを行なえ」(20節)。言葉を忠実に伝言することはもちろん、それだけではなく言葉を行うことまでが命じられています。

多分ビルアムは形式的に神の言葉を伝言することを預言と捉えていたのでしょう。神は内容も求めています。ビルアムにイスラエルへの差別があるかもしれません。言葉だけ褒めて、相手の存在を祝福していないかもしれません。「心底から神を代理して呪わないというだけではなく、祝福を行え、そうでなければ罪は戸口であなたを待ち伏せしている」。先進地域に住むアラム人ビルアムへの教育がここにあります。神は対話的です。

 

今日の小さな生き方の提案

十字架と復活の神は、人間の悪だくみや罪をも逆に用いて救いを完成させる方です。弟子たちの裏切りがなければ十字架も復活もありません。バラクの悪や呪い、ビルアムの弱さをも用いて、神はご自分の民を祝福します。

人生は苦い杯の連続です。圧力ばかりの日常の中で、キリスト者としてどのように生き抜くことができるのでしょうか。神が自分に教育的に関わり続けておられることを信じることをお勧めいたします。あえて言えば他人と共に生きるのではなく、神とのみ共に生きることです。どんなに親しい人でも、適度な距離を保ち、神にだけべったりと共に歩むならば何にも動じないはずです。